SS⑥ 突然の来訪者
息子が風邪をひいてしまった。
いつも頼りっぱなしで申し訳なく思う。俺も紗香も家事ができないから、代わりに全部引き受けてもらっている。勉強にも根を詰めていたようだし、いつかこうなるのは目に見えていた。
「困ったな……」
冷蔵庫の扉を開けた俺は、一人つぶやいた。
俺にできることは茹でることくらい。なのに、冷蔵庫の中にすぐに調理できるものがほとんど残っていない。いつも休日にまとめ買いしているようだから、平日でほとんど使い切ってしまうのだ。
「直哉の手料理食いたい……」
38度もある息子に対し、飯を作れと命令するなんて悪行はできない。
「なんか買うしかないよな」
紗香は、夕飯を外で食べてくるらしい。となると、今日の昼食・夕飯は俺が用意するしかない。
――てか、直哉の分もだよな。
病人に対する料理の定番は、当然おかゆだろう。
おかゆ、おかゆか……。
「――無理!」
どう考えても、大変そうじゃん。レトルトのラーメンが関の山の俺にはきつすぎる。
「どうしたものか……」
出前でもとろうか。おかゆも探せばあるんじゃないだろうか。
そんなことを考えていたとき、急にインターホンが鳴った。
俺は冷蔵庫の扉を閉めて、インターホンの画面をのぞき込んだ。
「……誰?」
そこには一人の女の子がいる。
茶髪だ。見た目だけで判断すると、直哉よりも2、3個上じゃないかという感じ。画質の悪い映像越しでも、モデルじみたオーラが伝わってきた。
「……マジで誰?」
こんな子が、うちに来る用事なんかあるか?
一瞬、直哉の彼女という線もよぎったが、藤咲さんという可愛い思い人がいて、さらにこんな美人とお知り合いになるなんてことはありえない。
――とりあえず出てみるか。
「はい」
ボタンを押してそう応対すると、その女性はゆっくりとカメラに向き直った。
「突然すみません。大楠……大楠直哉君のクラスメイトの江南です」
「え? クラスメイト? 直哉の?」
「はい。もしかして、お父様でいらっしゃいますか?」
――お父様。
藤咲さんにそう言われたときの甘い気持ちを思い出す。まさか、直哉って超モテるの?
「そうですけど。その、エナミさん、だっけ。どういうご用事?」
すると、画面越しの女性――エナミさんは、目を左右にスイングしたあと、こう答えた。
「風邪を引いたと聞いて。心配になって、様子を見に来ました。ご迷惑じゃなければ……」
「迷惑なんてとんでもない!」
どうやらいい子のようだ。直哉との関係についてはものすごく気になるけれど、断る理由なんてない。
* * *
「お邪魔します」
驚いた。
本当に驚いた。
画面越しではわからなかったけれど、美人なんてレベルではない。どこの芸能人だと見まがうほどのトンデモ美人だった。
玄関から足を踏み入れたその子は、呆気にとられている俺の姿を見て首をかしげている。
「どうしました?」
「いや……すごいね、君」
素直に感想が口から洩れた。
どうやら、それだけで意味が分かったらしいエナミさんは、少し不機嫌そうな顔になった。
「初めまして。先に言いましたけど、クラスメイトの江南です」
「ああ、はい。直哉の親父です。お見舞いに来たってことかな。直哉は二階だよ」
「ありがとうございます」
先導して階段をのぼっていく。
一歩一歩進んでいくうちに頭が冷静さを取り戻していく。直哉の親父として恥ずかしくない振る舞いができているだろうか。そもそも、来客が来るなんて思わなかったから、身だしなみなんてろくに整えていない。
寝ぐせだけは直してあるが、服装はセーターとパジャマの下。ひげもあまり剃っていない。
――あきらめるしかないか。
ちらっと後ろのエナミさんの姿を見る。
クラスメイトということは、高校生のはずだ。だが、高校生とは思えないくらいに大人びている。遥か年上の俺のほうが緊張しているほどだ。
――本当にただのクラスメイトなのか?
同じクラスだとしても、休日に風邪を引いた相手の見舞いになんて普通行かない。
二階に着き、直哉の部屋の前に来た俺たちは、コンコンとノックをする。
しかし、返事はない。
「寝てるか?」
おそるおそるドアを開ける。
静かな呼吸音が聞こえてくる。直哉はベッドの上で横になっている。返事がないことから察するにもう夢の中かもしれない。
さすがに寝ている最中に話しかけるのはかわいそうだ。今はゆっくり休ませよう。
「ごめんね。今はちょっと……」
言いかけた矢先、エナミさんは勝手に部屋の中に入り込んでしまう。
「え?」
そもそも、プライベートゾーンだから許可もなく入ると直哉が怒るかもしれない。引き留めようとしたけれど、前に伸ばした手が中途半端なところで止まった。
暖かい日差しが窓から差し込んでいる。壁のあちこちに貼られた紙が揺れている。
部屋の中央に立つエナミさんの横顔には、不思議な表情が浮かんでいた。
「……」
言葉が出ない。
病人に対するとき、人はどのような感情を浮かべるだろう。たかが風邪だから、寝ていることを残念に思うとか。あるいは、穏やかに寝ている姿を見て安心するとか。
しかし、エナミさんの顔に浮かんでいる表情は、そのうちのどれでもない。
「……っ」
直哉が一瞬動いたように見えたが、起き上がる様子はなかった。
クラスメイトに気づいていないし、本当に寝てしまっている。
そのとき、エナミさんが口を開いた。
「本当だったんだ……」
さっきの表情から変わらず、そんな言葉を漏らした。
「こうなると思わなかった。ごめん」
どういう意味なのかは分からない。俺が存在していることを忘れているかのように、自分自身に渦巻く感情と熱心に向き合っているようだった。
言葉はまだつづいている。
「なんで、いつも――」
エナミさんは顔を上げた。その視線の先には、壁中に張り巡らされた紙が揺れている。
たまった感情を押し流すようにして、
「そんなに強くいられるの?」
まただ。その表情に浮かんでいる感情が、端から見ている俺にも伝わってきた。
その感情をどう形容するべきだろう。
強いて言うのであれば、寂しそうな、という表現が一番近く思えた。
俺は言った。
「あのー」
するとエナミさんは、はっとしてインターホン越しで見たような落ち着いた表情に戻った。
「……すみません、勝手に入っちゃって」
「直哉には黙っておくよ。それよりも、どうする? あんまりここにいると風邪をうつされちゃうかもよ」
「はい」
気は済んだみたいで、部屋から出てくれた。せっかく来てくれたので、リビングに招いてお茶とお菓子を出す。
「いえ、すぐ出て行きますので」
「まあまあ。せっかく息子の見舞いに来てくれたのに、そのまま帰すわけにはいかないから」
本心だ。だが、目的はもう一つある。
俺は、エナミさんの反対側の椅子に座り、訊いてみた。
「直哉とは、本当にただのクラスメイトなの?」
「……」
すぐには答えが返ってこなかった。
直哉に恋人ができたなんて話は聞いたことがないし、藤咲さんのことを考えてもありえないだろう。じゃあ、直哉のことをあんなふうに見て、話しかけるのはいったいどういうことなんだろうか。
やがて、エナミさんは簡潔にこう言った。
「ただのクラスメイトです。それと――」
お菓子を一つだけ口に含んでから、立ち上がった。
「たぶん、わたしとちょっと似ているだけです」
* * *
夕方くらいに直哉が起きたらしく、二階から降りてきた。スマホをいじりながら、動揺している様子だった。
「親父……まさか、今日ここに誰か来た?」
俺は嘘をついた。
「いや、来てないと思うけど」
「……そう」
直哉は釈然としないというように首をかしげていた。
――似ている、ね。
なぜエナミさんがそのように言ったのかはわからない。俺にはエナミさんと直哉に似通っているところなんてないように思える。
でも、あのときのあの表情は、間違いなく本物だと確信できるものだった。
「どうした、親父」
直哉が訊いてくる。
俺は、なんでもないとだけ答えておいた。
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