第4話 三笠とアクリャ

 スープには芋や野菜、豆、内臓らしき肉が入っている。たぶん、滋養がある料理なのだろう。インスタントではない食品というのはありがたい。身体が温まる。食後には果物も出された。

「では……明日の九時頃にはまた来ますので」

 食事が終わり、片付けが終わると、一礼してから刺繍入りスカーフを巻いたリャマに乗って、アクリャは去っていった。


 この三日間、彼女はこの山岳観測地点で三笠の看護をしてくれた。そして今後、継続的に朝に食料と水を運び、食事の準備をしてくれることになった。比嘉を街へと送り届ける途中のセサルが頼んだからだ。

 なぜ彼女がセサルの代役として選ばれたか、その理由はいくつかあるだろう。たとえば、彼女が住む村からこの山岳観測地点までの距離は、街からの距離と比べればずっと近いこと。軽い荷物しか持たず山道に慣れた彼女なら、リャマに乗って片道二時間もかからないのだという。街に電話をかけるにしても、人を呼ぶなら時間がかかりすぎるし、食料の運搬も街からでは容易ではない。

 単純に彼女が日常生活に支障のない程度に英語が喋れるというのもあるだろうし、そもそも地元の人間なので地理や天候の変化にも精通しているというのも理由のひとつとしてあるかもしれない。

 だがそれ以上に大きかったのは、金銭的な面ではなかろうかと三笠は邪推する。直接いくら貰ったかをアクリャに尋ねたわけではないが、話の流れで「報酬の金銭は既に受け取っている」ということは聞いた。まだクレジットカードよりも現金を使うこの国に来るにあたり、三笠も比嘉も現金はある程度持ってきてはいるが、そう大金というわけではない。財布に入る程度の金額だ。それ以上には持ってきてはいないだろう。にも関わらず報酬を受け取れたということは、その程度の金額で雇えたということだ。食料と水代込みで。観測計画を大きく変更させられた比嘉にとって、金銭的な理由は大きいに違いない。


 比嘉からの手紙では、セサルとの契約を街に着き次第、一時解消することになったと書かれていた。これも金銭的な理由だろう。三笠の世話をする人間がほかに調達できたのだから、セサルをずっと雇っておくのは無駄だということだ。セサルは金になる仕事を簡単に放り出すタイプには見えなかったが、彼は彼で空いている時間に何もしないよりも、他に仕事をしていたほうが実入りが良いということらしい。

 とにかく、アクリャは比嘉たちから頼まれたとおりの仕事をこなしてくれた。村で話を聞いてからすぐに出発の準備をし、食料と水を届けてきてくれただけではなく、伏せっていた三笠の世話もしてくれた。しかも泊まりがけで、だ。本来の頼まれた仕事内容では、午前中に来て、昼食を作り終えたらもう帰ってよく、夕餉は三笠自身が用意するという契約にされていたようだ。だが初日に三笠のもとにやってきた彼女は状態を確認し、まず村まで連れて帰ろうとした。それを三笠が頑として断ると、自分は一度村に戻り、泊まり込めるだけの装備を持って来た。そして三日間、つきっきりで看病をしてくれた。


 今日になって状態がかなり改善されたため、彼女はようやく村へと戻ることになった。それでも当分の間は、三笠の体調が心配なので朝から夕方まではこの観測拠点に来て、世話をするということだった。

 アクリャが去っていった斜面を見下ろす三笠の中には、いくつかの感情があった。たとえば、彼女の行為への感謝。この三日間、ひとりでこの場に留まっていたら、死んでいたかもしれないというのは言い過ぎではなかったと思う。食料や水はある程度あり、体調不良も食事をしっかりととって休んでいれば良くなる類だったとはいっても、断崖絶壁の山の中であれば、前後不覚のままで落下してもおかしくはなかった。彼女の存在には感謝しかない。

 同時に申し訳なさもある。アクリャにしてみれば、切羽詰まった旅行者の頼みを引き受けたは良いものの、実際に現場に行ってみたら男が倒れていたのだから、いい迷惑だっただろう。外国の、得体の知れない、国の第一言語を喋れない不審な男だ。しかも親切心で村まで送ると言っても、拒否してここに留まるなどと言うのだ。そんな三笠を見捨てず、最大限に尽くしてくれた。いかに謝礼金を受け取っているとはいえ、だ。だから感謝だけではなく、申し訳なさまで感じてしまう。三笠はいくらか現金を持っているので、それを最後の日の前に渡しておきたい。言葉以外に、感謝の気持ちを込められるものといったらそれくらいしかないのだ。

 だがそうした感謝だとか、申し訳なさだとかいう彼女の仕事に対する感情は、三笠の中に生じた気持ちの中で最も大きなものではなかった。


 翌朝、三日ぶりの仕事として観測装置の調整をしながら、三笠は東を見ていた。

 太陽の昇ってくる方角から、彼女はやってきた。着飾ったリャマに乗っていて、遠目には一体に見えるうえ、今日は霧でその姿が半ば隠れて見えるため、ゆらゆらと揺れるその姿はこの世の生き物ではないかのように見える。アクリャのほうでも外で作業している三笠に気付いたのか、リャマのスピードが少し上がった。

「もう外でお仕事をして……大丈夫なのですか?」

 テントの近くでリャマから降りたアクリャの姿を、改めて観察する。

 いつものように見事な刺繍と鮮やかな色彩の服を纏っていた。いつもの、は、その見事さに対してであって、同じ刺繍は見たことがない。いずれも繊細で緻密ながら、まったく違う情景が描き出されている。今日はポンチョと同じ色のフードを被っていて、その下に長い黒髪が三つ編みに編まれている。リャマに乗りやすいようにか、黒のロングパンツの上にチャイナドレスのように深いスリットの入ったスカートを履いていた。


(小さいな)

 日本人男性としては標準的な体格の三笠だったが、真正面に立たれると見下ろしてしまう。そのくせ、近くにいると胸や腰のあたりの肉付きがわかりやすくなるのだが、そこは相応に豊満だ。つまり、女性だ。当たり前のことを意識する。

「今日は霧が濃いですね……朝ご飯はもう召し上がられました?」

 まだだ、と三笠は返答した。彼女のことを待っていた。

「では、用意をしますね」

 と言って、アクリャはリャマをテントの近くに繋ぎ、荷を下ろしてテントの近くで煮炊きの準備を始める。三笠はその尻を眺めながら、作業を続けた。

 朝飯が出される。凝ったものではない。白っぽい玉蜀黍を茹でたものと芋、それにピーマンの肉詰めのような料理。行儀が悪いような気がしたが「手を止めないでもいいですよ」と言われたので片手で鷲掴みにして食う。


 その後、アクリャは昼食作りに取り掛かったが、それが終わると、暇になったのか三笠のところに寄ってきて観測装置設置や状態確認の様子を観察し始めた。セサルのときと同じなので、なんなくおかしく感じてしまう。

 セサルと違うのは、彼の場合は装置とはまったく関係のない話を振ってくることが多かったのに対し、アクリャは観測装置そのものに興味を持っていて、いくつか質問を投げかけてくることだ。

「これは何をする機械ですか?」

 アクリャが指を指したのはレーザーで大気中の微粒子の量や大きさを測定する装置だ。それ自体は説明するのは容易で、英語を使うのはもっぱら海外での学会参加中である三笠にとっては日常会話よりも容易なくらいなのだが、専門用語を多用して説明するほど専門馬鹿ではない。言葉の選択には少し苦労した。完全に理解してくれたわけではなかろうが、説明を聞きながら、なるほど、なるほどと頷く。


 自動観測装置が設置されると、残された時間はどんどんと短くなっていく。観測装置の動作や太陽・風力発電装置で充電されているバッテリーに問題がないとなれば、観測活動以外の残された時間を可能な限りアクリャと過ごした。彼女は朝、観測地点を訪れてから、夕方に帰るまでの間、三笠に付き合ってくれた。

 アクリャが特に興味を示してくれたのが、他の国の話だった。日本もそうだが、三笠がこれまでに学会や観測で行った国についても、楽しそうに聞いていた。

「北極も南極も行った」

「冒険家のようですね……」とアクリャは嘆息する。「羨ましいです」

 アクリャは無邪気だ。

 夫と死に別れて村に戻って来たと聞いていたので、ある程度年齢が上なのかと思いきや、訊いてみると三笠より一回り近く歳下だった。これは嬉しい誤算でもあったが、よくよく考えてみればむしろ三笠にとっては障害となって立ち塞がった。三笠からすればアクリャは若い女性であるが、彼女からすれば三笠は年上の親爺ということになる。それは、あまりよろしくない。

 己の顎を撫でる。髭が生えている。無精だ。髭剃りを持って来ていないのは、必要がなければ、日頃は身だしなみを気にしない性質なので、山登りに邪魔だと判断したためだ。今は、後悔している。


「霧が………」

 しかしアクリャは三笠のことを見てはおらず、周囲に漂い始めた霧に視線を留めていた。朝、彼女が来たときよりも、霧はずっと深くなっていた。彼女にしてみれば、霧があまり深いと帰るのが危うくなってしまう。

「あっ」

 彼女が小さく叫んで身を寄せてきたとき、抱きつかれるのではないかと思った。実際、もう少しのところだった。もう少し、近くにいたら、きっと、そうなっていた。そう思う。きっと。

 アクリャが驚きの声をあげたのは、霧の中に奇妙な物体が見えたからだろう。虹の輪と、その中で蠢く巨人。


 ブロッケン現象は光学的には非常に簡単な現象だ。霧の中にいて、太陽が自分の背後から差し込んでいるとき、霧によって虹が生じる。通常の虹は太陽の高さが高く、散乱する水粒も高度が高いため、半弧状のものしか見えないが、高高度で太陽も霧も自分と同程度の高さにあれば、いつもは隠れていて見えない虹の下半分が見えるようになり、虹の円が見えるというわけだ。そこにさらに自分の影が投影され、ちょうど夕暮れ刻に己の影が長く見えるように、巨大な影が現れる。それだけの現象だ。ヨーロッパのどこの国だか忘れたが、ブロッケン山というところでよく見られたため、ブロッケン現象だとか呼ばれることになったらしい、ということは覚えている。

 アクリャが驚いた表情をしているからには、この辺りではそう多くはない現象なのだろう。もしかすると火山の鳴動が関連しているのかもしれない。数日前の地震もそうだが、火山活動が活発化するに伴い、大気微粒子や水蒸気量に影響が出ている可能性は大いにある。噴火予報が出ているのはこの山ではないが、地球の活動というものはスケールが大きいものだ。少し離れたこの山の大気に影響が来ていてもおかしくはない。


 科学的なメカニズムを説明してやると、完全に理解してくれたわけではなかろうが、「そういうものなのですね」とアクリャは頷いて、また虹の輪へと視線を向けた。

 その横顔が光で煌めく。

「今、写真を撮りましたか?」

 とアクリャが問う。三笠はデジタル一眼レフカメラで撮影していた。

「珍しかったので……」

 いけませんでしたか、と三笠が返すと、あ、ええ、とアクリャは慌てた。「この風景を撮ったのですね。その、わたし、自分が撮られたかと思って……」

 頬を染めて俯く。己の勘違いが恥ずかしかったのだろうが、実は勘違いではない。三笠が撮影したのは、ブロッケンの巨人に見惚れる彼女の横顔だ。

 三笠のカメラは観測用の魚眼レンズを取り付けてある。魚眼といっても、前方の全体がすべてが映り込むような全周魚眼ではないため、極端に歪みはしないのだが、人物画にはあまり向かない。それでも、三笠は写真を撮った。そうさせるほど、彼女はあまりに美しかった。


 三笠は彼女に恋をしていた。


 観測開始から約二ヶ月が経った。三笠は観測地点に自動観測装置を残してそれ以外の物品を回収し、山へと上がってきたセサルが連れてきたリャマに荷を積んだ。

 セサルから、二ヶ月前に山を降りる過程と降りてからのことを聞いた。怪我をした比嘉を街まで連れ帰るのには苦労したそうだが、無事病院まで送り届けたらしい。そのあとには空港も。彼は比嘉からの手紙を預かっていた。手紙によれば、怪我は骨折だったものの、医師に直してもらったことや、保険適用期間だったので金もなんとかなったこと、アクリャに世話は任せたものの観測をひとりで行わせて申し訳なかったことなどが書かれていた。

『きみは南極にも行っているから知っていると思うけど、人里を離れて長いこといると、世間に戻ってきたときにいろいろと違ってみえるものだ。帰ってくるときは気をつけるように』

 という内容で比嘉からの手紙は締めくくられていた。

「なんて書いてあった?」

 と帰路の最中でセサルが手紙を覗くが、日本語なので読めないのだろう。三笠は掻い摘んで説明してやった。

「それだけか?」

「それだけって?」

「お世話になったセサルさんにボーナスをあげてください、とか、そんなのはなかったのか?」

「ないですね」

 観測装置の大部分は観測地点に設置してきたうえ、水や食料も必要最低限度なので荷は軽く、足も早い。帰りは行きの半分以下の時間で街まで降りられそうだ。

「ところで、彼女は?」

 とセサルが顎で示したのは、後方でリャマに乗ってついてくるアクリャだった。三笠は容易しておいた言葉を紡ぐ。すなわち、長いことお世話になったので礼をしたいため、街の飯屋でご馳走する予定になっているということ。

 もちろん嘘である。


 本当は、告白をしていた。

 つまり、好きだと、結婚してほしいと、一緒に日本まで来てほしいと、そう告げていた。返事はあとで聞かせてほしい、と言って。

「なんだよ、そりゃ、おれにも奢ってくれ」

 と、セサルがそう来るのも予想できていたが「比嘉さんがまたこっちに来たときに奢られてください」とかわす。その後もセサルはだいぶ食い下がってきたが、なんとか別れに漕ぎ着けることができた。


 リャマを厩舎に預け、アクリャとふたりきりになり、歩く。

 山から降りて標高が下がるにつれて、加速度的に周囲の風景は変わってくる。空の色も。何もかも。人は増え、臭いも変わる。自分がこれまで、いかに人里離れた場所にいたかを思い知らされた。山の上では、ただアクリャとともにいた。甲斐甲斐しく尽くしてくれた、美しい女性と。そのはずだった。

 だが人が溢れかえる雑踏の中、三笠は奇妙な感覚を抱き始めていた。


 一緒にいるこの女性は、誰だ。

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