第2話 三笠とセサル

 最初にすれ違ったのは白髪の女性だった。ケープは桃色で、幾何学的な文様が緻密に描かれた人参色の襟巻きを巻いていた。白髪を編み込んだ髪の上に乗っているのは、山高帽のような形の背の高い帽子。にっこり笑って見えた歯は白かった。


 次に出会ったのはアルパカを連れた若い女性だった。額で左右に分けた黒髪は三つ編みにされていて、肌は煉瓦色に灼けていた。膝丈までの藍鉄色のスカートには色とりどりの糸で刺繍がされ、上衣も色鮮やかだ。ポンチョは向日葵のような黄色で、アルパカの首に巻かれているスカーフとお揃いだ。お辞儀をして足早に去っていった。


 さらに道すがら集まって来たのは幼い子どもたちだった。頭頂部に兎の尻尾のような毛玉と左右に耳当てがついている帽子を被り、江戸茶色のポンチョを着た少年。薄卵色のワンピースの上に、胡桃色と紅紫色と梔子色の幅の違う縞模様の風呂敷で背中にきょうだいなのであろう乳飲み子を背負った少女。坂の上のほうから子どもたちは駆けてきて、おそらくはスペイン語で何かを我先にと喋りかけてきたが、セサルが一蹴してしまった。


「見事なものだろう?」

 と比嘉が日本語で言った。

「セサルですか」

「刺繍だよ。あと染物だ。刺繍は世界的にも有名だとか、飛行機の中のガイドで見たよ。詳しいことは忘れたけど」

 実際、最初に出迎えた男もそうだったが、村の人々の衣服は赤、青、黄色と空よりも鮮やかで、薄暗い夕焼け空の中でもその繊細さがわかるほどの刺繍がされていた。刺繍など興味がなく、日頃は服装には気にしない三笠ではあったが、それでも興味深く感じた。服に拘る人間というのは、すべての服がこんなふうに美しく見えているのかもしれない。


 しばらく歩いて、ひとつの家の前へと案内された。

「村長の家だとさ」

 とセサルが言って、先に中に入った。三笠と比嘉も続く。

(思っていたよりも近代的だな)

 三笠はぐるりと家の中を見回した。

 少なくとも四部屋はありそうな間取りだ。どうやら玄関という概念はなく、木製の戸を開けて入った場所が居間らしい。入ってすぐの床には絨毯が敷かれて、下足禁止のようなので、靴を脱いで上がる。靴下越しにもわかる絨毯の柔らかさだった。アルパカだかリャマだかの毛を使っているのかもしれない。壁には文机や箪笥といった木製の家具が並んでいて、日用品のほかに壺や皿、何を象ったのかよくわからない像といった調度品が置かれている。屋根から壁へと突き出した梁には首飾りのような装飾品や額縁に入った絵画があり、ここの住民が物を集めるのが好きであることがわかる。窓にはカーテンがつけられていたが、これも住民の衣服に負けず劣らずの見事な刺繍つきだった。

 セサルが座ったソファの上にも毛皮が敷かれていた。並んで座る。


(村長ねぇ………)

 脳裏に思い描いたのは、インディアンと米軍兵の交流を描いた映画のワンシーンだ。ひどく重そうな煙草を吸うことが、部族の長に招かれたときの礼儀だった。三笠は煙草はやらない。もし出されたら、比嘉とセサルに任せようと心に決めていたのだが、しかし村長との会談は想定外にあっさりと終わった。

 一通りの話が終わったあとでセサルが通訳してくれた内容としては「村は歓迎する。空き家をひとつ貸すので自由に滞在してよい。食事はのちほど届ける」ということだった。


「あっさりしたものだったね」

 と村長の家を出てから、同じ感想を抱いたらしい比嘉が言った。

「そりゃ、そうしてくれるように頼んだからな」

「え?」

「そういうほうがあんたたちは好みだろう? それとも、三日三晩パーティーするほうが好みだったかい?」

 それは確かに困る。時間的にも、精神的にも。三笠は社交的な部類ではないし、これから向かう場所での作業は一刻も争うというほどではないものの、予定は決まっている。セサルが手を回しておいてくれたのなら、それに越したことがない。


「もっとも、この村はそんなできるほど豊かってほどじゃあないけどな」

 行こうぜ、と寝床として与えられた空き家まで先導するセサルの後を追いつつ、村の様子を眺める。来るときに遠くから見えていた通り、日本の茶畑さながらの見事な段々畑の上に家々が立っている。畑には実り、人々の装いも鮮やかなのも遠目で見ていた通りだ。しかしながら、確かにセサルの言う通り、豊かとはいえないだろう。

 標高約3000m。そう急な斜面ではないとはいえ、車両が通航できないような道を何日もかけて歩いてこないと辿り着けない。そのくせ、とりわけ特産物だの、観光資源だのがあるわけではない。近くにインカ帝国の遺跡でもあれば違うのだろうが、そんなことはないのだから人が寄り付くわけがない。村民がどれくらいいるのかはわからないが、家々の数から多くても百よりは少ないだろうということは予想がつく。

 食料や農機具が積まれた倉庫のような空き家で、ベッドといっても布が藁の上に敷いてあるだけだ。だが手足を伸ばせる寝床というのはありがたい。ここまでの道中で使ってきた寝袋は夜でも十分に暖かいが、窮屈だった。


 しばらくしてから、家の戸がノックされた。開けると女性が立っていた。村に入ったときに見かけた、アルパカを連れていた女性だ。両手で大きな盆を持っていて、どうやらそれが夕食のようだった。

 盆を置くと、女性は一礼して去っていこうとしたので、その背に向けて「ありがとう」と三笠は言った。英語で。スペイン語で言えれば良かったが、飛行機の中で読んだ観光ガイドに載っていた文句はもう忘れてしまった。

 女性の背中がびくりと震え、躊躇いがちに振り返ると、また一礼をした。そして出て行った。


「これ何?」

「パン。玉蜀黍の。あと芋」

 背後では既に比嘉とセサルが食事に手を付け始めていた。

 焼き立てだからか、質素なパンは美味かった。蒸した芋につけるサルサソースは少々辛かったが、不味くはない。というか、こちらも単純ながら美味い。とはいえ初めての料理だから新鮮に感じるせいもあるだろう。毎日だと飽きがきそうだ。


 夜、比嘉やセサルが寝静まってから三笠が外に出たのは、何かを探すためではないし、南米の広大な夜空を楽しもうと思ったわけでもない。単にトイレのためだ。トイレとはいっても、明確に建物小屋があるわけではない。ここでしてよいという敷地があるだけで、そこは家々が並ぶ段々畑の端だ。あるものといえば窪みだけ。吹き曝しのトイレだ。日本人の三笠にとって、このような便所はけっして日常のものではない。が、これまでの観測で行ってきた場所を思えば、けっして最低ではない。旗が立っていないので場所がわかりにくいのはマイナスポイントだが、秒速三十メートルを超える強風下ではないし、気温も零下を下回ってはいない。周囲が民家というのはよろしくはないが、どんな豪勢なホテルでも欠点はあるものだ。

 暗くはあったが、瞬く星と静謐な月のおかげで足元が覚束ないほどではなかった。オーロラが出ているわけでも、月が赤いわけでもないが、ただ眩しいだけの空でも美しいものだ。三笠には趣味として写真を撮ることはなかったが、それでも観測用のカメラを持ち出して撮影でもしてみようかという気になる。一方で眼下には三千メートル下方の街の光が見えている。こちらはこちらで見応えがある。電気も通っていないこの村とはまるきり違う世界があった。


「あっ………」

 チャックを閉めながら振り返ったとき、小さな声が聞こえた。

 星空に照らされた中、目の前に人が立っていた。

 小柄だ。子どもではない。女性だ。三つ編みの。暗がりで顔の細かな造作はよくわからなかったが、会ったことがある人物だ。飯を運んできてくれた——まずい。下半身露出だ。いや、露出はしていない。チャックは閉まっているのだから。閉まっているか? どうだ、あれ、そうか? 閉めながら振り返って、目の前に人がいることに気づいたので途中で手を離したかもしれない。そもそもなぜこの女性はここまで接近していたのか。そういえば男性ならこのような穴が掘られているだけの場所で用を足すのも容易だが、女性はそうはいかない。女性用は別にあるのか、それとも共用なのか。


「すみません、もしかすると道に迷っているのかと思って……」

 逡巡する三笠に対し、躊躇いがちに投げかけられたその言葉は英語だった。

 流暢に、というほどではない。たどたどしさは残る言い方ではあったが、発音そのものは母国語が西欧系なだけ、「アクセントがないからわかりにくい」と言われる日本人の英語よりかは滑らかであった。

「いや、大丈夫です」

 対応しながらチャックを確かめる。閉まっている。大丈夫だ。どっちにしろ、闇夜なれば見えないはずだ。安堵する。息が整った。

 大丈夫だと言われ、女性はそれ以上追求するつもりはないらしい。無言で頷いた。


 開かれた空間とはいえ、便所である。長話をするには向かない。では、と頭を下げて、彼女の横をすり抜ける。

 去り際に一度後ろを振り返ると、彼女は便所を過ぎてさらに奥へと行こうとしているらしかった。村に来たばかりの、まだ薄明るかった頃の情景を思い浮かべる限りでは、彼女の向かう先には何もなかったはずだ。街が見下ろせる崖くらいだろう。できることといえば自殺くらいだが、そんなふうにも見えなかった。夜更けとはいえ、村で何か仕事でもあるのかもしれない。そう思って寝床に戻ったが、なんとなく気になってしまい、よく寝付けなかった。


 翌日、出された食事を食べ、村長に礼を言ってから村を出発した。暇な人間は集まっているらしく、朝が早いのに子どもから老人までが見送りに来たが、昨日の夜に会った女性の姿は見えなかった。

 旅路再開。ここからなら、目的地までもう半日もかからない。慣れない空間とはいえ、手足を伸ばして休んで疲れが取れたこともあり、足取りは軽かった。

 昼前に目的地に到着した。山の最高峰というわけではないが、南にしか障害物がなく、太陽が基本的に遮られない場所の峠だ。ここに大気状態の観測を行いながら、自動で観測できる装置を設置するのが今回の目的である。

 そもそも南米大陸のこの場所で日本から大気観測を行うためにやってきたのは、火山噴火の予兆があったためだ。


 地震と同様、噴火の予測は簡単ではない。というより、人間の時間に合わせて考えると難しいというべきだろうか。地球の四十八億年という長いスケールの中では、人間が必要な一年、二年といったスケールは些細だ。だから数百年内に噴火する可能性が高いかどうかの予想はできても、数ヶ月先がどうかというのは難しい。最近既に噴火したことがある火山ならデータがあるからまだしも、文明開化以前となると古い記述を参照するしかなくなる。

 ただし、すでに噴火のデータがある火山なら話は別だ。古文書の記述をたどるしかない数百年前の噴火ではなく、最近の噴火であれば、噴火前の地震や地場の変化といったデータがあるため、格段に予測はしやすくなる。

 三笠の研究分野は火山の予知ではない。むしろその副産物といえるもので、火山噴火やその予兆に伴って放出されるガスや微粒子が専門分野だ。今回持って来た観測装置の中では、走査型分光放射計と呼ばれる観測装置は太陽の光を観測するためのもので、火山噴火によって大気中のガスや微粒子の濃度が変化したとき、それを検出することができる。そうしたデータはまた噴火予知に使われることもあるだろうが、どちらかというと気候変動への影響が主だ。自動観測装置を設置するだけではなく、その場で観測も行う。カメラで空の色を撮影するのも、観測のひとつだ。大気成分が変化すれば、空の色にも影響が出てくる。


 まず二頭のリャマから荷物を下ろす。拠点となるテントを設置したのち、観測装置の設置を開始する。

 三笠たちが滞在している期間だけ無事であればよいテントとは違い、観測装置はこの場所に置きっ放しにして、数年の間観測を続けてもらわなければならない。一年に一度くらいならばメンテナンスのために来られるだろうが、逆にいえば丸一年の間は何も手をつけなくても観測を続けてもらわなくてはならない。

 安定した大きな岩を見つけ、そこにドリルで穴を開ける。燃料を持ってくるほどの余裕はないので、電動で、電池残量は多くないためやり直しはきかない。慎重を期し、空いた穴の中に薬剤のアンプルのような形の小瓶を入れる。そのうえに金属の長棒を立て、金槌で叩いて押し込む。棒が瓶を割って穴の中に入っていくと、薬剤が飛び出して穴の中に充填される。薬剤は接着剤で、半日置いておけば固まって強風でも外れないほどに強固に固着する。この棒が観測装置の土台となる。一本では設置できる観測装置の数は限られるが、他の棒を十字に組み合わせることで延長できる。

 固まるまでの間、他の観測装置の状態を確かめ、発電装置やデータ収集装置との接続を確認する。発電は太陽光と風力で行う形式である。アンテナも設置し、衛星経由で遠隔地からデータが取れるようになっている。


 三笠と比嘉が作業を進める間、セサルはリャマに餌や水をやったり、乾パンを齧ったり、寝転んだりしていたが、飽きて来たのかそのうち三笠たちのほうへとやってきて、「調子はどうだ」「夕飯は何が食いたい」「この機械はいくらくらいなんだ」と話しかけてくるようになった。彼は話好きで、道中でさほど話しかけてくることがなかったのは、山道に慣れていない三笠たちに気を遣って、ということだったのかもしれない。

 装置設置はさほど繊細な作業ではない。高山での体調が十全とはいえない中での作業を見据えて、もともとケーブルやコネクタは見ただけでそれとわかるように印をつけてあるので間違えようがなく、であれば喋りながらの作業でも問題がなかった。


「セサルはなんで英語が喋れるんですか?」

 と、質問から下世話な笑い話まで、流暢に英語を紡ぐ彼に三笠は尋ねてみた。

「都市部に住んでるやつは英語のほうが多いよ。向こうはいろんなところから人が来るからな。喋れんとやっていけん」

「じゃあ独学みたいな?」

「そうだな、親がいなかったし、まぁ食ってく過程で覚えたようなもんだ」

 三笠は日本で生まれ、日本で育った。特に裕福だと感じたことはないが、しかし不自由はなかった。つまり、感じないだけで裕福だったということだろう。交付金を取得したとはいえ、大学院も含めれば大学に九年も行ったのだから、少なくとも切羽詰まってはいなかった。恵まれているともいえる。だからといって引け目に感じるわけでもないが。


「じゃあ、こういう山に住んでいる人は?」

 ふと昨夜出くわした女性のことを思い出して尋ねる。

「だいたいはスペイン語だな。地域にもよると思うが、このへんは英語はほとんど喋らんね」

「さっきの村で、英語を喋れるっぽい人がいたんですが………」

「ああ、村長から聞いたな、未亡人だろ」

「そうなんですか」

「一度街に嫁いだが、夫が死んだので戻ってきたんだと。英語は大丈夫だから、滞在中になんかわからんことがあったら彼女に訊いてくれればいいと伝えてくれと言われた」

「その話は聞いてませんが」

「すまん、言い忘れてた」

 悪びれなく謝るセサルに、三笠は溜め息を吐いた。幸い、その事実を知らないことで不都合はなかったが。


(出戻りか………)

 最初に村の入り口で会ったときも、夜に出くわしたときも、暗かったのでよく顔は見えなかったが。結婚したということは、そう若くはないのか。いや、このあたりは結婚年齢は早いのかもしれない。むしろ戻ってきたということは、都市部で暮らす理由がなくなったということになる。子どもがいればそちらで暮らすだろう。であれば、結婚してすぐに夫が死んで、子どもがいないままだったので戻ってきたということかもしれない。そもそも、夫が死んだら実家に戻ってくるというのは、この辺りでは普通のことなのだろうか。言語と同時に宗教も伝来したはずで、おそらくはキリスト教社会なのだと思うが、よくわからない。

「三笠くん、こういうところだと女性には気をつけたほうがいいぞ」

 と観測装置とノートパソコンを接続していた比嘉がこちらに歩み寄ってきながら口を挟む。彼の左手の薬指には、年季の入った銀色の指輪が鈍く輝いている。つまりは、そういうことか。結婚には気をつけろと、女性は怖いぞと、そういうことか。

 そう問いただそうとしたとき、地面が揺れた。

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