第3話 虎の威を借りる

S県F市小学校4年2組 二宮 仁(にのみや ひとし)記



トラが突入したはずの教室は思いのほか静かでした。僕は気になり様子を伺いに抜き足忍び足で近づいていくと、突然「ガターン!」 と大きな音がしたと同時に、

「うぎゃああああああああ!」

と激しい男の悲鳴が辺りに響き渡りました。

次の瞬間、その声の主と思われるD先生が肩口から鮮血を噴霧させながら僕の前に現れました。見ると左肩からその腕がまるごと欠損しておられました。どうやら先のトラに食い千切られたのでありましょう。先生はよろけて五、六歩移動した後、そのまま廊下に御倒れになられました。

そのときのD先生は物凄い形相で僕に対し何か言いたそうに口をパクパクされてました。しかし、ここでまたも僕は一種不思議な意思に導かれ、考えるより先に体が動きだしました。僕は瀕死の先生の上着から教室の鍵を探し当てると、素早くそれでトラが居る教室に施錠すべくドアに駆け寄りました。そのとき窺った教室内は、トラが先生に成り代わり黒板の前で生徒に睨みを利かせ、クラスのみな様は恐怖に硬直したのか、神妙に着席していました。

僕はなんなく教室前方のドアをロックし、続いて教室後方のドアを閉めようとしたとき、単独ほふく前進でドアの一歩手前まで接近していたS水くんと目が会いました。僕は彼に一瞬微笑みを送りながらも、一思いに断絶のドアを閉めました。そのとき垣間見たS水くんの憤怒を帯びた鼻水の顔が今だに忘れられません。しばらく扉ごしに何やら訴えるようなガシガシ叩いて揺さぶらん音がしていました。

しかし、次の瞬間、

「ガオー! グルルルルルー!」

「きゃぴぃいいいいいいい!」

とけたたましい猛獣の咆哮と獲物の断末魔が交錯し、

ドア上部の曇りガラスに鮮血が叩きつけられるのを目の当たりにした僕は、S水君との永遠のお別れを確信せずにはいられませんでした。

このきっかけをもってか、トラもいよいよ肉食獣の本領を発揮し、一大ジェノサイドを開始したようでした。

「グガガオー! グギュルルルルルー!」

「どたーん! ばたーん! ずばっばばばばーん!」

にわかに教室内は大騒ぎの超絶大パニックに陥りました。

「きゃーーーー!!」

「うわああああああ!!」

「ぎゃーーーーーーんっ!!」

と哀れな生贄たちの悲鳴に混じり、衣服やら骨肉やらが千切られる音が耳に聞こえてきました。

中の様子が気にならなくはなかったのですが、騒ぎで他のクラスの先生が来る面倒の前にと、僕はその場から姿を消すことにしました。

踵を返すと今だ瀕死のD先生が、僕に絶えず凝視の顔色を外さずになさっておられるので、ひとつ僕は気を利かせ、葬式のとき故人のお顔に掛ける白い布(すこし気は早いという懸念はありますが)を先生への最後の恩返しにと思い、しかしながら、そうそう都合よく白い布などは持ち合わせておらず、ここは僕のパンツ(洗濯中の)をそれに見立てて先生のお顔にベチょっと載せて差し上げました。すると先生は安堵したか、はたまたガッカリしたかのように頭をおうな垂れになられ、そのまま動かなくおなられました。それだけ確認すると僕はガッツポーズ、ではなく合掌をすると、いつになく軽快な足取りでその場を後にいたしました。


反対側の校舎の屋上から、クラスの窓を覗くとすでに事後の様子でした。

教室の床は真っ赤な血の海で、転がった机や椅子の影にクラスメートのものと思われる食い千切られた手足や臓器等がいくつか確認されました。なんでも後の報道で、死者16名、負傷者21名の大惨事とのことでした。

畢竟、僕はこの騒動で「ウンコヒトシくん」になるのを回避し、その代わり十数名のクラスメートが名実共に「トラのウンコ」になるといった顛末とあいなりました。

しかしこの生きとし生けるものの摂食という行為はなんとも無様で滑稽でおぞましいのでありましょうか。これなら逆に排便のほうが静謐で理性的とすら考えられなくもないでしょうか。これは人間も同様に、破壊と生産の輪廻転生が固体の消化器官で完結する神秘。


「食べて→ウンコする→僕元気!」


そのうち救急車やパトカーが校舎を囲むように何台も押し寄せてきました。僕はトラの姿を捜していましたが、見つけることは叶ませんでした。後で聞いたニュースによると、そのトラは依然行方知れずで、さらに遠い未来においても亡き骸すら発見されることはとうとうありませんでした。僕は犠牲になったクラスメートよりも、かのトラの心配をしている自分に気付き、自分の本性がいかに残酷で身勝手なものかを知りえて、自分こそまさトラになってしまったのだと自覚いたしました。いえ、トラの殺戮や殺生は捕食、固体の生命維持のため、しかし人間のそれの多くは歪んだ思想や精神のため。本当に恐れるべきは人間なのかと……。

とか、などと、僕はいろいろな懸想をしているうちに空腹を感じ、「今日のバンゴハンは何だろう?」、

「どうせ明日は学校が休みになるな。ラッキー!」などと、眼前の一大事件もとっくに意識の外になっておりました。目に染み入るような夕焼け空にD先生やS水くんらクラスメートの笑顔がふと浮かびました。


やがて時が経ち、確かに忘れ難きことなれど僕自身特段にトラウマ(トラだけに)になることもなく、そういえばそんなこともあったっけくらいの出来事になってしまったこの僕のトラ事件。

あえて一言云うなれらば……。


「禍福はあざなえる縄のごとし」


と最後はそんなトラに何ら関係のない言葉で〆させていただきたいと思います。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トラが来た 天現寺宰星 @tengenjen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ