トラが来た

天現寺宰星

第1話 虎の尾を踏まず

S県F市小学校4年2組 二宮 仁(にのみや ひとし)記


2回目の大きな便意の波が押し寄せてきたとき、僕はもはやこれまでと観念しました。

そしてひたすら数字やら記号やらを板書し続けている先生に対して、

「D先生、トイレに行かせてください」と挙手をし発言したのです。

するとクラス全体に、訝しげでありながらも好奇に満ちた動揺が生じ、

とたんに教室の空気が良ろしからぬ状態に変化する様子が感じとれました。


……しばらく沈黙が続いたあと、その算数担当のD先生は、

「今授業中なんだけどなあ」と実に厭そうに対応したのです。

実はこのD先生がとんだくわせ者で、極めて陰湿で意地が悪いと評判のイカレクソ教師であり、

案の定、僕の満を持した勇気と決断の申告に、快諾するどころか露骨に否定的な立場を明らかにしたのです。

このとき僕は便意も手伝ってか、D先生への旺盛なる殺意が湧く様を覚えました。

さらに、D先生はこうも続けてきました。

「大かね? 小かね?」と。


ここで、僕はこの質疑に対し、返答に慎重にならざるを得なくなりました。

まず、正直に「大」答えるのは、クラスメイトから強烈な揶揄や糾弾の対象となるのは明らかでした。

そうなのです、小学生が校内のトイレで大便を排泄する行為は、もってのほかの禁忌。

そこ行為が発覚すれば、クラス内のヒエラルキーの低下、ひいてはイジメの対象になることは古今より常套のコンコンチキなのですから。

しかし、仮にここで嘘をついて「小」と答えた場合、クラス内の風評被害は軽微ですが、

D先生から「我慢しなさい」とトイレ行きそのものを否決却下される畏れが多分にありました。

そこが至極難しい判断でした。


とっさに僕は苦し紛れに、

「あ、あの、 し、小…。 小と云いますか、  …その、少…   大を少々…」と半ば消え入るような声で答えました。


D先生は、なんだか腑に落ちぬ顔色で暫し黙考しておりました。

このとき、便意が限界に達していた私は、この心無いD先生への殺意ももはや限界に達しようとしていました。


そうです。それが、いけなかったのです。

まさにその殺意が僕を油断させたのです。

括約筋、それをコントロールする脳梁や神経系が、

強烈な便意と殺意の情報を同時に処理出来なくなったのでしょう。

何やらおしりの底から「ブチっブチっ」と音がしました。


つい、「いけね、おならが出た」と思いました。いえ、その時の僕ははそう思いたかったのでしょう。

しかし、運命は残酷です。次の瞬間僕のパンツの後ろに確かな重量感を覚え戦慄しました。

見て確かめるまでもなく、生暖かい、固体物ないし軟体物が今そこに在るという事実。

具が… 出た。


この世の時間が止まりました。

万事休す。事態は最悪。



ただならぬ気配に、すぐさまクラス全体に動揺の波紋が広がっていきました。

すかさずお調子者のS水君が、鼻先を手の平で扇ぎながら、

「なんかひとし君ウンコくせーぞ! くっせー」と断罪への第一声を発したのです。

これを合図に教室内は大パニックに陥りました。

両隣の女子は無言で机を1.5m~2m位それぞれ逆方向へスライドさせました。


「ウンコもらした」

「ひとし君がウンコもらした」

「ウンコひとし君だ」


などとクラスメイトの侮蔑と、嘲笑と、多少の憐憫の情とが混濁したウンコもらした大合唱処刑大会が始まったのです。

多少、仲のよかったM原君も鼻先にパーで臭気を追い払う格好をしながら、大ウンコ漏れ合唱団員に加わってました。

それを見て、少し悲しかったけど、もちろん彼を責めることなどはできませんでした。


D先生が、やはり鼻先を片手で扇ぎながら、

「トイレに行ってきなさい」と云うのを背に僕は廊下へ駆け出していました。

その時は、もう何も考えられませんでした。

ただ、重くなったおしりを両手で押さえながらヒョコヒョコ走っていると、

あまりにも自分がカッコ悪く惨めに思えてて涙が溢れてきました。

その涙を拭おうとした手があまりにもウンコ臭くて、

僕は本当に取り返しのつかないことをしてしまったことを再認識しました。


ちょうどそのとき、学校の入り口を、とある大きな動物がウロウロしていたことを、僕は知る由もありませんでした。

その動物とは、大型のネコ科の肉食動物であり、黒と黄色の縞模様でお馴染みの、


「トラ」でした。


なぜか、そのトラは誰にも気付かれずに、しごく悠然と校内に入ってきました。


肛門からウンコが出ましたが、校門からトラが入ってきました。

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