第5話 三笠

 磨かれた手洗い場に手をつき、三笠は正面の鏡を見据える。映っているのは、見慣れたはずの顔だ。人里を離れていたため、だいぶ顔つきが変わっている。髭が生え、少し痩せた。髪も伸びた。鏡も見なかったから、こんなに変わっているとは気づかなかった。そうだ。人に出会わなかったのだ。自分の顔すら見なかったのだ。


 南米を経つまえに食事を、ということで立ち寄ったレストランは、メニュー表の値段はガイドブックの相場と大きく逸脱していない。南米の伝統料理を食べられると謳っていれば、そんなことを書くのは観光客向けということで、日常的に食べるにはやや高めだろうが、特別な高級店というほどではない。なんにしても、メニュー表に英語表記があるのはありがたい。日本人も想定客として考慮に入れているのか、日本語での表記さえあった。もっともこちらは、自動翻訳サービスを使ったらしく、非常に読み取りにくかったが。トイレはシンクも鏡も清潔に磨かれていて、それも素晴らしい。

 嘔吐しかけ、口を塞いで慌てて個室へと向かう。

 膝をついて、大便器の中に吐瀉物をぶちまける。鼻からも出た。喉に嘔吐しきれなかったものが張り付いて、気持ち悪い。酸っぱい匂いがする。吐瀉物を眺める。食前ではあったが、朝食はまだ消化しきれていなかった。クリーム色の半液体のどろどろの中で玉蜀黍の粒が主張している。出血による内臓の異常の兆候は見られない。自分は、まともだ。正常だ。


 正常でなかったのは、これまでだ。


 山にいる間、三笠は正常ではなかった。慣れない場所だった、体調を悪くした——だがそれよりも、何よりも、ひとりだった。アクリャとしか会わなかった。

 肩に掛けていた鞄に入っているのは、唯一カメラだけだ。震える手でそれを取り出し、記録してあった画像を開く。ブロッケンの巨人が見えたあの日、アクリャを撮った画像だ。あの日のアクリャは虹に縁取られていて、霧の中で輝いていて、艶やかな黒髪を編んでいて、それが躑躅色に烏羽色の縁取りと蒲公英色と照柿色の二色で刺繍をした服がとても似合っていて——美しかった。だから初めて恋を伝えた。求婚した。そのはずだった。

 だがカメラに収められたアクリャは違う。その色はくすみ、あの美しさは影すらもなかった。特徴を上げれば何もかもが同じなのに、同じ人物とは思えないほど違っていた。どこにも注目するところのないような地味な女になっていた。カメラの中だけではない。現実の、彼女も。


「こういうところだと女性には気をつけたほうがいいぞ」

 観測地点に行ったばかりの頃、そんなことを比嘉に言われたことを思い出す。あのとき、三笠はその言葉を、単純に女性は怖いだとか、そういう意味だと思っていた。

 だが違ったのだろう。比嘉は知っていたのだ。孤独な生活が、心労が、どれだけ人の心に影響を与えるかを。

 比嘉とセサルが降りてからというもの、山で暮らしている間、三笠はアクリャ以外の顔を見なかった。彼女の顔をはっきりと見る直前、身体を壊して弱り切っていた。だからその顔が、聖母のように見えたのだ。幻影が美しく見せたのだ。


(——では、どうする?)

 アクリャは美しくはなかった。唐突な求婚するに足るほど、美しくはなかったのだ。

 では、どうするべきだというのだろう。間違えたと、他に女性がいなかったから格別に美しく見えたのだと、人里に降りてきて他の女たちと見比べれば大して美しくなかったと、そんなことを告げるべきなのか。

「そんなこと、言えるわけがない」

 三笠は声に出した。告白が嘘だったと、そんな心を弄ぶようなこと、上げてから落とすようなこと、できるはずがない。観測の最中、尽くしてくれた彼女への感謝の気持ちだけは本物なのだ。

 だから、どうするべきか、迷っているのだ。


 いつまでもトイレに篭ってはいられなかった。三笠は重い気持ちでトイレを出た。なんと言うべきかを思いつかないまま。足取りは重く、心が沈んでいるだけ足音は静かに——ゆっくりと元の席へと近寄った。

 三笠とアクリャが選んだのは外のテラス席だった。店の中から、三笠はぽつねんと椅子に座るアクリャの姿を見た。極彩色の生地に緻密な刺繍を刻んだ衣服を纏う彼女は、都会的な街中のレストランに似つかわしくなかった。彼女自身もそれを理解しているのか、不安そうに首に下げた十字架を握っていた。


 アクリャというのはインカ語で「選ばれた」という意味らしい。

 三笠はアクリャを選んだ。そう、間違いはあったかもしれないが、選んだ。

 だが果たして三笠はアクリャに選ばれたのだろうか。


 彼女の表情を見た瞬間、当たり前のように自身の求婚を承諾してもらえると思っていたことに気づいた。なぜ自分はそんな都合の良いことを考えていたのだろう。当たり前のように、受け入れられるものだと思って、それで、承諾されたらどうしよう、などと考えていた。だが、あのアクリャの表情は、求婚を嬉しく思い、万感の思いで受け入れようとしている乙女の顔だろうか? 三笠は、誰もが心を奪われるような美形ではない。金を溢れるほどに持っているわけでもない。気配りができるわけでもなく、つまり、人に好かれるわけではない。だからこれまで結婚しなかった——できなかった、のだ。

 山で三笠は、アクリャの顔をきちんと見ていなかった。ただ幻想の中のアクリャを感じていた。だが、街に降りてきてからもそれは同じな気がした。


 思えば、三笠はアクリャのことを知らない。そもそもアクリャのことを見下していたように思う。だから自分のことは話しても、アクリャに興味を抱かなかった。彼女の前夫が死んだあとなぜ村に戻って来たのかということや、日頃どう行った暮らしをしているのかということも、訊かなかった。何も見ていなかったから。ひとりの人間として見ていなかったから。

 夜の村で出会ったときのことを思い出す。彼女は崖のほうに向かっていた。何をしていたのだろうか。いまになって考えてみると、彼女は街を見下ろそうとしていたのではないかという気がした。あの場所からは、3000m下の街が見下ろせたのだ。彼女はこの街で暮らしていたことが忘れられなくて、それで、ここまでついてきたのも、三笠の求婚を受け入れるためではなく、ただ街に降りたかっただけではないのだろうか。三笠に親切にしてくれたのも、何もかも、ただ、ただ仕事のためで、それ以上の気持ちはなくて、ただ、ただ。

 対面に座って告白に対する返答を聞いたとき、果たして自分は、ほっと安堵の吐息を漏らすだろうか。三笠は自問した。


 いつかこのことを愚かしく思うときが来るだろうか。間抜けだったと、こんな決断しなければ良かったと。

 もし可能なら、こんなふうに思ったなぁと、すれ違ってばかりいたなぁと、でも今は幸せだと、そんなふう隣に座ってあの写真を懐かしめるようでありたい。

〈了〉

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懐かしきブロッケン 山田恭 @burikino

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