「羽根」
太陽の日差しがアスファルトに熱を灯す八月中句の昼間。黒スーツが蔓延る都心部から離れた公園で、俺は一人、ベンチに深く腰掛けていた。
真後ろの森では蝉が馬鹿みたいに喚き散らかしている。心底うざったいが、寿命の短い彼らも繁殖の為に必死なんだろう。ここは放っておこう。
今日は普段、行なっているコンビニバイトもなく、一日中フリーダム。しかし、予定もないため、一人寂しく近所の公園で澄み切った青空を見上げている。そして、こうして一人になった瞬間に決まって、頭に浮かぶ疑問がある。
『この場所に俺は必要なのか?』不意にこの思考が頭を巡る。バイトに慣れてくると、存在意義について考えるようになった。俺が行なっている事もこれから先、入ってくる人間が次々とこなしていくだろう。いや、世の中のどんな仕事、役職にも代わりはいるんだろう。なんせこの国には一億人以上いるし、これからもっと増える。今年で二十三になるが社員になり、昇進して地位を確実なものにするなどの野望も持っていない。ただ、何かしていないと自分が自分では無くなってしまいそうで怖い。電車内、バイト先、食堂、風呂、トイレ、布団の中、今座っているベンチ。一人の状況になった途端、この思考が脳裏から湧き出てくる。
何の気なしに雲一つない晴天を眺める。俺の気も知らないで、お天道様は眩い輝きを放っている。その輝きで俺の心を照らし温めてくれればいいのに、なんて女々しい事すら平気で言えてしまうくらい気分が消沈してしまっている。紛らわそうとポケットから駅前のコンビニで買ったタバコを一本、取り出す。
二十歳になった頃、バイト先の先輩の誘いで喫煙を始めた。初めは吸いすぎてむせかえったが、回数を重ねるうちに体が積極的に求めるようになり、吸い方を熟知する事に至った。ライターで引火し、化学物質満載の煙を吸い込む。吐き出した煙とともに胸中に渦巻く憂鬱が消えていく気がした。酒にも手を出そうとしたが、呑むと、すぐに赤面になるので合わない。よってさらにタバコにのめり込む。
全身を巡る開放感に浸っていると、何かがひらひらと膝元に落ちてきた。親指と人差し指で羽根を優しくつまむ。柳の葉のような形と綺麗な漆黒。カラスの羽根だった。理解した瞬間、持ち主らしき鳴き声が聞こえた。鳴き声のする方に目を向けると、予想通り、黒い両翼を広げたカラスが一羽、飛んでいる。
表と裏をひっくり返してよく見ると所々、かすり傷が確認できた。きっと長い間、主人であるカラスの旅路を支えてきたんだろう。そして、任期を終えて、地上に舞い落ちてきた。抜け落ちた箇所から、また別の羽根が誕生。
そうしてカラスはどこまでも飛ぶ事が出来る。社会と同じ。古い人間は消え、新しい人間を呼び、社会を回す歯車になる。その循環により世の中は絶えず、息をし続けることができる。どんなに小さくか細いものでもまとまれば大きなモノを突き動かす。しかし、その背景にはこの羽根のように去っていくもの、消えていくものがいる。彼らの存在が世に知られることはない。つまりいつかはこの羽根のように自分も忘れられてしまうのだろうか?
再び、心中を暗雲が覆う。迫り来る不安感から逃れようと二本目のタバコにすがりつく。先端に火を灯して、一時の安らぎを得る。きっと俺にとっての羽根はタバコだ。世の中を渡り歩くために必要不可欠なモノ。現代人は酒、タバコなどの嗜好品に心の支えにしている奴が多い。もちろん俺も例外ではない。ストレスや負の感情が世の中に存在する限り、永遠に切ってもきれぬ縁だろう。
「ゲホッ、ゲホッ」
しかし、いつまでも一枚の羽根に固執していると、翼も飛びにくくなる。現に俺は例年より息が上がるのが早くなっていた。連続で喫煙すると、動悸が早くなり、咳も出やすくなる。何度も手放そうとしたが、これ以外に心に安寧を齎すモノを忘れた。
こうなる前から友人や家族にも口酸っぱく言われていた。しかし、心を飲み込もうとするどす黒い感情からの解放が何より自分には優先だった。ひたすら求め続けた結果、俺の身も心も腐りかけている。一抹の不安を取り除くだけで、根本的な解決には至らない。思い返せば,別の羽根を得る瞬間はあった。身内に忠告された時がそうだ。それを俺は事ごとく逃してきた。いや、逃げていた。
しかし、この羽根は違う。ただ一心に己の運命と向き合い、使命を果たして、翼から剥がれ落ちたのだ。この羽根に意思があるかは関係ない。俺はこの羽根よりも脆く、軽い存在に違いない。何もなし遂げていないのだから。指先で風に吹かれてなびく。羽根に無性に敬意を評したくなった。泣き言をいくら吐いたところで現状は変わらない。この悩みは多分、生きている限り憑いてくる。
俺は勢いよく、ポケットからタバコの入った箱を手に取る。箱の持つ手が握るか否かで迷い、痙攣する。これを握れば、この羽根とはお別れだ。もしかしたらまた手にするかもしれない。握る手に汗が滲む。静かに嘆息をついた後、今生の別れを決心し、タバコをクシャリと握り潰す。
「ありがとう」
手の平で原型をなくしたタバコに感謝を述べた。側から見れば、間違いなく変人だろう。それでも構わない。このタバコも間違いなく俺をここまで支えてくれたのだから。
ベンチから腰を上げて、近くにあったゴミ箱にタバコを捨て、公園の出口に歩みを進める。出口に近づくにつれて、数多くの光景が視界に映る。太陽の光を浴びて、青々しさが際立つ草花。前方で微笑み合いながら、ゆっくりと進む老夫婦。ふざけ合う小学校低学年ぐらいの子供四人。赤ん坊の乗せたベビーカーを笑顔で前進させる女性と旦那らしき男性。誰もが支え合い、繋がり、失い、忘れ去られる。
それでも繋がり続ければなくならない。世界はそうやって出来ている。俺も手探りで探してみよう。新しい羽根を手に入れるため、誰かにとって大切な羽根になるため。
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