二章:鋼鉄侍女のセレナーデ
第一刃 《まがいもの》
清澄で、柔らかく――それでいてどこかもの悲しい。
蓄音機から溢れ出る旋律は、遡ること遥かに四〇〇年近く前の音楽家が紡いだというという
青白い月明かりが差し込む窓辺に腰掛けながら、
この地の冬は、白ロシアの異名から想起されるほどに厳しいわけではないにせよ、しかしそれでも人の身には堪える。それが身重の淑女ともなれば尚更であろう。その推測に首肯するように、暖炉ではパキパキと薪が爆ぜる音を立てて暖かな炎が揺らいでいる。
「――クーカ」
ふと、
この部屋の隅。天蓋のついたクイーンサイズのベッドの上に、声の主はいた。
「お呼びでございますか、奥様」
クーカと呼ばれた
生糸のように美しく艶やかな銀色の髪と、薄ら汗を滲ませた艶やかな肌。奥様、と呼ばれるには余りにも若く、未成熟にすら思えるその肢体はつまり彼女が
「少し息苦しいわ……布団を一枚ばかり、下げてくださる?」
「恐れながら。御身と、御子に障ります」
「こうも重いと、逆に
「左様に仰るのであれば」
仰せ付けられたように、主を包む掛け布団から薄手の一枚を剥いだ。
「……余り変わってはいないのだけど」
「旦那様のお申し付けもありますので、何卒」
「もう! あの人ったら、戦場では威勢が良いくせに、家のことになると途端に過保護で心配性になるんだから」
言いながら、彼女はそっと布団の上から腹部を撫でる。
「――もうすぐ、ね」
「はい。予定日はちょうど七日後だったと、
そこに宿っているのは、新しい命だ。ようやっと人のカタチへと成長を遂げ、外の世界へと生まれ出でる日をまだかまだかと待ちわびている、愛おしい娘。
「女の子かぁ……どんな子かしら。あの人に似て、猪突猛進に育たないと良いのだけれど」
「旦那様は勇猛な戦士でいらっしゃいます。これからの当家を背負って行くには、獅子の如き恐れを知らぬ心もまた肝要かと」
「勇ましさばっかりでお転婆なのも考え物だと思うけれどもねぇ……」
とくん、とくん、と。
小さな心臓が確かに脈打つのを感じながら、彼女はそっと瞼を閉じた。
「ん……眠くなってきた。クーカ、レコードを止めて。カーテンはそのままで良いわ」
「かしこまりました」
命ぜられるままに、真鍮のトーンアームを音盤から持ち上げる。途端に流れていたシューベルトの調べは失われ、部屋には静寂が満ちてゆく。
「ありがとう。……ねぇ、クーカ?」
主の邪魔にならぬよう部屋を後にしようとしたとき、寝しなの彼女から名を呼ばれた。
「なにか御用向きでございますか、奥様」
「この子がちゃんと生まれてきたら――そうしたら、友達になってくれるかしら?」
「……」
その申し出に、
従者としては誉れの極み。主から全幅にして最大の信用と親愛が籠められた、命令。
だが。
「……いいえ、奥様。それはいたしかねます」
どことなく悲しそうに顔を歪める主に、それでも返答は取り消さない。
何故ならば――
「――私は、
これから生まれてくる
時は魔鉄歴一三年、一月四日。
今となってはヴァンゼクス連邦の一角へと編入されて久しいベラルーシの、その片田舎での出来事である。
†
時は移ろい魔鉄歴三〇年。
厳冬の地から遥か、極東の名で呼ばれる小さな島国――日本皇国へ。
「――で?」
九つある
街を歩けば衆目を集めるであろう銀の髪を二つに結わえ、透き通るように白い肌を黒地にフリルをあしらった貴族服に包んだ彼女は、しかしその芸術的に整った顔立ちを今は憤怒の形相に歪ませていた。一触即発、とはまさしくこのことである。
レイラ・グロリアーナ・ベラルス。
かつて「世界統一」を成し遂げた、空前絶後の
さて、そんなやんごとなきご身分であらせられる彼女は先程から何に向かって怒っているのか。
答えは、この部屋にいるもう一人が握っていた。
ボサボサ頭に無精髭。景気も健康もクソ喰らえと言わんばかりに陰気な顔つきをした、齢三九の男がいる。
高辻真一。本来であればレイラの担任教師であり、パートナーたる製鉄師であり、そもそもの部屋の主であったはずの彼はと言えば、お怒りのグロリアーナ以下略殿下へむけて蛙の死骸のような土下座を向けていた。
原因は主に、真一の寝相である。
さて、ここで諸兄のイメージを手助けするべく言葉を尽くすと、まず六畳の狭苦しい部屋に分不相応に巨大なベッドが鎮座しているわけだが、これがまさに事件の現場だった。
半月ばかり前、とある皇国史的大事件を辛くも解決へ導いた真一とレイラは、以降このベッドで起臥を共にする――真一の名誉のために述べておくと、字義以上の意味は無い――ことがしばしばあった。
無論、それはレイラの機嫌が良いときに限られるのであるが……ともあれそういう機会も多く、真一としては青い猫型ロボットと同じ就寝スタイルから人権の獲得に至ったと喜びを以てその改革を受け入れたわけだが、ここで誤算が一つあった。
まあ平たく言えばこの男、壊滅的に寝相が悪いのである。
寝るときは左側だったのが朝起きると右側だった事など日常茶飯事。羽毛布団は蹴り飛ばされ、枕を足にと天地無用の大回転もしばしばという様子である。
然して昨晩。常のようにその阿鼻叫喚な寝相を遺憾なく発揮した真一は遂に、ベッドの上から己が契約魔女を蹴り落とすという凶行に及んだのである。
というわけで。
「温情で入れてあげていたら、つけ上がって……!」
「……この度は大変申し訳なく」
「御託は良いの!」
「……」
どうしろというのか。「私がなんで怒ってるか分かる?」「怒らないから言ってごらん」辺りに並ぶ理不尽さを感じながら、思わず真一はむくれる。
そんな真一の様子にレイラは額に手を当てて溜息を吐いた。
「……まあ、いいわ。ほら! さっさと顔を上げて朝食の準備しなさい!」
「へいへい……」
もはや完全に召使い扱いだった。
蹴り飛ばしたことは勿論あるだろうが、基本レイラは朝が弱く、この時間帯は機嫌が悪い。以前、ココアを所望されたときにたまたま切らしていて、代わりにしこたまミルクと砂糖で甘くしたコーヒーを出したらキレられた経験がある。
取りあえず冷蔵庫のタッパーに保存してあった蒸かし芋をレンジで温め、その間にフライパンでソーセージとベーコンを炒める。以前はといえば三食カップ麺も珍しくなかったので、必然的にこのお嬢様の分まで食事を作るようになってから食生活は改善の兆しを見せているのは怪我の功名か。
予めセットしておいたトースターから食パンが跳ね上がると同時に、電気ケトルが湧き上がったことを知らせる音を鳴らす。皿に焼き上がった肉とパン、芋を盛り付ける片手間で棚からカップを二つ取り出す。自分の方にはインスタントコーヒー、レイラの方にはココアのパウダーを投入し、ケトルから湯を注ぐ。スプーンで一掻きすれば芳ばしい煎り豆と甘いカカオの香りが混ざり合いながら立ち上った。我ながら随分と手際が良くなったもんだ、と思う。
「ほらよ」
「……ふん。真一にしてはまずまずね」
出来上がった料理を差し出すと、ソーセージを頬張りながらレイラが眉を顰めた。
「折角作ってやったのに何だその言い草は」
「当たり前でしょ? 私のメイドなら同じ食材と同じ時間でももっと上等なモノを作れるわ」
「……さいですか」
流石に本物の使用人と比べるな、と文句の一つでも言いたくなるが、そこをグッと堪えて自分もマグカップに口をつける。分量を誤ったか、些か薄い。
そこでふと、違和感に気づいた。
「そういえば、お前のメイドさんってたまに話題に上るけど、今はどこでなにやってるんだ?」
“ウチのメイド”。
真一の家事諸々にケチをつけるとき、必ずと行って良いほどレイラの口から零れる言葉である。
最初の頃は当然、それはお屋敷みたいなところにいる使用人軍団の事だろうと思っていたが、日々の会話を重ねる中でどうやらソレが『レイラ専属のメイド』という一人のことを指す言葉らしいという事が分かってきたのだ。
その時はスケールの違いに唖然としただけだったが、こうして落ち着いて考えてみると、ではそのご自慢のメイドとやらは今どこにやっているのかという疑問がふつふつと湧いてくる。……ついでにそいつがいりゃ俺が家事をすることもねぇのにな、と不埒な考えが頭をよぎったが、これは悟られてはならない。
が、レイラの反応は意外なものだった。
「……わかんない」
「は?」
首を横に振る彼女に、思わず手元のトーストを皿の上に落とした。
「一ヶ月とちょっと前、大陸からこの島国に来るための船に乗る直前に、狙われてね……彼女は、その時に追手を防ぐために残って、そのままどうしてるか分からないの」
そう語るレイラの瞳に、寂寥の色が潜んでいるように思えたのは気のせいか。
同時に、声の調子や表情にはおくびにも出さないのが、彼女の気丈なところだ、といえるのかも知れないが。
「私がお父様やお母様と離れ、亡命先を求めて各地を転々としていたのが九歳の時。その時から彼女は私についてきてくれたのよ」
「……そうか。悪いこと訊いたな」
「ううん。どうせあの子のことだもの。すぐに蹴散らして、今頃なんとかここに来ようと頑張ってるでしょ」
謝ると、レイラはそう言って笑ってみせた。だがそれはいつもの彼女らしい力強い笑みではなく、ニヘラとした、一目で作り笑いと分かるモノだ。こういう時、むしろさっきまでのように「察しなさいよ、甲斐性無し!」くらい言ってくれた方がむしろやりやすいと感じてしまう――
(いや。いやいやいや!)
そこまで考えて、真一は激しく頭を振った。
これでは、まるで罵倒されることを望んでいるようではないか。幾ら教え子と契約を交わしたとは言え、流石にそこまで罪深い性癖を抱えた記憶は無い。無いったら無いのだ。
「いきなりなにやってんの? 気色悪いわね……」
「うぉおい、今このタイミングでそういう言葉を口にするんじゃねぇ! 実証されかねんだろ!」
「……?」
突如として首を擡げた変態疑惑に煩悶とする真一を見て、レイラが若干引いたように言う。そこに一瞬安心感を覚えた自分が憎らしい。
そんな悩める四十路のオッサンを救ったのは、激しいがなり声を上げる固定電話だった。
……果てしなく面倒ごとの予感がひしひしと伝わってくるが、取らないわけにはいかない。
「はい、高辻」
『あん? なんだ、この時間に起きてるとはお前。どんな心境の変化だ? いよいよ歳を自覚して、健康で健全な生活に目覚めたか』
受話器を耳にした瞬間、いきなり失礼な発言が耳に飛び込んできた。
印象だけならば一三から一四頃の、女の声だった。
そして真一にとっては、
「……そう言う理事長先生様は、こんな時間から電話を掛けるくらいに元気なようで。老人特有の早期覚醒か?」
かつては義勇軍・
鋼の魔術が跋扈する乱世にあって、ただ弁舌によって己が地位を確立した魔女。
『あァ? 魔女の肉体は老化せん。学園の長に相応しく、規則正しい生活を送っているだけだよ。妬むなオヤジ』
「俺より倍は生きている癖に……」
『あまり女性の年齢に触れ続けると災いが起こるぞ。主に貴様の収入にだ』
横暴だった。雇用者と被雇用者を隔てる絶対的な壁の存在を改めて認識させられた気分だった。思えば〇世代時代の暗音も、基本は仕事の斡旋や魔鉄器の仲介などでその地位と権力を固めていた節がある。資本主義とは斯くも冷酷なシステムなのだ。
そこで、ふと真一はある可能性に思い当たった。
「わざわざ電話を掛けてくるってことは、
そういうこと、とはつまり、製鉄師としての仕事である。
理外の鉄・魔鉄を上位世界たる霊質界への階梯とし、魔女との二人一組で造り上げる超常の術――
製鉄師とは、その鉄脈術を振るう異能機構の片割れを指す。その強大な力を医療や建築に資する者もいるが、彼らの殆どがその居場所とするのは戦場。則ち荒事の当事者として君臨するのが常だ。
そして、真一も教師であると同時に、そういった製鉄師の一人。事実としてつい数週間ほど前、彼とレイラは紆余曲折を経て、皇国を揺るがす大事件を未然に防いだという実績もある。
果たして、その予想は当たっていた。
『なんだ、お前にしては察しが良いな』
「……普段からあんだけ扱き使われてれば、そりゃな」
こめかみを押さえる。ゆっくり過ごせると思っていた休日だが、朝からレイラに怒鳴られたり、暗音に仕事を押しつけられたりと散々だ。
「で? どんな仕事だよ」
『うん。概要は移動しながら話そうか』
「?」
眉を顰めた瞬間だった。
ピン、ポーン……と、ドアベルが心なし控え目に鳴る。
玄関を開けてみれば、そこには低身長且つ童顔の女性が、ピンク色のジャージ姿で荒い呼吸をしていた。誰かと思えばいつも暗音に連れ回されている新人社会科教師、中里美玲だ。
「はぁ……はぁ……高辻先生ぃ、お届け物ですぅ……」
走ってきたのだろうか。たいそう疲れた様子で差し出してきたのは、SFに出てきそうなメカニカルなデザインのスノーボートじみた板――近年、皇国民の間で普及している、反重力を利用した移動装置・エアボートだ。
いまいち状況が飲み込めずに目を白黒させる真一に、受話器越しの声は簡潔に命令を下した。
『美浜区の貿易港に厄介なものが持ち込まれた。至急、これを排除しろ』
「チッ、大分やられてるな……」
慣れないエアボートで海上を渡りながら、目的地の惨状に呟く。全身を叩きつける風を吸い込むと、磯の匂いと仄かな塩っぽさが口腔を満たした。
どうやら貿易船の積荷に件の下手人は潜んでいたらしい。コンテナターミナルでは既に火の手が回っているようで、不気味な黒煙が狼煙のように立ち上っていた。
「シンイチ、見えた! そのまま真っ直ぐ!」
腕の中に抱いたレイラが、双眼鏡を手に叫んだ。彼我の距離は一キロメートル強。今の速度で行けばちょうど一分後には到着する。
「了解、っと」
言いながら、真一は懐から柄を取り出す。魔鉄鋼糸で編まれた柄巻に、龍と鳳の透かしが掘られた鐔を持つそれは、魔鉄器と呼ばれる異能の起爆剤。
「いくぞ! ――
「ええ! ――
引き金たる起動句に、送りの詩が続く。次の瞬間にはレイラの身体は赤錆色に染まり、リボンのように解けたそれが収斂。
顕われたのは、緋色の刃。刀装具を纏わぬ剣が、魔鉄器の柄にカチリ、と収まる。
「
己が魔女が変じた得物を担ぎながら、真一がその鉄脈術の名を世界に示した直後だった。
エアボートの首がグッともたげる。眼前には埠頭。その段差を感知した自律制御AIが、自動的に反重力場の出力を上げたのだ。
潮で濡れたコンクリートの上に足をつける。
さて、暴れている製鉄師はどこのどいつだと辺りを一瞥して――気がつく。
件の下手人の姿自体はすぐに見つかった。
だが。
「なんだ……?」
思わず疑問が口から漏れた。
人、ではない。
そもそも、人の形をしていない。
まるで、大昔に流行ったというペットロボットのようだった。
目につくのは四つん這いになった四肢。足――否、
則ち。
狼を模した絡繰りが、群れを成してコンテナを貪っている……!?
『呆けてない、来るわよ!』
「ッ、チィ!」
脳内に響くレイラの声に、我に返って刀を構える。
飛び掛かってきたのは鋼の狼、その一匹だ。鳴き声のようなものはなく、ただ後ろ脚で高く跳び、鋭い爪をこちらに振り下ろし――。
ゾンッ!! と。
しかし、先に振るわれたのは錆色の刀身の方だった。
《……ッ!》
断末魔すら発することなく、一刀の下に別たれた鉄狼が力なく落ちる。快調。水も溜まらぬ切れ味だ。
同胞が目の前であっさりとやられたことで、他の狼は真一を「脅威」と判断したらしい。怯んだ様子もなく、徒党を組んで一斉に飛び掛かってくる。
だが――
「ワリ、獣と戦うのも初めてじゃないんだわ!」
一匹目。大腿を狙って前方右下から。眉間に切っ先をぶち込んで黙らせる。
続く二匹目。今度は左。狙いは肩。返す刀で胴を断ち切る。
受けて三匹。回って背後で首筋に噛みつく。振り向きざまの一閃で横一文字に斬りつける。
レイラの補助で現界まで研ぎ澄まされた感覚と〇世代として積み上げてきた戦闘経験。その二つの調和は、もはや超感覚の領域で敵の行動を先読みする。
「……よし」
血振るいの後、構えを解いた。周囲に他の敵はいない。
「これで全部……な訳ないよな。取りあえず騒がしい方を――」
『シンイチ!』
叩きつけるようにレイラの声が響いた。
直後に。
ギャッリィイッ!! と。
直上から振ってきた一撃を、咄嗟の判断で受け止める。
赤い刀が火花を散らす向こうで、強襲の正体を睨めつける。鐔競り合う向こうの得物は、掌から伸びたブレード。鋼色の肉体は先程の狼と同じだが、しかし肉食獣を思わせるしなやかな四肢とそれが形作るシルエットは決定的に違う。
人型。
目に見えて分かる、格の違い。
「チッ! 早速親玉の登場か?」
舌打ちをして、刀を強く押す。弾かれるように鋼の獣人も跳躍。空中で一回転して音もなく着地する様は、さながら鋼の暗殺者だ。
スラリ、とその両掌から再び伸びるブレード。恐らくは前腕の中に仕込まれているのだろう。それは暗に目の前のこれが装甲を纏った人間というような、真っ当な存在ではないと言うことを示していた。
どことなく女性的なそのフォルムの中で、異彩を放つ頭部。ヘルメット状のクリアパーツの奥から、無機質なカメラアイがこちらを真っ直ぐに見据えてくる。
額に汗滲ませながら得物を正眼に構えた時、レイラ声が脳内で震えた。
『シンイチ。私、コイツを知ってる……!』
「あんだって!? ――っとォ!!」
思わず訊き返した。その隙に肉薄してくるブレードを皮一枚で回避する。
『今朝話したでしょ! ウラジオストクの港で、私達を襲ってきたのがコイツよ!』
「おいおい、なんでそんなヤツが日本までやってきてんだよ!」
言い合いながら、追撃のもう一振りを受け流して懐に潜り込む。鼻っ面を渾身の力を込めた柄頭で叩く。
相手が人なら昏倒ものだが、そう上手くは事は運ばない。首こそ大きく後ろへ傾いたが、意にも介さずお返しとばかりに放たれたローキックが、真一の腹部に突き刺さる。
「ぐ……ッ」
『シンイチ!?』
転倒だけは避けたが、踏ん張った靴裏とコンクリートが擦れる音が聞こえた。大きく吹き飛ばされたのだ。
案ずるレイラの声を宥める暇すら、敵は許さない。獣じみた速度で再びの肉薄。先程もだが、速すぎて予測が追いつかない。
「クソッ!!」
血の混じった唾を吐いて、相手の手に注視する。厄介なのはあのブレードだ。どちらが動く? 右か、左か。
ブレードの揺れる先が定まる。狙いは眉間だ。咄嗟に刀身を斜めにして予測で見えた軌道を覆い隠し、
グリン、と。
視界が揺れた。
「……あ?」
顎を肘で殴打されたのに気づいたのは、背を半壊したコンテナに打ち付けられた後だった。
ブラフ。甘かった。ブレードへの警戒でそれ以外の攻撃への対応が疎かになっていた。
モロに打撃が脳まで伝わったせいか、焦点がブレる。刀を杖代わりになんとか立ち上がるが、足下が覚束ない。
そして、そんな絶好の機会を見逃すほど、相手は甘くない。
「ッ!!」
ブォンッ!! という風切り音に、ほとんど反射で首を横に傾ける。
直後、数瞬前まで真一の頭があった位置にブレード突き立てられた。避けきれずに掠ったこめかみから、生温かくドロリとした感触が滑り落ちる。
そして、次の一撃は首の真横に突き立てられた。
「ぐ……!」
浅く皮が避け、血が滲む。襲撃者は尚も無言。しかし確かな殺気――否、もっと無機質な殺意を滲ませながら、ゆっくりとその両腕に力を込めていく。このまま二本のブレードを鋏のようにして、真一の首を刎ねるつもりなのだ。
『魔鉄の加護』に守られているとはいえ、相手も魔鉄。どこまで耐えてくれるかはわからない。
ジリ……ジリ……と刃が肉に食い込んでいく感触に、嫌な汗で背中がぐっしょりと湿っていく。
まさしく、絶体絶命。
さしもの真一も死を覚悟した――その時だった。
「やらせません。『
横合いから、声が聞こえた。
女の声だ。いっそ冷たいほど涼やかで、凪いだ湖畔の水面のように静かな声。
直後に。
ダガンッッ!! と、目の前に新たな刃が割り込み、真一を拘束していたブレードを叩き折った。
「がっ……ケホッ……」
首を押さえ肺の空気を浅く吐き出しながら、闖入者の方を見る。
振るわれたのは、大剣。目測で一四〇センチはあるだろうか。日を呑もうとする
次いで、その持ち主の方へと視線を移す。
そこにいたのは一人の女。
底冷えするように冷たい蒼銀の髪とエメラルドグリーンの瞳。外観からは二十に届かぬばかりと見受けられる彼女は、余りにも整いすぎていてもはや人間離れすらしているその身体をゴシック調のメイド服に包み、静かに佇んでいた。
『うそ……』
愕然とした声を上げたのはレイラだった。
対する謎の女もまた、朱い刀をちらりと一瞥した後に眠たげな眼を少しだけ見開いたように見えた。
《……!》
一方、あからさまに警戒の色を見せたのはブレードを折られた襲撃者だ。得物を失った拳を構えながら、後ずさるようにメイドから距離を置く。
それを大剣の女は睥睨して、一言。
「退きなさい。今は互いに、戦闘よりも優先すべき事項があると推測します」
《……》
その言葉が、決定打だったか。
獣人が高く跳ぶ。だが、今度はこちらに飛び掛かるためではない。その逆。大きく後ろに飛び退き、破損したコンテナ群の中にその姿を消していく。
後に残されたのは、蒼銀のメイドと真一のみ。
「……アンタ、誰だ?」
よろめきながら問いかけると、彼女がこちらを向いた。エメラルドグリーンの瞳が真一の姿を認める。
だが、彼女が何かを言うよりも早く、こちらの刀が光の糸となって解ける。レイラが、鉄脈術を終了したのだ。
「お、おい……」
戸惑う真一。しかしレイラはこちらに振り向きもせず、メイドへと走り寄り――
「クーカ!」
――彼女に、はしと抱きついた。
「……は?」
突然の出来事に、目を白黒させる真一の前で、メイドは優しく、慈しむようにレイラの髪を撫でながら一言。
「お久しぶりです、お嬢様」
「ちょ、ちょ……ちょっと待て!」
困惑を極めたのは真一だ。思わず微笑ましい邂逅の場に、割り入るように声を上げる。
「お嬢様? って事はつまり――」
「お嬢様の、ご契約者の方と存じ上げます」
再び、クーカと呼ばれたメイドがこちらを向く。
彼女はその装いに偽りなしと示すように恭しく礼をしながら名乗った。
「お初にお目に掛かります。私は、統一貴族ベラルス家に仕える
ユア・ブラッド・マイン -錆びた刃のレクイエム- 真倉流留 @ChinRyu
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