「耽溺」
果てしなく、澄み渡る世界を彼は悠然と進んでいた。
周囲を見回しながら、お目当ての『穴場』を探索する。
『穴場』とは彼が名付けた食事場の事だ。
神出鬼没でいつどこに現れるかわからない。しばらく、嗅ぎ回っていると僅かに穴場独特の臭みが鼻先に触れた。
嗅ぎつけた幸運と希望を胸に、散策していくと徐々に匂いが強まってきた。
糸を手繰り寄せるように発生源の元に向かうと、少し盛り下がった谷底を発見した。
底に目を凝らすと、多くの来客が既に食事を貪り食っていた。
彼らの意識の先には、虚ろな瞳で横たわった史上最大級の生物。最近、絶命したのか全体的な形は綺麗に残っていた。
静かに降りていき、鋭い歯が並列した大口を開く。一見お粗末な食事だが、彼のプライドと生命活動を繋ぐ重要な事である。
来客達はそんな彼を見て、距離を置いて食事にありついている。
当然だ。彼のような存在は本来、ここにいるはずがないのだから。
「やあ、久しぶりだね」
声のする方に目を向けると、彼の友である腕長がいた。
腕長は彼がこの生活を始めた際に出会った友である。
「隣、失礼するよ」
彼に一礼すると、その隣で数十倍も小さな華奢な腕で、器用に食事を取り始めた。
彼や腕長以外の連中も我先にと頬にご馳走を詰めていく。
「どうよ。最近は?」
「ぼちぼちかな。まあなんとか飯食っていけているよ。この生活の仕方は俺に合っている。無駄な血を流さなくて済むからな」
彼やその近縁達は大量の食事を摂取する必要がある。そして、新鮮なモノを好む。
しかし採れたてのモノを求めるという事は誰かが血を流すという事だ。
それは殺生を好まない彼にとって、容認出来るものではない。
「調達はリスクが大きい。向こうだって必死に反撃してくるし、仮に怪我をした場合、他の連中に狙われる危険性もある。この体に生まれた以上、他者を傷つけることは避けようがないのは分かっている。でもどうしても考えてしまうんだ。どうしたら傷つけずに生きていけるのかを」
遠い目をしながら抑揚のない声で呟く。この生活スタイルを同族に目撃されて、白い目で見られることもあった。
しかし、それでも殺生は最低限で抑えたいのだ。
数年前、本能に身を任せて獲物を喰らって、弄んで周囲を鮮血で真っ赤に染め上げた事があった。
目標からほのかに香る獣の匂いと僅かに漂ってくる血の匂い。
肺腑の底からふつふつと込み上がる多幸感が何より彼の心をくすぶった。
獲物を発見した時は目の前にまっすぐに伸びた光の道が見えた気がした。
血液とは彼にとって、ヘロインやコカインなどと同一。一度、鼻に通せば最後。果てしない高揚感と多幸感に包まれる。
食欲がある程度満たされた頃、彼の意識が徐々に冷静になっていった。
周囲に獲物の四肢が散らばっており、鮮血と泡沫が頭上を覆っていた。
その時、近くには獲物の家族らしき者が、声にならない声で泣き叫んでいた。
その断末魔にも似た叫び声が、今も脳裏に色濃く焼きついている。
知らなかったのだ。自分にここまで残酷で無慈悲な一面があったことに。
そして、潜んでいた残虐性が露わになり獲物を玩具のように扱い、恐怖で蹂躙して殺した。
彼は自分という存在の残虐さに心底、絶望したのだ。
それから調達に意欲を見出せなくなり、現在のような生活に至った。
「でも、あんまり堪えすぎるのも毒だと思う」
「忠告は感謝するよ。ごちそうさま」
彼は腕長の言葉から逃げるようにその場から離れた。
友の主張も決して間違いではない。むしろ正論なのだ。
しかし、血を目にするたびに脳裏で凄惨な光景が映像のように流れる。まさに悪夢だ。
「おい」
不快な気分に苛まれた彼に追い打ちをかけるように、過去の亡霊の象徴である同胞が声をかけてきた。
この者は彼が屍肉を中心に食い始めたと聞きつけてから、彼をいびり始めてきた。
傲岸不遜な態度を取るため、彼は避けていたのだ。
「相変わらず、屍肉ばっか漁っているらしいじゃねえか」
同胞が彼をじろりと睨みつける。気にも留めず横切ると、静かに横を並行してついてきた。
内心、煩わしさを感じたものの、無視を貫いた。
「おいおい、無視してんじゃねえよ。なんであんなナヨナヨした奴らが食うようなもん食ってんだよ」
「何をどうしようと俺の勝手だろうが?」
「ふざけるなよ。お前みたいに狩りをやめて、屍肉ばっか漁っているような奴がいるだけで、俺達のメンツに関わるんだよ」
「俺達って誰の事を指してんだよ。お前の中での話だろうが。周りの目ばかり気にしているなんて、窮屈な生き方だな。図体はでかいのに随分と小心者なんだな」
挑発と怒気を交えた口調で煽ってくる同胞が心底、哀れに思えてきてしまった。
この広い世界に生まれたのだから、生き方ぐらい自分で決められるというのに。
すると彼の挑発に憤りを感じたのか、同胞が目を血走らせて、勢いよく彼の横腹に強烈な頭突きをした。
奇襲に思わず歯を噛み締めて鈍痛に耐える。
当事者である同胞は悪びれもせず彼を睨みつけていた。
このような傲慢な者は自分の思い通りに物事が運ばなければ、すぐに業を煮やすのだ。
距離を取ろうとした時、続けざまに頭突きがした。二度目は彼のこめかみ部分に強烈な一撃が加わり、脳内がぐらついた。
揺れる視界と明滅する意識。思わず吐き気もこみ上げてきた。
グツグツと音をたてる怒りを抑え込み、無視を貫いた。
彼にとって同胞は自身の穏やかな一生を邪魔する存在だ。意識を向ける事すらも時間の無駄なのだ。
「あんな雑魚どもと群れやがって! 腰抜けが!」
同胞は罵詈雑言を浴びせた後、彼から背を向けた。
同胞からの嫌がらせで荒れた心を落ち着かせようと彼は腕長との出会いを振り返ることにした。
調達にも嫌気がさして至るところを放浪していた時である。
鼻腔に餌の匂いが漂ってきた。しかしそれは新鮮な肉とは違い、新鮮さがない臭いだ。
臭いの元を辿っていくと、巨大な何かが横たわっていた。
自身の倍以上の大きさはある生き物の死骸だった。これからは死肉を食らうことになるだろう。
そう思いながら彼が口にしようとした瞬間、多くの視線を感じた。視線の方に目を向けると小さな生き物達が怪訝そうな目で見ていた。
「そうか、ここは俺がいていい場所ではないのか」
彼がポツリと呟いて、死骸から距離を開けた瞬間、小さな者たちが我先にとその死骸に群がっていく。
静かにその場から離れようとした時、彼を呼び止める声が聞こえた。
目を向けると腕長が彼を不思議そうに見つめていた。
「君も食べに来たの?」
「ああ、でもこういう場所は君達のような小さな生き物の生命線なんだろ? なら俺が関与すべきでないと思ってね」
自身は小さな者たちからすればよそ者でしかない。
彼らには彼らの場所があり、自分には自分の居場所がある。当然のことだ。
「まあ君は体が大きいからね。最初は僕も驚いたけれど、さっきの謙虚な様子を見て、悪いやつじゃないんだなと思ってさ」
彼は目を丸くした。そんなことを言われたのは初めてだからだ。
これまでは自身の同胞以外には避けられて来た。
だからこそ小さな存在である腕長の発言には驚いたのだ。
「一緒に食べようよ」
「いいのか?」
「うん」
腕長の寛容さに心が震えた。硬く、重い鎖のようなものに拘束された心が次第に解れて、和らいでいく感覚がした。なんて優しいんだろう。
その日から彼と腕長は懇意の仲になった。多くの場所を共にして自身が死骸を食べる原因を話した時に親身に聞いてくれたのだ。
数日後、放浪していると饐えた臭いを嗅ぎ取った。
彼はすぐさま、臭いの元を辿っていくとにした。近づくにつれて臭いが濃くなり、同時に彼の食欲も高まって来た。
きっと腕長も到着している事だろう。友と再び、食事を共にできる。
胸の中で高鳴る喜びを感じながら、向かっていた。臭いを辿り、到着したとき、異様なほどの違和感に襲われた。
何かがおかしい。言葉にし難いほどの焦燥感が体の中を駆け巡り、彼の背中を押した。
いつもはこれでもかとご馳走に群がり、賑やかな雰囲気になっているはずなのに静寂だけが漂っている。
いや、静寂だけではなかった。血の匂いだ。ゆっくりと辺りを見渡すと思わず、絶句した。
腕長が胴体を真っ二つにされた状態で横たわっていたのだ。
それだけではない。他の来客も、四肢や頭部が欠損したりなど見るに耐えない無残な姿で散らばっていた。
眼前に広がる惨状に動揺を隠せずにいると、背後から聞き覚えのある不快な笑い声が聞こえた。
「これで居場所がなくなったな。後、別の場所に行ったとしても俺は同じことを繰り返すぜ」
「これをやったのはお前か?」
「ああ」
同胞の返答を聞きながら、彼は目の前で横たわる友を見つめ続ける。
腕長。彼を唯一、気にかけてくれた親愛なる友だ。
そんな優しい心の持ち主を惨たらしく殺した同胞を彼は殺意すら可愛く思えるほどの憎悪が湧き上がり始めた。
「全く。こんな屍肉ばっか貪り食っている奴と肩を並べるなんてな。どうかしてるな、ハハ」
その時、彼の中で何かがぷつんと音を立てて、切れた。
ぼんやりとした視界が時間をゆっくり進めるように徐々にはっきりしていく。
辺り一面が赤一色に染まっていた。血だ。
膨大な血液が壁のように目の前を遮っているのだ。血はどこかから放出されているようだった。
匂いの元を辿っていくと、真下に同胞が仰向けに倒れていた。腹は引き裂かれたように開いており、中から臓物が発露している。
眼前に広がる酸鼻な光景に思わず、吐き気がこみ上げてきた。
自分だ。この惨劇を招いたのは紛れもなく自分だ。周囲には同胞の肉片と湧き出る鉄の匂いを帯びた赤黒い液体。
何度も目にしてきた。見たくも嗅ぎたくもない狂気の起爆剤。
彼が本来、求めるべき香りであり、最も遠ざけたい香りだ。
しかし、本能とは自分の意思とは反するもので、魅惑的な香りが再び鼻孔を満たした。心の底から沸き立つ欲望を抑えようと必死に頭を振る。
誰にも心に理性と本能の天秤を持っている。普段は均衡を保ち、微動だにしないものだが外部からの刺激により大きく傾くことがある。
彼は今まさに理性と本能の渦中で、侵食してくる誘惑と必死に葛藤していた。
誘惑を振り払おうと血眼で、頭を何度も振り回しながら、円を描くように動き回る。
しかし、鼻に纏わりつき一向に離れようとしない。ここまで来ると自身が求めているのではないかと、疑念を抱いてしまいそうになる。
彼自身、薄々この時が来るのを分かっていた。世界は誘惑で満ちているのだから。
本能に身を預けていれば、当然のように過ごすことが出来るが、離反すると大きな脅威に変わる。
多数派から少数派に移動するということは自身の命や存在価値を脅かしかねない博打なのだ。
「何を恐れているんだ?」
暗い意識の中に聞き慣れた声が波紋のように広がっていく。
声は溶けていき、また次の言葉が暗闇から距離を詰めてくる。
「当たり前の感情なんだよ。何故己を否定し続ける?」
脳裏に重く言葉がのしかかる。そうだ。何を躊躇っている。ただ元に戻るだけではないか。
そうしたら、葛藤もあの香りに苛まれることもない。全てが丸く収まる。
しかし、ここまでなんのために耐えてきた意味が無くなってしまう。
それだけは避けなければ。二律背反の狭間で激しい葛藤に苛まれる。
迷っているという事はつまり、どちらも自分の願望なのだから。
きっとどちらも間違ってはいない。謎の声は脳内に波紋のように広がっていく。
じわじわと湧き上がる不安感にまるで拍車をかけるように。
ああ、このまま本能に身を任せたら、どれほど楽だろうか。邪な思考が脳裏をよぎる。
惨めとは思わないか? ただ、死肉を漁り続ける日々は?
後ろ指を指されて冷笑の対象にされるのは。快楽に耐えるという事は首を絞めるという事だ。
順応出来ている者は気道を上手く確保しているだけだ。
未知の快楽を知るとそれを欲する。幾ら死肉で漁り、誤魔化そうとしても決して満たされない。
灼熱の太陽が照りつける広大な砂漠に放り出された気分だ。
とめどないほどの渇望に苦しめられる。現状で満足していると自分を偽り続けて、次第に言動に粗が出始める。
そして、今、彼の理性は着々と音を立てて、崩れ始めている。
どんな御託を並べても、どれだけ自己欺瞞を重ねても、本性は必ず露わになる。
偽り続けたせいで、腕長が犠牲になった。偽らず、さらけ出していれば友を失わずに済んだ。
今の生活を続けず、時折、顔を合わせて語らうことも出来たはずだった。
友や自身の置かれた環境にずっと甘えていたのだ。本当の居場所があったとも知らずに。
気が付けば、糸に手繰り寄せられるように動いていた。目標もなく、流浪のままに。行き着いた先には見渡す限りのご馳走があった。
足をばたつかせていたり、透明な輪に背を預けて、浮かんでいたりなど多様だった。
沸々と煮えたぎるように彼の本能がせり上がってきた。早速、目を爛々と輝かせて、音を立てずに接近する。
そして、目的を目の前にした瞬間、並列に並ぶ鋭利な歯で食らいついた。
透明だった視界が赤く染まる。舌先に伝わる旨味に、一時の陶酔感に耽っていると獲物の必死な抵抗で目を覚ました。
しかし、彼の強靭な力に為す術もなく力任せに振り回すと、微動だにしなくなった
。獲物から漂ってくる血の匂いに愉悦感を覚えながら食事を堪能する。
齧り付けばつくほど食欲が噴水のように湧き出てくる。このまま食らい続ければ、僅かに残っている自我を失ってしまうかもしれない。
そう頭の片隅で思いつつも、歯止めが一切効かない。脳髄を蝕む破壊的な快楽に思わず目眩と吐き気を覚える。
蜂蜜のように甘くドロドロとした快楽に堕ちていくのを実感しながらも、無我夢中で貪り食った。
己の欲の前では万物は皆、エゴイスト。理性というコップに貯められた水を流し終えるまで終わらない存在なのだ。
快楽に支配されて、虚ろになった瞳で次のターゲットを捉える。
何者かが叫んだと同時に周囲から悲鳴が連鎖的に上がっていき、彼から離れて行く。
特徴的な背中の突起を掲げて、次の獲物の元へ向かう。
悲鳴はどんどん大きくはっきりと耳に届く。ステーキナイフを想起させる歯を振りかざした。
食感は先ほど口にした獲物よりはやや筋肉質で硬めだが、味は申し分ない。
恍惚とした表情を浮かべながら肉を裂き、骨を断ち切った。
筋骨隆々とした肢体は、原型を留めないほど見るも無残な姿になっていた。
あたりは血で真っ赤に染まる。文字通り血の海だ。
断末魔と悲鳴がその場を支配していた。殺戮と暴食に身をやつしている事に、この上ない多幸感に包まれていた。
血を忌み嫌っていたかつての彼はもういないのだ。
ある程度、腹も満たされたところで最後のデザートを摂ろうと、周囲に目を向ける。離れたところで逃げ遅れた獲物を確認した。
彼は口元に弧を作り、鋭利な歯を覗かせる。先ほどまで白く光沢があった歯は血肉で汚れて、以前の面影をなくしていた。
尾鰭を振るうたび、歯と歯の間に挟まった肉片が揺らめく。
最後の獲物に奇襲を仕掛けようとした。その時、彼の視界が揺らいだ。
時を待たずして、空気が割れたような音と共に何かが頭部の右から左へ貫通した感覚がした。
徐々に体から力が抜けて思うように動かない。音を立てずに仰向けにゆっくりと沈んで行く。
落ちていく際に自身のこめかみから真紅の帯が空に向かって伸びていた。
それとともにこめかみから狂気や興奮が流れるように薄れていき、彼の理性がゆっくりと覚醒した。
冷静さを取り戻した彼は目の前の光景に絶望した。夥しい数の死体。発露した骨肉と臓物。
そして、口の中に感じる甘い味と折れた歯。目の前の惨劇を引き起こした元凶が自分だと瞬時に理解した。
真っ赤に染まった空の向こうから歓声が湧き上がるのが聞こえる。
「そうか、僕はまた・・・・・・」
悔恨と自責の念に交えた言葉が心中に響き渡る。喜びに溢れた声が遠ざかっていく。
暗い底に背中が当たり、砂埃が宙に舞い散り溶けてなくなる。
脳内で自分が引き起こした出来事と、食らいついた際に広がる血肉の匂いに思考がぐるぐるとかき乱されていく。
まるで漂流だ。思考という名の大海に押され、引かれて、流される。
感情の渦にかき乱されて、深い海の中で水面に登っていく泡沫を目にしながら、水底に沈んでいく。
水底の名は憂鬱。誰の心の中にも存在し、全てを飲み込む存在。
どうしようもないくらいに絡みつくような虚無感。もはや心地よささえ覚えるほど浸った。慣れれば楽なものだ。砂塵が静かに落ちていく。
薄れゆく意識の中、光明が差し込むように自分の行いの最大の問題点に気づいた。
彼が行なって来たのは解消ではなく、抑制だった。単に蓋をしたに過ぎない。
抑えられた欲望や本能はマグマのようにグツグツと煮えたぎり、やがて些細な事で大噴火を起こした。周囲に溶岩を撒き散らし、自他共に焼き尽くしてしまう。
重要なのは完全に断ち切るのではなく、どう向き合っていく、もしくは自我をコントロールする手段を確立する努力を行う事だった。
それが出来ていれば少なくとも、今回のような悲惨な出来事は起こらなかった。
今際になってようやく事実に気付いた後悔が、喜びの二択がずるずると脳の皺という皺を駆け巡る。
夕焼けが影に侵食されるように、彼の瞳から光がなくなり、そのまま動かなくなった。
原色を取り戻した歪んだ空からいつまでも歓声が響いていた。
「短編集」 蛙鮫 @Imori1998
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