第3話

■■■



 駆け寄ることもできなかった。

 疑いようもなく絶命した彼に、残されたわたしは。


 自分が生きている、そのことが、生死よりも深い断絶となってわたしと彼を別っていた。

 藤色の瞳の魔女わ  た  しは、両想いの相手が死なない限り、生き続ける。彼がトラックにはねられて命を失ってもわたしが生きているということは、最期の瞬間、彼がわたしを愛していなかったということだ。

 ――――わたしが、愛されていなかったということだ。


 暗い辻に立ち尽くしてどれだけの時間が過ぎたのか。

 彼の死体は大勢の人に囲まれ、運ばれて、交差点から消えていった。気づけば、制服の警官とトラックの運転手とが、わたしには分からない言葉で様々話しているだけのようだった。

 帰ろう。

 しばらく帰っていない、自分の部屋のベッドが懐かしく思えた。

「ふふっ」

 知れず、笑いが口をついた。

 不老にして不死、あらゆる魔法を従える魔女。それなのに、


「あははっ、あはっ、あはははははっ!」


 こんなにも身体を蝕む絶望と疲労が、滑稽だった。

 死んでしまいたい、狂ってしまいたい。なのに、どちらも不可能なのだ。わたしの身体はどうしたって健康そのもので、愛する人を失っては死ぬこともできない。

 そして、わたしはもう、これ以上ないくらいに狂っている。


 “空を飛ぶわ・よだかのように・姿を夜に染め上げて”……わたしは見えない翼をばさりと羽ばたかせて夜空へ舞い上がった。

 生きることも死ぬことも示さない皮肉屋の半月が、わたしを見失うように。わたしは身体も心も真っ黒になって飛んだ。生き残ったわたしを誰も見つけることのないように!

 

 そして空から、自分――藤野ユウの住むアパートを見つけると、その四階の廊下目掛けて降下した。



■■■



 目が覚めたら、見たこともないたくさんの人に囲まれていた。僕は仰向けで、何処か硬い所へ寝っ転がっているみたいだった。

「大丈夫か、君」

 声をかけてくれたのはよく見れば警官で、僕はますます混乱……する前に、ここまでの出来事を思い出した。

「あ、あのひ、人はっ!?」

 警官は眉間に皺を寄せた。

「意識はしっかりしてる? ……君は一人でここに倒れてたけど、何かあったの」


 警官と野次馬から解放されたのは、それからたっぷり二十分は経ってのことだった。

 通報したらしき年配女性はしきりに悲鳴を聞いたと状況を訴え続け、警官はどうせ引ったくりにでも遭ったのだろう、と、犯人犯人とばかり繰り返した。

 僕にもある程度の一般常識はあるわけで、先程のことも、噛み砕いて常識的な範囲で話したはずである。

 つまり、「悲鳴が聞こえたあと、上から人が飛び降りてきて、自分はびっくりして気絶した」となる。墜ちてきた直後は死体にしか見えなかったとか、魔女と名乗ったとか、そういうことは伏せて話したわけだ。

 それでも、信じてもらうにはそこそこの時間が必要だったのだけど。

 チキショー、殴られたわけでもスタンガンを受けたわけでもない気絶はそんなに珍しいかよっ! ……珍しいんだろうけど!


 やっとの思いで帰りつく頃、時刻はすでに十二時を回ってしまっていた。

 僕の家は四階建てアパートの四階にあって、当然エレベーターなんかはついていない。立地自体が不便なこともあってか家賃はけっこう安く、気に入っている部屋ではあるのだけど……、今の疲労感で階段を上るのは、だいぶ億劫だ。

 思わずため息を吐いて、いやいや幸せが逃げると前を向いたところで、さっきの女の人のことが頭に浮かんだ。


『魔女なので』


 そう言って彼女も、ため息を吐いていた。計り知れないほどの感情をそこに込めて。

 あの不思議な藤色の瞳が、なんだか瞼の裏でちらつく感覚がした。

「なんだってんだ、もう」

 重い足枷を付けられた気分で、僕は四階への階段をノロノロと上がる。


『大丈夫です、このとおりピンピンしてますから』


 涼しげな声の彼女は、その声のとおり涼しげに立っていた。直前、マンションの上から落ちてきたとは信じられないほどに。

 けれど、あの時僕が見たモノは、ぜったいにそんなふうではなかった。

 そりゃあ見慣れてるわけではないのだから、暗がりで見間違えたと言われれば反論もできない。だけど……。



 悶々、というにも暗く、重く、疲れきっては沼へ沈みこんでいくような思考。その片隅で、涼しげな声が幾度となくリフレインする。


『生きてます』


 ――肉の潰れる湿った音。


『死ねませんでしたから』


 ――空へ伸びる腕。


『大丈夫ですよ』


 ――ため息。


『魔女なので』


 ……魔女。

 あのグロテスクとしか言いようのない墜落屍体と、立ち上がった女性の藤色の瞳。否定されなければいけないはずのふたつの繋がりが、考えれば考えるほど別ちがたく脳裡に像を結ぶ。

 悪夢のような矛盾に、魔女ということばが酷く似つかわしい。ありえない、なんて理性のほうが薄弱に感じてしまうくらいに。



 頭上の閉塞感がなくなって、僕は四階までの階段を上がりきったことを知った。

 最近ぶーんという虫の羽音に似た音をたて始めた電灯が、所々で廊下を照らす。そんな慣れきった光景が、今夜はなんだか遠く思える。たぶん、非日常な目に遭ったせいで、気持ちが日常に帰ってくるのが間に合わなくなっているのだ。


 目を閉じて、ちょっとだけ呼吸を整えて、明日のことを考える。

 朝起きて、大学へ行き、講義を受けて、バイトをして。いつもの生活を送るのだ。きっとなにも、今夜のことで変わったりはしない。もうすぐ試験期間だし、レポートも書かなくちゃいけない。僕はもう今夜のことを考える必要はない。

 自己暗示、自己暗示。

 そもそも、考えてどうにかなりそうなことじゃないし、僕にはふつうにやるべきことがある。

 忘れたほうがいいとまでは思わないけど、覚えてたって仕方がない。

 うん、うん、そうだ。

 今日はしっかり寝て、それで明日の講義に備えよう。よしっ!








 ――――だけど、非日常はまだ、僕を放してくれなかった。


 目を開けた僕の視界の先。真っ黒な服の女性が、夜空から廊下へ飛び込んできた。



 夜空のように黒いその姿を見たとき、僕はこの非日常から逃れられないのだと知った。……予感した、のほうが正しいだろうか。根拠もなく、運命のようななにかを、そのとき信じた。

 その姿は間違いようもなく、先程出逢った魔女だった。


 彼女が小さな足音と共に廊下へ降り立つと、纏っていた夜陰の気配は霧散し、まるでただの女の人のように思えた。

 そのまますたすたと歩いていく彼女に、僕は声を出すこともできずにいる。

 ガチャ、ガチャリ、バタン。

 魔女は当たり前のようにひとつの扉を開け、中に消えた。


 えっ……?


 体が凍りついたようになって、ただ目を見開くことしかできない。


 いや、そこって……。


 403号室、掛かっている表札は、たしか「藤野」。

 ――――僕の、お隣さんである。



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僕の魔女の呪い 相園 りゅー @midorino-entotsu

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