第3話 アクリャ

「たぶん、折れているな」

 とセサルが言った。彼は医者ではない。しかし、その発言には三笠も同意した。当の本人である比嘉も。


 先の地震での震度は四か五といったところだろうか。比較的大きかったが、地震大国である日本に住んでいれば、取り乱すというほどではない。

 が、岩だらけの足場が悪かった。その上を歩行中なのが悪かった。

 比嘉は足を取られて転んだ。危ういところで手をついて何を逃れたかと思いきや、腕を岩の間に挟んだらしい。転んだ勢いで体重の重みも加わり、挟んだ右腕を負傷した。

 負傷したのは肩と前腕の二箇所らしい。太い骨が大きく折れて血管を傷つけているわけではないのだが、右腕を動かそうとすると痛みが走るという。肩は脱臼かもしれないが、前腕は腫れ上がっていて、剥離骨折の可能性が高い。


「うーん、早く山を降りて医者に見せたほうがいいだろうな、こりゃ。今は痛みは軽くても、どんどん悪くなっていくだろうし」

「すまない……」

 あくまで調子の軽いセサルとは対照的に、比嘉の表情は暗かった。ここまで申し訳なさそうな顔の比嘉を見るのは初めてだ。彼は白髪だらけの老年といわれるほどの年齢ではあるが、活力に満ち溢れた活発な人間だというのは付き合いの短い三笠でも理解していた。

 彼が沈痛な表情を見せる理由は、単に怪我をした痛みや、治療による懐の痛みから来るものではないだろう。わざわざ何日もかけて南米大陸の山の上まで来た。そして観測を始めようとしたとき、これだ。三笠と比嘉は独法の気水研の職員なうえ、科研費という国の資本のようなもので観測に来ている。それが失敗したとなっても、責任問題になるわけではないが、研究成果には何も書けなくなり、ここまでやってきたことが無為になってしまう。次の観測も難しくなるだろうし、次の観測の機会ができる前に火山が噴火してしまうかもしれない。


 であれば、三笠の提案できる今後のプランはひとつだけであった。

「セサルと比嘉さんには戻ってもらって、おれがここに残るのではどうでしょうか。ここで観測を続けます。ひとりでもなんとかなりますし」

「それは……」

 あまり歓迎できることではない、と比嘉は渋い表情を作る。「また何かあって怪我をしたとき、きみひとりでは危険だ」

 彼の心配もわかる。この観測地点にいるのは一日や二日ではない。観測装置の設置が終わっても、その後に経過観察と人間の手で行う観測期間が二ヶ月ほどある。その間に比嘉が骨折を直して戻ってこれるかというと、難しいだろう。まずは現状報告のために、日本に戻らなくてはならない。補充人員などいないので、残りの観測期間は三笠ひとりで観測を行うことになる。最も近い人里まで、徒歩だと半日もかからないが、それは身体が十全な場合だ。何か起きたら、動けなくなる場合もありうる。その危険性は、確かに理解できる。


「でも——」

「誰か一緒にいてもらえば良いのか? だったら街に戻ってから適当なやつを雇うことはできるぞ。食料や水の運搬とか、飯の支度だとか、いざというときに見てもらったりだとか」

 と言い争っていた三笠と比嘉の間に、セサルが割り込んだ。

「もちろん、おれへの支払いとは別に、その人へも賃金が必要になるがね」

「それでいきましょう」

 と三笠はセサルの提案に乗った。

「いや、しかし、新たに雇った人が信用が置けるかどうか……」

「せっかくここまで来たんです。わざわざ機会を逃すことはないでしょう」

 三笠も必死だった。というのも、若い三笠にはここでいちいち立ち止まっている余裕がないからだ。幸いなことに雇用はされたとはいえ、まだまだ研究業績の少ない三笠は研究資金に余裕がない。金がなければ、観測には出られず、結果は出せない。結果が出せなければ、業績が挙げられず、業績のない研究者に資金は回ってこない。そんな悪循環になるのは目に見えている。だからこんなところで立ち止まっているわけにはいかないのだ。


 最終的に比嘉が折れたのは、こんな事態になったのは己が怪我したせいだ、という負い目もあったのだろう。

 機材をすべて置いていき、リャマに比嘉を乗せて峠を下りていくセサルを見送って、三笠は息を吐いた。どれくらい時間が経ってから新たに人が来るのかもわからない。つまり、当分はひとりだ。誰とも話せず、孤独になる。

 三笠はもともと社交的な部類ではない。セサルは人懐っこく、比嘉はこちらが喋らずとも話に引き込んでくれるようなタイプであり、であれば道中、気まずくなるということはなかったが、気疲れするところはないでもなかった。

 ひとりになった今は、むしろ晴れやかな気持ちさえある。ここからは自分のペースで、少しずつ作業を進めていけばいい。最初はそう思っていた。


 しかし人がいる日本でのひとりと、岩と草と空しかない山の中でひとりともなると、感覚が違う。誰もいない。誰も気にかけない。リャマを一頭でも残しておいてくれていれば話し相手にもなったかもしれないが、それはそれで危ない気がする。孤島に取り残され、バレーボールを話し相手とする男の映画を思い出す。さすがに一年も二年もここにいるわけではないのだから、頭がおかしくなるということはなかろうが、夜、テントで食事をとっていると孤独感は感じる。自分は孤独が好きだと思っていたが、単に自分ではままならない状態が嫌いなだけなのかもしれない。衛星電話でもあれば誰かと会話をすることもできるだろうが、そんなものはない。もしあったとしても会話をする相手などいるだろうか。両親は存命だし、友人もいないわけではないが、わざわざこちらから積極的に電話をかけたことなどなく、であれば電話をしても話題が見つからない。寂しさに警察だか救急だかに電話をかけた独居老人の話を思い出す。五十年も経てば、三笠もそうなるかもしれない。現状を鑑みるに、素質はある。

 比嘉とセサルはどのあたりだろうか。もう昨日の村まではたどり着いただろうが、あそこは電話はあるのだろうか。あるにしても、すぐに代役など見つかるだろうか。


 そんなふうに考えていると、咳が出てきた。何度も。熱もある、ような気がする。少なくとも、寒気がする。身体が痛むのは発熱のせいではなかろうか。それとも単に筋肉痛か。食欲がないので、筋肉痛ではない気がする。

(風邪だろうか)

 単に疲弊が表に出て来たか、それとも性質の悪い風土病か。どんな状態なのか、よくわからない。ひとりでは危険だという、比嘉の言う通りになってしまったのだから、笑えてしまう。

 なんにしても、僅かな孤独の間に人寂しくなったのは、身体の調子が良くなかったせいかもしれない。そう思えば、テントの中で、寝袋に入り込む力もなく横たわっていても元気付けられるような気がした。自分は孤独なだけで心折れるような弱い人間ではないのだぞ、と。いや、弱いから体調を崩したのだろうか。結局は、駄目か。そうかもしれない。こうして、何もできずに死んでいくのだろうか。

 雪山の夢だった。いや、山というか、大陸だ。大陸斜面。南極大陸の。昔行った、観測の記憶だ。吹雪いている。内陸斜面の観測拠点の入り口が塞がれぬよう、雪かきをしなければならないのだが、身体が動かない。目出し帽に雪が張り付き、それが吐息で溶けると、濡れた布に口を覆われた状態になってしまい、呼吸がしにくい。咳が出る。何度も。

 その口元を覆う濡れ布がふわりと取り払われ、咳で熱くなった喉元が冷たくなった。濡れ布のように重苦しい冷たさではない。もっと静謐な、固まる前の雪のような。割れた海氷の狭間のような。

 目を覚ます。 


「おはようございます」

 声が聞こえた。女の声だ。

 天地が九十度回転した視界はぼやけていた。眼鏡が外れているためだ。手をついて、身体を引き起こす。全身が熱を持ってはいて、気怠い。しかし起き上がれないほどではない。汗びっしょりで、下着が濡れているのがわかる。ファスナーを開いた状態の寝袋に寝かされ、その上に薄い布をかけられていたようだが、もし寝袋の中に入っていたら、汗でびしょびしょになってしまっていただろう。

「あの……起き上がって大丈夫ですか?」

 声がした方向を見ると、テントの中の寝袋の脇に座布団を敷いて、その上に座っている女の姿があった。灼けた色の肌に黒の三つ編み、そして鮮やかな色合いの服とその上に踊る刺繍。眼鏡を外したぼやけた視界では顔は判然としなかったが、声には聞き覚えがあった。

「すみません、勝手に入ってしまって………」

「あなたは………」

 村で会った女は、アクリャです、と自己紹介をした。

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