第2話 虎穴に入らずんば
S県F市小学校4年2組 二宮 仁(にのみや ひとし)記
トイレの蛇口でパンツを洗っていると、母がマジックで書いた「ヒトくん」の文字が見えました。
僕は、いっそう大きく溢れくる落涙と嗚咽に身悶えしながら、
「お母さん、あなたの可愛がってくれたヒトくんはもういません。今ここにいるのはウンコヒトシです。
ウンコを漏らした人間はもはやウンコと同じです。僕は本日を持ってウンコとして生きていかなければならないのです。さようならお母さん、さようなら僕。そしてウンコ人生よこんにちわ。……ひぐ、ひぐ、ひぐぐうううう!」
と失意と悲嘆のどん底にいた僕に、驚くべき運命の大カタクリズムが、今まさに展開されようとしていたのでした。
何気に、いえ、何か不思議な糸に手繰られてでしょうか、ふと3階のトイレの外を見た僕の目に映ったもののは、とても信じがたい驚愕の光景でした。
なんと校庭のほぼ真ん中で一対一で対峙している人間と大きな四足の動物の姿だったのです。
その人間のほうは我が校の用務員、Yさんでした。
また、一方の大きな四足の動物は世に言うトラに間違いございませんでした。
Yさんは平素は温厚篤実な好々爺でおられましたが、このときばかりは勇猛な一面を発揮され、バケツを頭にかぶり、モップを大上段の構える様は、まさしく加藤清正トラ退治の再来の如しでありました。その御気概に気圧されてか、一方のトラは戦闘体勢はとったものの、すぐには飛び掛れずにしばらく膠着しておりました。
すかさず僕は、やはり何か不思議な衝動に突き動かされたかのように行動を開始しました。同時に僕の脳内には戦闘開始のサイレンと、「トラ、トラ、トラ」との掛け声が響き渡りました。僕がすべきこと、それは友人の援護と敵目標への攻撃です。すかさずトイレの清掃具置き場から数個の洗剤の容器を手に取り、それを攻撃目標に向け勢いよく投げつけました。
「攻撃目標! 用務員Yさん!」
この場合敵と断定したのは用務員Yさんでした。
普段は極度の運動オンチ(この場合もウンチ)だったはずの僕も、このときは神がかり的なコントロールとスピードをもって、自身もかなり驚きだったと記憶しております。投擲したトイレ用の洗剤は初弾は外れたものの、第二弾、三弾ともYさんの頭部と肩口にみごと着弾し、あらかじめ外しておいたキャプ部分から飛散した中身の薬品(まぜるな危険)がうまい具合にYさんの目鼻に二次的被害をもたらし、さらなるダメージを与えるといったみごとな戦果となりました。
まさにYさんが両の目を覆い体勢を崩した瞬間、跳躍したトラの前脚がYさんの頭部を強打致しました。頭から地面に叩きつけられたYさんはそのまま重たいトラに覆いかぶされ、身動きが出来ぬ首元に大きな牙を深々と突き刺されました。そして二、三回手足を大きく痙攣させるとそのまま動かなくなってしまわれました。
勝負あり!
Yさんはそのままトラの餌になるかと思えました。しかしそのトラは、二三回Yさんの少しばかりの肉片を咀嚼してはおりましたが、何故かその後は食が進む様子もなく、しまいにはまるで「ふー」と溜息まじりに「これじゃないんだよな」と云わんばかりの表情をすると、そのYさんから顔を背けてしまいました。そのまますでに絶命されたと思われるYさんを四足で跨ぐと、しばらく辺りをキョロキョロと見渡しておりました。
そのときでした。僕はそのトラと目が合ったとき、僕は3階のトイレの窓から精一杯の親愛の笑みをもってそのトラにこう叫びました。
「おーい、トラさーん! こっちにもっと美味しいものがたくさんあるよー!」
トラは一度頷くと、まるで僕の言葉を理解したかのように渡り廊下の入り口から僕の教室のある校舎へと入っていきました。
僕はそれを見届けると、激しい興奮でしばらくその場を離れることができませんでした。
感情を落ち着かせ、思考を整理するのに今だ時間をとられていると、トイレの鏡ごしに蠢くその影をちらと確認しました。僕はドアの隙間からそろりと様子を窺いました。
まさにそのトラの後ろ姿が確認されました。捕食者の足取りで僕がドアを開けっ放しにしてきた我が教室へ進んでいくまさにその瞬間でした。
そのままトラは首尾よく4年2組の教室に入っていきました。まるで僕の意思が乗り移ったかのように我がクラスへと一直線に。ネコまっしぐらならず、トラまっしぐらでしょうか。僕はさらなる胸の高鳴りを抑えることができませんでした。恐怖ではなく期待に……。
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