エピローグ 《帰る場所》

「――以上が、今回の一件における聖銑学園の報告だが。疑問点のある者はいるか?」


 照明の落とされた部屋で、黒崎暗音は長い報告文をそう締め括った。

 執務室ではない。最上階でも奥まった場所に設置された、聖銑学園で唯一窓のない部屋――特別会議室だ。

 暗がりの中に浮かぶのは、八つのモニター。

 赤、うぐいす、藍、黄に紫。それぞれ思い思いの色を映し出したその上には、八つの校章が浮かび上がっている。

 ここで問題。

 特別会議室とは、何が「特別」か。

 答えは則ち――日本皇国に存在する九つの製鉄師養成学園。そこから聖銑を除いた八つの、その理事長たちとの会議の場だった。

 静寂を破ったのは、赤いモニターからの声。野太く粗野な印象を与える、男の声だった。


『ん、ああ……難しいことはよく分からん。なにせこっちは拳一つでの成り上がりでな、そういうのは頭の良いお歴々で調整してくれや』


 丸投げ姿勢のその答えに、失笑したのは藍色のモニターだ。魔女アールヴァとしても幼めな声が嗤う。


赤守あかがみは相変わらず知性の欠片もないな』

『ぁンだとォ……?』

「喧嘩は二人で仲良くやってくれ――茉莉ジャスミン、藍花」


 赤守茉莉ジャスミン天竜寺てんりゅうじ藍花。聖奏学園と聖観養成所のトップの張り合いは今に始まったことではないが、まさか両者二代目に至ってなお受け継がれるとは思いもしなかった。あるいは、逆にお互い二代目同士だからこそ、というものもあるのかもしれないが。

 こめかみを押さえると、今度は鶯色のモニターから穏やかな声が響く。


『――それで。肝心の侵入者……ヴルツェルといったかな? 彼と契約魔女の身柄――さらに言えば「皇国の至宝」とやらはどうなったんだい?』

「報告書の通りだ、鶯。現場を掘り起こしてみたが、影も形もなかった」


 優男風の口調に反した可憐な声。札幌にある聖晶学園理事長、ともえ鶯のものだった。

 そう、問題点はそこだ。今回の下手人であるヴルツェルは、その魔女や神鏡を持って忽然と消えてしまったのだ。

 ……真一が最後に見た、という光景から大方の予想はついているが。


「恐らく、魔女側が今際の際にみせたと言う冥質界カセドラル物質界マテリアルを繋ぐ力――それで、自分での世界に行ったのではと予想されるが……真偽は不明だ」


 死体が出ない以上、消息不明という扱いをせざるを得ない。同時に、身柄も確保できなかったと言うことはライオニアとの作戦は失敗に終わったということだ。連携作戦の報酬を減額できると向こうの高官が気色ばんでいたのを思い出すとはらわたが煮えくりかえるようではあるが、こればっかりはどうしようもない。


『しかし、秘密のお宝なぁ』


 老境に至り、しかし野獣じみた豪快さを滲ませる声は聖刀学園の無名異むみょうい七紫ななし。この中では、暗音との関係が最も古い一人でもあった。


『そんな話、吾輩は聞いとらんかったぞ。全く』

『無名異の爺さんに教えたら、溶かして鍛造に使われるとでも思ったんじゃねぇの?』

『あっはっは、あながち否定できないのが酷いね』


 ぼやく七紫を茉莉が茶化し、鶯が苦笑いする。どこかの高校の教室みたいな光景だが、これは紛れもなく、将来的に我が国の防衛を担う製鉄師ブラッドスミスたちを育てていく、九つの学園のトップ連中なのだ。

 そしてこれを教室に例えるのであれば、この渾沌とした連中をまとめる委員長然とした人間もいるわけで。


『――ともかく』


 場の喧噪を、清澄な声が治めた。

 馴染み深いの声にふっと口元が弛む。

 また幾分か大人らしくなっただろうか。魔女故に身体は成長しないはずだが、そんな印象を抱くのは、その内面が成熟を重ねた証か、あるいはただの感傷か。何しろ、自分は相手を文字通り乳飲み子の頃から知っているのだから。

 凜とした、しかし落ち着きも兼ね備えるその声の出所は、鮮やかながらも深い青。刻まれた校章が示すのは、東京にある全ての製鉄師養成学校の総本山だ。

 則ち、聖玉学園理事長・相浦あいうら紺碧あおい


『今回の一件、一度宮内庁に問い糾す必要性はありそうですね。なにしろ、私ですら報告を受けていなかったんですから』


 そうなのだ。

 七紫や暗音のみならず、茉莉ジャスミンに鶯や藍花も、自分たちの牙城の下に国宝級の宝物が眠っているなどと言うことは知らされていなかった。中には鉄脈術リアクター魔鉄鍛造スヴァルトに反応しかねない代物まであるにも関わらずに、だ。

 九つの学園の長が、全員揃って把握していなかった。戦時の混乱で伝達が行き届いていなかった、というのには些か無理がある。


『うーん。おじさんも初耳だねぇ。まさか自分の庭の下にそんな貴重なもんが眠っていたとは』


 軽薄そうな初老の男の声。これは大阪・聖憐学園の白崎しらざき典厩てんきゅうだろう。その実態は、印象とは異なり、〇世代ワイルドエイジ後期にはめざましい活躍を見せた優秀な製鉄師の一人だった。まあ、その割には私生活はだらしないらしく、よく魔女がぼやいていたのを憶えているが。


『しっかしまあ、そう気を揉むこともないか。どうせ、すぐに


 典厩の言葉に暗音も頷く。


『はてさて。お役人ども、一体何を隠しているのやら――』

『ま、どのみち行き着く先は一つだな』


 珍しく、茉莉ジャスミンと藍花が異口同音に笑う。

 他の五つのモニターからも、獰猛な空気が流れ出していた。

 ……何故宮内庁がこれらを秘匿していたのかは知らない。もしかすると、他にも秘匿に加担した人間がいるのかもしれないが、その理由などはどうでもいい。

 忘れたか。ここにいるのは九匹の怪物。人の身にあって、製鉄師へいきどもを導く頂点たちなれば。

 くくっ、と黒い魔女は喉を鳴らす。


「私たちを謀ったんだ。相応の報いは覚悟して貰うぞ?」


 それが合図のように、一つまた一つとモニターの電源が切れていく。それぞれの獣たちは、爪を研ぎながら宮内庁が隠蔽していた秘部を暴こうと動いていく。

 ――ああ、愉快だ。

 その様を想像して、暗音は自分の口の端が釣り上がるのを感じていた。なにしろこの自分までも欺こうとした者どもへ、国家最高峰の魔鉄ブラッド・スティール技術関係者が一斉に牙を剥くのだから。

 思わず漏れそうになる哄笑を、しかし暗音は堪えた。

 客人が、まだ一人残っていたからだ。


「……で? お前はとうとう回線の切り方も忘れるほどにボケたか? 七紫」

『おうおう、相変わらず黒崎の小女郎の辛辣さは相変わらずか』

「互いに小女郎だの小童だのいう歳か、全く……要件はなんだ」


 彼の前だと、築き上げた『未通後家ヴァージンウィドウ』の仮面も自然と外れてしまう。なにしろ六〇年来の付き合いだ。相手はまだ何もできない無力な乙女だった頃から自分を知っているのである。

 だからこそ、突きつけられた言葉に頬が引き攣った。


『うむ、手短に言うぞ――黒崎。お前、何を焦っている?』

「――――」

『思えば、今回の一件。随所で貴様にしては不手際が目立っていたな』


 穏やかな、それでいて豪放な。相反する印象を併せ呑んだ声が、暗音に問いかける。


『いきなり生徒を戦場に連れ出したのもそうだが、それ以上にライオニアとの事前連絡が上手くいってなかったとはどういうことだ。特使が来るのは知っていただろう? 何故出迎えなかった。そうすれば街中で鉄脈術の斬り合いなど起きんかったろうに』

「……」

『もしや、最初からそれを狙っていたか? いやそもそもとして、どうして統一貴族グロリアスなどをホイホイと受け入れた? わざわざそれにつがいとなる製鉄師をあてがう? 黒崎暗音は、そこまで面倒見がいい女ではなかろう?』

「……、貴様には敵わんな」

『当然よ。何年お前に付き合ってきたと思っている』


 ほうと溜息を吐く。

 どうやらこの老翁には、正直に話しておいた方が良さそうだ。


「――春先からが来日しているのは、流石に聞いているな?」

『おうとも。それが原因でここ最近、ヴァンゼクスやらアクエンアテンやらが粉かけて来とるわけだからな』


 以前に述べたように、大陸でにらみ合いを続ける主要超国家ドミニオンの中には、ラバルナ帝国の残滓を不要とする者や、逆にどんな手を使ってでも欲しいという存在も多い。特にヴァンゼクスなどは一枚岩ではなく、タカ派も多い超国家である。

 ……おかしいとは思わなかっただろうか。何故、レイラ・グロリアーナ・ベラルスという仮にも統一貴族の令嬢の来日に際して、テロの一つも起きなかったのか。

 それは、皇国の中でも極限られた人物にしか知らされていない情報。各超国家の首脳陣がこの小さな島国へ一斉にその視線を向けて斥候を放っているその理由。

 そんなもの、統一貴族すら霞むビッグネームが、既にこの国にいたからに他ならない。


「ラバルナ帝国直系皇女――マリア・アンナ・ラバルナ」


 ポツリ、とその名を呟く。

 かつて存在した統一超国家ワールドエンド・ドミニオン。その君主に連なる当代の皇女まさにその人。

 それが、件の人物だった。


『して、それがどうした? 今は聖玉にいる天孫陛下の妹君と、あと……なんと言ったか……ああそうそう、確か神凪とかいう小僧の預かりだそうだが』

「……現段階で、確証はないが――」


 椅子を回す。

 これから話すのは、飽くまで直感に過ぎない。故にこそ、徒な混乱を避けるために一人で推し進めていたのだが。


「――奴が来てから何か大きなうねりがこの国に生じている……近々、が起きる。そんな気がしてならないんだ。それも今散見される敵国製鉄師の侵入すら比にならん、それこそ皇国を転覆させかねんほどの何かが、だ」

『……なぁるほどぉ』


 通信機越しの七紫が、得心したように息を吐く。


『つまり、アレだな? その時に備えて、手駒を増やすことを急いたというわけだな?』

「……ふん」


 鼻を鳴らす。指摘の通りだった。旧知はこれだから面白くない。


「来たるべき日に、取れる選択肢は多ければ多いほど良いだろう」


 備えはあって困らない。例えそれが杞憂に終わったとしても、だ。


「それに、生徒を鉄火場に放り込むのは何も私にとっては急いた結果ではないぞ」

『?』

「養成学校? ハッ!」


 口を突いて出たのは、嘲笑じみた吐息だった。


「例え学校教育を卒業したとして、巣を出たばかりの若鳥に何が出来る。そんなものは未精錬の銑鉄ずくてつだ、砂粒ほどの役にも立たんさ」


 つまりはそれこそが聖銑――否、の校名に籠められた意義。

 学校という決められた線路をなぞり、お約束の範疇で仲良く喧嘩するに過ぎない箱庭からようやく羽ばたいただけでは、実用に足る「鋼」には足りないという思想。


『……だとすれば、連中がそこからさらに研鑽を積む場所はどこだ?』

「戦場だよ。極限化、予測不能の命の取り合いをくぐり抜けてこそ、製鉄師と魔女は真に二人一組ツーマンセルの兵器として完成する」


 最もな疑問に、しかし暗音は即答した。

 あるいは、それは本当の戦場で死に物狂いで戦い、己を磨いていった〇世代たちを背負った『未通後家』の矜持であったのかもしれない。

 ……だが。

 同時に、そこには省みられない人々がいる。

 敗北した者たちには、一切の尊厳は認められない。ただ落伍者と切り捨てられ、その屍を荒野に埋めるのみ。


『はて、さて』


 その残酷なまでに熾烈な生存闘争論に、魔鉄加工技師ドヴェルグの翁は顎をさすった。

 ――その言葉を聞いた暗音が、どんな表情をするか知ってか知らずか。


『随分とまあご大層な話だが、果たして「あいつ」がそれ聞いたら、何と言うかなぁ……?』

「……要件はそれだけだな?」


 次に黒色の魔女から漏れたのはは、一切の感情を廃した平坦な声だった。


『おいおい、随分とつれない――』


 返事を最後まで言わせる気など無かった。手元のボタンで強制的に電源を落とされ、モニターは沈黙する。


「……」


 最後一つの光源すら途絶え、完全な闇に落ちた部屋の中。

 黒崎暗音は椅子の背もたれに身を預けながら、もう一人、今はもういない旧友へと思いを馳せる。

 青臭い理想に燃え、青臭い希望に殉じた、蒼穹の如くどこまでも青いその男の名前を。


 聖銑学園の契約魔鉄器は、校章のレリーフとそれを取り囲む三羽の鴉。

 その由来については多くの憶測があった。

 曰く、三貴子みはしらのうずのみこ

 曰く、三層世界。

 曰く、製鉄師と魔女と魔鉄加工技師。

 けれども、そのいずれにも暗音は頷いたことはない。

 真実は、今となってはたった二人の“当事者”だけが知っている。





 終業を告げる鐘と殆ど同時だった。

 ガダダダダダダッッッ!!!! と、机と椅子がぶつかり合い喧しい音を立て、教室のドアを三人の刈り上げ男子生徒が駆け抜けていく。

 ……既視感すら感じるその光景に、内心で深く溜息を吐きながらホームルーム中に教室を出て行った三馬鹿の名前を叫ぶ。


「杉内、築地、両角! お前等まだ懲りんのかアホたれ!」

「タカティー勘弁してください!」

「今年の甲子園で聖玉に負けたから、先輩がガチなんですよ!」


 下らん学校間対立に熱を上げるくらいならせめてホームルームくらいきちんと参加しろ、という言葉は結局届かなかった。相も変わらずすばしこい悪ガキどもである。

 頭を掻きむしりながら手元の資料に目を落とす。ゴシック体の見出しには、こう書いてあった。

《旧・川崎皇国製鉄所崩落事故に伴う諸注意》。

 見慣れた地名にギクリとした。

 ……崩落の原因は一般には伏せてある。勘の良い連中はここ数日の喧噪と合わせて何事か鉄脈術がらみの事件が起きたのだろうくらいまでは予想できているようだが、まさか「あと数歩間違えれば冥質界と物質界の一部がひっくり返ってました」なんて夢にも思ってはいないだろう。

 何よりも宮内庁や八重鐵グループのトップシークレットが関わっている以上は、そうそう公開できる情報でもない。実際、読み進めれば、予想通り概要については適当にぼかされていた。


「あー……知っての通り、旧川崎皇国製鉄所で崩落事故があった。老朽化が主な原因とみられ、依然危険な状況には変わりない。休日に蘇我へ出かける者も多かろうが、生徒諸君は近づいたりしないように……以上!」


 野次馬根性旺盛な連中がぶーたれるが、気にせず学級委員の水戸に目配せをした。

 号令を聞き届けてからそそくさと教室をあとにする。生徒たちはこれで「今日も一日お疲れ様でした」だろうが、こちとらこれからが面倒な仕事なのだ。

 とっとっと……と早足で追いかけてくる気配がある。

 そちらを見るまでもなくその正体は分かっていた。


「シンイチ! ほら、急ぐわよ!」


 生意気にも教師を呼び捨てにするソプラノ・ボイス。勢い余ってケツを蹴っ飛ばしてきそうな迫力すら感じさせるそれは紛うことなく、この半月ばかりで散々に自分を引きずり回してくれた銀髪のご令嬢のものだ。


「だー、もう! うるせえな、言われるまでもなく分かってるよ、レイラ!」


 腕時計を見ると、午後の四時。手早く支度を済ませてギリギリ間に合うかといった所か。

 何に?

 ロッテとリーテことキャロライン姉妹の、出国の見送りである。




「――高辻殿! レイラ殿!」


 成田市三里塚にある、皇国第一国際空港。皇国の玄関を自負するだけあって近代的に洗練された意匠の、その国際線ターミナルに到着した直後に、名前を呼ばれた。

 そちらを向けば、長身に金髪ポニーテールの少女と改造浴衣にショートヘアの少女という二人組がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。言うまでもなくロッテーとリーテである。

 その右腕にはもう無骨な登録証OICCはない。既に返却した後なのだろう。


「わざわざお見送りして頂けるとは……かたじけない」


 スーツケースを引きながらやってくるなり、ロッテが頭を下げてくる。

 襟からわずかに覗くその首筋には、もう痛々しい変色の後はなかった。リーテの予想が、辛くも的中した証左だ。

 そのリーテはと言えば、申し訳なさそうに首をすくめるばかりだった。


「……期待されてわざわざ海を越えてきたというのに、足を引っ張るばかりで……ごめんなさい」

「いや、ヴルツェルの接敵に一番早く気づいたのはそっちだし……なにより、最後の瞬間、助けに来てくれてなければ今頃俺たちはぺちゃんこだ。礼を言うのはこちらの方さ」


 崩れた鉄塔から間一髪のところで真一とレイラを救ったあの立方体は、後から聞くとロッテから強く申し出てきたということだった。

 それについて礼を述べると、彼女は照れくさそうに頬を掻く。


「高辻殿たちが命を張っている間に、私だけ寝ているというのはどうしても出来なくてな……武士道は死ぬことと見つけたり、というやつだな」

「しかし、お互い災難だったな。あれだけ大変な目に遭ったのに報酬減額ったぁ……」


 苦い顔で呟く。

 ヴルツェルが「行方不明」の扱いな以上、当初の目的――身柄の確保は完全に失敗という扱いになる。その影響は、戦闘員の真一たちにまで及んでいた。

 わかりやすく言うと、成功報酬分がまるっと出ないことになってしまったのだ。暗音も愚痴っていたが、いくら何でもケチ、もとい商魂が逞しすぎやしないかライオニア商業連合。


「さもしいわね、シンイチ。それこそ武士は食わねどなんとやらでしょ!」

「お前、そういういらん言葉ばっかりはよく覚えるのな……」


 レイラに背中をバンバンと叩かれて、思わずげんなりした。コイツの言語教育の是正を図らねばならぬ、と珍しく教師らしい使命感に燃えている真一を彼女は満面の笑みで見上げた。


「それに、前金は出るんだから良いじゃない。クロネも状況を鑑みて奮発してくれたみたいだし!」

「本当にそれだけが救いだけどな……」


 レイラの言うことは本当だが、それ以上に得たものが何かあったかと言われるとそうでもない。

 魔鉄乙女ブラッドメイデンだって、あの状況だから出来たことだ。今後使える可能性は限りなく低いし、なによりあれで鉄脈術が成長したわけではないというのが痛い。詠唱に生じた変化も一時的なものだったらしく、気づいたら元に戻ってしまっていた。

 錆びた刃は再び眠る。次の目覚めはいつ頃か。

 ……あるいは、これも譲る気は無いと宣言しに来た楓花の、精一杯の「意地悪」なのかもしれない。


「私たちだって良い体験が出来た。叶うならば、またこの国に学びに来たいと思えるような、ね」

「そうそう。黒崎殿も、機会があればいつでも留学用の籍を作ってくださると仰ってくださったしな」


 頷くロッテとリーテの姉妹。死にかけたのだから普通は二度とゴメンだと思っても良いくらいだが、こういう反応が出てくるあたり肝っ玉が太いと感心させられる。

 ……生徒としては問題児なので、もし仮に、万が一、本当に留学してくるようなことがあればできるだけ受け持ちたくはないと思ってしまうが。


「――高辻殿」


 フライトの時刻が迫った。

 名残惜しいが、否が応でもやってくるのが別れの時間。その締めくくりに、ロッテがそっと手を差し出してきた。


「また、こんな私たちでさえお役に立てることがあれば、いつでもお呼びつけくだされ。不肖キャロライン姉妹、いつでも馳せ参じ此度の大恩に報いる所存」

「……ああ。今のところ、知り合いで現役の製鉄師じゃあ一番安心して背中を預けられるしな。そっちこそ、何か困ったら連絡しろよ」

「かたじけない」


 隣では、リーテとレイラも握手を交わしていた。

 ――先程、得たものがないと言ったが、どうにも見当違いだったらしい。


「それでは――さようならCiao。また会える事を、心から願って」


 最後はやはり外つ国の人間らしい、キザな挨拶。

 そうして手を振りながらスーツケースを引く彼女たちの姿は、やがて雑踏に紛れて見えなくなった。


「……さて!」


 特使の見送りという大任を終えて、レイラがくっと背伸びをする。

 とん、ととん。

 踊るようにその場で身を翻しながら、銀髪と紅い瞳の少女がこちらを向いた。エスコートを命じる貴婦人の如くこちらへ手を差し出す。その表情は、ぱっと花が咲いたような笑み。

 チロリと八重歯を覗かせながら、その唇が告げた。


「帰りましょうか、私たちの家に」

「……あいよ。お嬢様の仰せの通りに」


 もう頷くのに拳銃はいらない。なぜならば、そこは正真正銘、彼女レイラと自分の家なのだから。

 新たな門出を祝うかのように、ターミナルを出たその先、黄昏に沈みゆく空の境界に臨む山は鮮やかな紅葉に染まっていた。

 今日は一〇月一二日。関東では、楓の葉が今年で最も鮮やかに色づく日である。

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