「短編集」

蛙鮫

「Fly on the Sky」

 静寂と暗闇に支配された空間の中。彼は寝ぼけまなこを静かに開いた。闇の中はいつもと変わらない、暗くどんよりとしている。大きく肢体を伸ばして、体をほぐす。

「今日も大丈夫そうだな」


 筋肉の伸縮を終えた後、周囲を見渡した。自分に対する敵意を感知するため。以前、ここには彼と同じ姿をした連中がいたが、徐々にいなくなり彼、一人となってしまった。ここを出たのか。あるいは飲み込まれた。


 闇は突如、彼らに牙をむき、襲いかかる。彼は生まれてからここにいるが正直、今日までこうして息をしているのが、不思議なくらいだ。そんな彼もここを去る時が来た。しかし彼の意思ではなく、脳裏に何かの影響だ。


『それ』がここからの脱出を急かす。踏み出そうと、体に力を入れた時、一つの思考が過ぎる。ここを出て何の意味があるのだろう? 他所が良い確証はどこにあるのか? 


 暗闇の向こうに行ってもそこには、さらに漆黒が広がっているかもしれない。もっと恐ろしい何かがそこで、待ち構えているなどと考えてしまう。分かっている。

踏み出さなければ、結果の良し悪しを判断できない事ぐらい。今日生きているから明日も無事である保証がないことも。


 やがて彼は自分の中で繰り広げられる堂々巡りに嫌気がさし、苦渋の末、『それ』に従った。重い腰を上げて、慎重な足取りで歩み始める。


 風の音も動作の音も何一つ、聞こえない。耳に届くのは必死に闇をかきわける自分の息遣いと、ゆっくりと重く脈打つ心臓の鼓動のみ。孤独感と未知の領域に対する恐怖心を抱えながら、漠然と存在する黒い世界を当てもなく突き進む。


 すると、遠くの方から誰かの叫声が上がり、辺りに響く。先ほどまで押し殺していた感情の波が、栓を抜いたラムネのように吹き上がる。心拍数が急速に早まり、焦燥感に駆られる。そして、普段から激しい運動をしてこなかったため、思わず足がもつれそうになる。


 彼の脳内で警報が鳴り響く。さっさと逃げろと。生存本能に身を任せて、どこまでも闇雲に出口を求める。気の遠くなるような暗闇を手探りで、我武者らに前進。進み、息も絶え絶えとして来た時、手先の感覚が変わった。


 触れた感覚が妙に軽い。力を込めて、振り払った時、視界が徐々に崩れていく。陰湿な空気がかき消えると同時に光が差し込み、騒音がなだれ込む。得体の知れない外部の音に思わず身を屈める。生唾を飲み、身に纏わりつく不安感を、引き剥がすように脱出。


 抜け出すと、そこには未知の世界が広がっていた。頭上は、どこまでも広大な闇。そこには煌煌とした満月が存在し、地上を照らしていた。その周りにはいくつも存在する小さな星芒。視線を下げて、辺りを見渡す。地面から縦に伸びる木が何本も羅列していた。


 その中の一本に登り、中間部分で止まる。ふと自分の体に窮屈さを感じる。己の殻を破ろうと背中を隆起して、もがく。やがて覆っていた自分自身から、強引に這い出る。開放感から思わず、体の筋肉を引き延ばす。今日、彼は大人になった。


 視線を上に向けると相変わらず満月が彼を見下ろす。夜風に身を揺られながら、心身の疲労もあり、ゆっくりと瞳を閉じた。


 突き刺さるような眩しさと周囲の騒音を合図に目を開く。上空を覆っていた闇が消えて灼熱の太陽が、我が物顔で光を放っていた。瞠目しつつ恐る恐る、辺りを確認する。


 隣の木には彼の同胞達が分け目も降らず叫んでいる。目の前で巻き起こる真昼のコーラスに圧倒される。しかし、彼には周囲の連中の行いが酷く恐ろしく見えた。


 脅威をおびき寄せる可能性があるからだ。自分から騒ぎ立てて、居場所をさらけ出していることと同じ。そう思った矢先、彼の脳裏に再び、『それ』は出現した。


 今度は周囲の連中と同じように、叫べと彼に囁く。数時間前、癪だったが己の安全の為、指示に従った。だが今回は明らかな自殺行為だ。必死の思いでここまで来たのに彼らのせいで絶命しては元も子もない。


 未知の声に異論を唱えようと懊悩していると、視界の端に気配を感じる。同胞が凛々しく叫んでいた。すると向こうがこちらに気付き、静かに微笑を浮かべた。


「やあ、見ない顔だね」

 爽やかな声音が彼の鼓膜を揺らす。見た目が彼と同じだが、透き通るような清涼感溢れる声をしているので、クールガイと呼ぶことにした。

「ああ、最近、出て来たんだ」

「そうかい」

 外に出て、他者との初めての対話。いや、闇にいた頃もあまり意思疎通を行なっていなかった。彼にとって久しい感覚だ。


「なあ、なんでお前らは必死になって叫ぶんだよ? 自分の命が惜しくないのか?」

 彼は胸中で渦巻く、素朴な疑問をぶつけた。クールガイは不思議そうな趣で彼の顔を覗く。

「んー、使命を果たす為だからかな?」

「使命?」

 眉間にしわを寄せて、クールガイからの返答を脳内で反芻する。二人の間に僅かな沈黙が生まれて、他の連中の叫び声がより彼の耳に鮮明に響く。


「ああ、彼らは使命を成し遂げるために叫んでいるんだよ。僕らが生まれてくる前から何度も繰り返されてきたんだ。あれを見てごらん」

 クールガイが視線を隣の木に向ける。彼も視線を追うと、二匹の同胞が身を寄せ合っている。両者とも緊張し、ぎこちない雰囲気だが離れる様子が見られない。


「あれは……」

「使命の正体さ。あの二人はこれから、次の命を生み出す営みを始める。そうして自分達の生きた証を繋いでいくんだ」

 そう語るクールガイは僅かに微笑みながら暖かな眼差しを二匹に向けた。クールガイの言葉で一つの答えが出た。


 脳裏を翔ける声の正体。これは『本能』だ。先ほどより仲睦まじい同胞を静観しながら悟る。生物が生きる上で備わっている物。食事、睡眠、そして繁殖。自分には最後の一つがなかった。


 だから本能は彼に語りかけたのだ。子孫を残せと。しかしそれは先天的に備わっているモノであり、己の感情、思想を優先する彼にとっては容認できないことである。


「外に出たって何かに支配されっぱなしじゃねえか。悔しくねえのかよ」

「僕は幸せだけどね。今こうしてこの場にいるのが、外の世界を飛べること。声を出して鳴けること。あの暗がりじゃできなかったことなんだよ!」

 クールガイは太陽の日差しにも勝るとも劣らぬほど、眼を輝かせる。爽やかな同胞の前向きな思考に思わず引け目を感じる。


「これは僕たちが生まれてきた意味の証明なんだよ。抗うとかそういう事じゃない。僕達の命は非常に短い。正直、明日生きているかも分からない。絶対に安全なんてありえない。それは暗闇にいた頃から分かりきっている事さ。でも叫んでも、叫ばなくても僕らはいつか死ぬ。なら今やれることをやるべきだ」


 言葉が彼の胸中に波紋のように広がっていく。自らの命を投げ打ってでも掴みたいもの、成し得たいことがこの世界にはある。ただ逃げていたのだ。


自身を取り巻く環境から規律や理が何故、存在するのかも知らずに。そして、認めたくなかった。自分がその一部であることを。自由は一見素晴らしい物だ。


しかし、突然あらゆる自由が容認されたらどうだろうか? 規律や道徳という後ろ盾を無くした際、与えられた自由を活せるのか? 自由とは幻想。自己の解釈と都合によって生まれた物に過ぎない。


「あれを見て」

 クールガイの目線の先を辿ると、数匹の同胞達の亡骸が転がっていた。

「天寿を全うした者達さ。あの中には使命を果たすことなく生涯を終えた者もいる。そして、最期は平等に土へ還る」

 そう語るクールガイの声から僅かに哀切が感じられた。仰向けで倒れる同胞の一匹と目が合う。途方も無く虚ろな目だ。


あの瞳が最後に映し出した景色は一体何だったのか、どういった終わりを迎えたのは、定かではないが必死に生きていたのは確かだ。するとクールガイが重い嘆息を吐いた後、無音で羽を解放する。


「突然ですまないが、僕はここで失礼させてもらうよ。あちらの方に素敵なお嬢さんがいたのが見えたんでね。千載一遇のチャンスだ。出会えてよかったよ!」

 クールガイは離昇して、同胞とは思えない速度で飛び去っていった。遠のいていく背中を見つめながら、耳にした多くの助言を巡らせる。


「結局、また行動か」

 生い茂った緑葉の隙間から突き刺す木漏れ日を浴びながら、呟く。暗闇の中にいた時と同じだ。踏み込まなければわからないまま。


選択と行動の繰り返し、早世の身なら、なおさら決断を急かされる。照りつける日差し、周囲で未だに同胞達が鳴き声を被せ合う。決心が着いた彼が騒音の一部になるのに時間はかからなかった。叫んだ。事切れる勢いで、息が途絶えそうなほどに。


 しばらく叫び続けると、夏の気温に当てられ、視界が定まらなくなり、体力が削られて活力が衰えてきた。喉がちぎれそうな頃、小さな羽音が耳に入る。こちらに一匹の異性が飛翔して来る。眼前を覆っていた不安感が払われて、一縷の希望が彼の心に突き刺さる。


 それと同時に力強い羽音も確認した。自分より遥かに巨大で尊大な黒い翼。


 その目は真っ直ぐ、彼を捉えていた。息を呑む速さで迫ってくる。逃げようと試みるが、風を切る勢いで迫る死に神から目が離せない。


 二つに分かれた巨大な口から底のない闇が彼を覗き込む。彼女の姿を一瞥すると、樹木に止まり物憂げにこちらを傍観していた。

「不運なもんだな」

 肉薄する死を前に、彼は薄氷よりも平たい透明な羽を広げ、羽ばたいた。

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