第2話

【グロ注意】


■■■




 わたしは魔女だ。恋に恋する不老不死の魔女だ。

 たったそれだけのことのために、わたしは計り知れない量の犠牲を支払ってきた。何度も、何度も、何度も。


 “魔女”と聞いて、あの人たちは何を思い浮かべたのだろう。

 キラキラとした魔法使いの女の子? ひょうたん島の意地悪な老婆たち? 白雪姫の敵役が、一番有名だったかも知れない。

 でも本当の“魔女”というものは、そんなものじゃなかった。

 もっと絶対的で、逃れられなくて、この世のことわりそのものみたいな存在だ。


 あの人たちは、わたしのことを解ってはくれなかった。


 ――――それでも、次こそはと願ってしまうこと。そんなに悪いことなのかな。




 二人で、騒がしい大通りを抜け、ひっそりとした裏の道に入る。街灯と車のライトがぐんと少なくなって、心細さにわたしたちは手を繋ぎ直した。

 月は雲に隠れて、二人を照らさない。

 大丈夫。わたしたちは繋がっているから。想いあっているから。

 だから今夜は、きっと優しい夜。


 目的地の前に着いて、ずっと黙っていた彼が口を開いた。

「ほんとうに、いいんだな」

 わたしは暗闇でもしっかり伝わるよう、大きく頷いた。

「うん」

 少し高い位置の彼の顎を引き寄せて、キスをする。

「いっしょに死んじゃおう」

 彼も応えてくれる。

「ああ、全部終わりにするんだ」

 なんて、幸せで優しい夜だ。


 建設中のマンションは冷たいコンクリートに満ちていた。

 昨夜下見に来たときと同じく、わたし達は縞々のポールやロープを跨ぎ越え、慎重に奥へと侵入した。階段は七階まで上がったところで途切れている。そこから、色んな木材や道具たちの横をすり抜け、まだ塞がれていない壁の穴を目指す。

「ユウ、手ぇ出して」

 外壁の足場まで先にたどり着いた彼に手を借りて、わたしもそこへ降り立った。

 地上三十メートルの鉄の足場。建物全体を覆っている幌は、いくつか結び目を切れば簡単に滑り落ち、二人の前に大きくて四角い窓を開けた。

 夜も更けた閑静な住宅街の、ちらほら灯りの点いた夜景。あの一つ一つ、それから灯りの消えている窓にも、幸せな人々の人生があるのだろう。わたしたちの窓も、今、わたしたちの幸せのために開かれている。

 わたしたちが階段を上る間に雲は晴れたようだ。未完成なマンションの影がくっきりと眼下の家並みに落ちている。月はちょうど背中のほうで、二人の居る足場は真っ暗な影の中。これで、偶然見上げた誰かに見つかることもないだろう。

 風は無かった。


 わたしは恋人の顔を見た。愛しい人。現世うつしよのすべてよりもわたしを選んでくれた人。――――共に死ぬ人。

 彼の声は少し震えていた。

「やっと、死ねる、死ぬんだ」

 そっと彼のことを抱き締めた。

「わたしも一緒よ」

 わたしも彼も死にたがりだ。わたしのほうが少しだけ長く死に損なっているけれど。だけど、今夜、一番嬉しいことは、死ねることじゃなく貴方と翔べること。

「愛してる」

「俺もだ、ユウ」

 最期のキスをして、彼が呟いた。


「来世でも、二人で居よう」


 それを合図みたいにして、彼とわたしは足を踏み出した。墜ちるため翔ぶのだ。繋いだ手の感覚だけを持って往きたくって、わたしは瞼を閉じた。




 ガクンっ、と感じた衝撃は、間髪入れず肩の痛みになった。腕が上に引っ張られている。

 わたしはまだ空中にいた。宙ぶらりん。

 彼は、

 そう思って繋いだ手へ顔を向けると、彼が張り出した建材にしがみついているのが見えた。片手でわたしの手を握ったまま、横の足場へ爪先を掛けようと藻掻いている。

「ごめんっ、ごめんなユウ!」

 ひたすら「ごめん」と繰り返す彼を、わたしは呆然と眺めるしかなかった。

 ……死ねなかったのだ、彼は。

 彼の手がじわじわと汗ばみ、力が抜けてくるのを感じた。

 離してもいいよ、わたしはどうでもいいから、貴方は生きて。、そう、伝えるべきだったのかも知れない。だけど声は出なかった。胸が震えて、何度枯れたか知らない涙が目尻にふくれあがった。

 裏切られた。

 愛していたのに。

 この命を貴方に捧げられると思ったのに。


「ぅあぁぁぁぁぁッッ!?」


 わたしの手がずるりと滑って離れたとき、彼は叫んだ。

 ――だけどもしかして、その瞳の奥に光ったものは、安堵なんじゃないの?


 わたしの身体は、道路のアスファルトへと激しく打ち付けられた。

 始めに接地した右の踵周辺は砕け、大腿はあらぬ方向へ折れ曲がった。次の腰骨も半ばまで粉砕され、背骨が捻れ、肋骨が何本か肺に突き刺さったようだ。左腕は二の腕辺りが衝撃を受けて折れ、肉を破って飛び出しさえした。最後に頭を後ろから打ち、頭蓋骨に巨大な陥没ができた。


 最後まで彼と繋いでいた右手を伸ばす、その先で、彼が無事に足場へ登って姿を消すのが辛うじて分かった。


 ああ、つまり、


「また……死ねなかった……」


 そう、わたしは死ななかった。

 だってこれは決まりごとなのだ。


 ――――砕けて肉へ突き刺さっていたはずの骨が、勝手に各々の場所へ戻っていくのを感じる。ぐちゃぐちゃにされた肺や胸の筋肉が鈍い痛みと共に修復されていき、だんだん呼吸が正常になっていく。左腕はなぜか肉が先に修復されたらしく、ミチミチと音を立てながら骨が元の場所へ潜っていく。頭の陥没はパズルのピースか何かのようにバチリバチリ骨の破片の嵌まる音がしている。

 最後に、流れ出していた血液が戻ってきて、わたしは健康体になった。



 およそ現実的とは思えない、あってはならない現象。冒涜と狂気そのものの光景。

 これは、わたしにかけられた呪い。わたしに課せられた忌まわしい使命の一端だ。


 わたしは魔女。藤色の瞳をした、呪いの魔女だ。

 世の中にわたしのようなモノがどれだけ居るのかは分からない。もしかするとわたし一人だけなのかも知れないと思う。その方がいい、とも。

 老いず、死なず、魔法でありとあらゆる事を成す。出来ないことはたった二つ、死者を生き返らせること。そして、自分が死ぬこと。

 どんな手段で死のうとしても、わたしの身体はわたしの意思に反して再生する。地獄の業火を呼び出して焼身自殺を試みたものの、灰から復活したことがある。


 魔女わたしが死という安寧を迎えるためには、心から愛し合う相手が死ななくてはならない。

 愛し愛されたその人が死ぬときに、唯一、魔女は滅びることができるのだと。その事を、何故かずっと前から知っている。



 ゆっくり上体を起こすと、目の前に慌てふためく若い男が一人いた。見られてしまったのか。

 少し声をかけると、男は間抜けな顔をして気絶してしまった。これが普通の反応かも知れないが、ちょっと、いや大分情けない姿だった。


 ……こんな奴のことはもうどうでもいい。彼はどうしているだろう。

 わたしを愛してくれる人。わたしと共に死ぬはずの人。

 身体の修復にはどのくらいの時間がかかっただろうか。一分、いや一分半くらい? 彼がまだマンションの中に居てくれているならそれが一番なのだけど。

 彼に会わなければならない。愛に懸けて、わたしの呪いを彼に打ち明け、全部をやり直して、そしてわたしたちは幸せにならなければならない。


 “彼は何処?”――そう世界に問いかければ、すぐさまいらえがある。


 マンションの敷地を出て、大通りに向かって走っている。恐らく彼もパニックになっているのだ。わたしの手を放してしまったこと、わたしを裏切ってしまったこと、自分だけが生き残ってしまったということ。誤解を解かなければ。

「わたし、まだ死ねてないよ」

 だから、貴方が気にすることは何もないよ。

 “風のように軽く・速く・走るわ” ……魔法でスピードを上げて、わたしは彼の下へ近づいていく。




 




 最後の角を曲がったとき、けたたましいブレーキ音が響き渡った。

 わたしの視線の先で、彼はトラックに撥ねられ、折れ曲がって飛んでいった。

 ――――即死だった。数えきれない死を見てきた藤色の瞳には、彼の命がもう取り戻せないことが、一目で分かってしまった。


 奇妙なほど明るい半月が、取り残されたわたしを嘲笑っている。



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