懐かしきブロッケン

山田恭

第1話 三笠と比嘉

 空の研究とはなんだ、なぜ空が青いのかということでも研究しているのか、と笑って言われたことがある。たぶん、そんなことを言った人物は冗談めかして言ったつもりなのだろうが、その揶揄は的外れではない。実際のところ、空の青さは十分に研究対象になる。


「いやぁ、これは老体には堪えるね」

 地元民が言うには舗装されている道だということだ。砂地の上にばらばらと、手で鷲掴みにするには少々大きい岩が転がっているのだが、足元に気をつければブーツで歩ける程度だ。かろうじて道といえる直線の左右には草が茂っているので、人が歩く場所だけ禿げているのだろう。

「休憩するか」

 と荷物を運搬している二頭のリャマを引いて先行していた男が立ち止まって言った。

「そうしてくれると助かるね」

 と弱音を吐いていた老人が応じて、休憩となった。登山用ストックを連結させて長い一本の棒にし、それを軸にしてタープを張ることで日陰を作る。風は凪いでいたが、高山ゆえに空気は冷えていて、坂道を歩き続けてきたことで火照った身体はすぐに冷えた。


「三笠くんは元気そうだね。若い人はまだ余裕かい?」

 タープの日陰にどっかりと腰を下ろした老人が問いかけてきた。六十歳を過ぎている彼と比べれば、確かに三笠は若かった。三十代前半なので、ほぼ半分の年齢だ。しかし老人——比嘉はその年齢ほど老齢しているようには見えない。三笠より筋肉質であり、大柄であれば、むしろ若々しい印象さえ感じる。赤く灼けた顔を白い髭が覆っていて、さながら雪男のようだ。口では疲れた疲れたと言ってはいるものの、息は切れておらず、さほど疲れた表情もしていない。であれば、休憩を所望したのは三笠に気を遣ってなのかもしれない。比嘉と知り合ってからは、まだ日が浅く、彼の性格は窺い知れていない。


「あとどれくらいですかね」

 と三笠は日本語で対応してから、英語でも言い直した。同行しているガイドに尋ねるためだ。リャマに水を飲ませていた現地ガイドは近寄ってきて言うことには「あと二時間で村だ」ということだった。

 セサルという名の現地ガイドは豊かな顎髭を生やしてはいたが、顔つきはまだ若く見える。三笠よりも年下だろう。苗字はロペス・ルイスだったか、ルイス・ペレスだったか、その辺りの音が二つ続いていたのを覚えているが、忘れてしまった。一度は聞き直したのだが、もう一度忘れてしまうとなると尋ねにくい。幸い、セサルは名前で呼んでほしいと言ってくるので、助かる。


 日陰から空を眺める。空は青い。何があっても、ではない。雲があれば白くくすみ、夕暮れ刻なれば赤く染まる。夜になれば黒く潰され、魔法の時間には黄金に輝く。それが空だ。三笠の専門はそれだ。

 もちろん、空の色がなぜ変化するか、ということは何百年も前に理解されている。空の青色は大気中の分子散乱の結果であり、それが太陽と観測者の位置関係によって光路長が変化するというだけだ。だからいまさら、空の色の変化理由などを研究しても何にもならない。だが道具として使うのならば、話は別だ。空を見て、その色を見て、その状態を知る。三笠と比嘉が南米のこの国に来た理由の中に、それは含まれている。


「そろそろ行きましょうや」

 とセサルがリャマを連れて戻って来たので、タープを畳む。休憩時間は短かったが、座って休めたので疲れはだいぶん取れた。あまりぐずぐずしていると、日が暮れてしまう。下ろした荷を背負い直し、出発する。岩だらけの緩やかな上り坂を、一歩一歩登って行く。空港や駅周辺は外国資本の参入のせいか、眩いほどの大都会だったが、中心部から少し離れるとすぐに自然の色が濃くなる。三笠の研究対象としては都市部の影響を受けていないほうが良いので、ありがたい。街を離れて四日。そろそろ目的地に着くはずだ。

 休憩地点から二時間ほど歩き続けると、開けた空が広がっていた。登り坂だった道が下りになったのだ。南側にまだ高い部分があるので、山頂というわけではないが、峠の天辺というわけだ。

「あれが村だ」

 とセサルが言った。

 宣言通り、二時間だ。ただ二時間で着くというわけではなく、見える距離にたどり着くということはあらかじめ言っておいてほしかった。村はその存在は認識できるが、そこに住まう人々が豆粒ほどに見える程度に離れていた。まだまだ距離がありそうだ。


(斜面の上に村があるのだな)

 山岳部である。ここまでの道程、坂ばかりだったわけだが、しかし人が住まう村であればどこか平野部があるのだろうと想像していたのだが、予想が覆された。

 斜面にあるとはいっても、整備はされていた。段々畑のように斜面には一定間隔で水平面が作られていて、その上に家々が立ち並んでいる。家は壁材にさまざまな大きさの石を使っていて、煉瓦造りのように固められている。扉は木製で、四角く穴を開けて庇を取り付けただけの窓もある。屋根は日本で言うところの、藁葺きか茅葺屋根のように見えるが、構造している植物は別かもしれない。屋根には木製の天窓のようなものも備え付けられていて、開いたそこからは煮炊きの煙が立ち上っていた。

「ちょうど良い時間だな」

「ちょうど良い?」

「晩飯時だ。食わせてもらおう」

 などと厚かましいセサルと会話をしながら歩いていると、思ったよりも簡単に村には近づけた。


(よく舗装されているな)

 この国は日本人の三笠から見て技術水準が極めて劣るようにも見えない。ただし、それは都市部に限った話だ。大航海時代に西欧の白人たちの植民地となった。足を折り、両手を切り落とした。首を切り、頭蓋を叩き潰した。原住民のほとんどが殺された。もちろん、生き残りはいる。だが都市部には少ない。こうした山間部に暮らしているのは、ほとんどが数百年前に追いやられた人々の子孫だろう。いわば発展途上の非文明圏だ。だから文化的にも劣っていると、三笠はそんなふうに考えていた。

 だが実際に来てみると、ここが非文明圏だなんて思えない。

 大きな岩が取り除かれて、坂には細かい砂利が敷き詰められた階段となっている。水平に均された土は畑になっているらしく、背の高い玉蜀黍のような植物が整然と並んでいた。家の壁は白、灰色、赤といった程度で、屋根も小麦色でしかないが、人は花よりも色彩鮮やかだった。


 まずは背の低い、がっしりとした体格の男が出迎えた。彼のズボンと帽子は草原よりも濃い灰緑色で、ポンチョにはそれより薄い若緑に加え、菜の花色と紅殻色で綺麗に染め分けられていた。肌の色は浅黒く、頬は痩けていて顔つきは厳しい。

 しかしセサルが前に立ち、男を出迎えて何やらやりとりをしていると、表情が変わっていく。最後には笑顔になり、互いに肩を叩き合っていた。

「不審者だったから警戒されていたが、良かった良かった、話がついたよ。ここで休憩できんと面倒だからな」

「話がついたというのは……」

 セサルと村の男のやりとりはスペイン語でなされたので、詳細が理解できずに不安に思った三笠は尋ねた。

「休めるし、飯も食わせてもらえるってことだ。昼休憩だ」

「何か対価が必要かな?」

 同様にセサルの話し合いに不安を覚えたらしい比嘉も尋ねた。要は、休憩させる代わりに何か要求されるのではないかということが不安なのだ。比嘉も、三笠も。金にがめついというわけではない。単純に金がないから、だ。

 セサルを雇ったのは、彼が英語に堪能だったからだ。南米のこの国の第一言語はスペイン語で、必ずしも全員が英語を話せるわけではない。都市部に限れば、立ち並ぶビルに夜景が映し出されるまばゆいこの国は豊かで、英語を喋ることができる人間はけして少なくはない。だがそうした者たちが三笠たちが観測を行おうとしている山岳地帯を熟知しているわけではない。旅行ガイドにしても、都市部や有名観光地については熟知しているものの、少し人気を外れた場所となると行ける人間は激減する。地理を知っている人間となると、雇用費用が高い。


 三笠と比嘉は国立気水研究所に勤める研究者だ。比嘉は気水研に勤めて長いが、三笠は今年入所したばかり。それまでは研究所を転々としながらポスト・ドクター(ポスドク)をやっていた。ポスドクというのは非永久雇用の研究員で、給与は相応ではあるが、非正規雇用職員だ。たいてい一年から五年程度の任期があり、ひと所には長く留まれない。博士課程を出た研究者の卒業後というのは、たいていこうだ。大学で四年、大学院の修士課程で二年、博士課程で三年と研究をしてきて、その結果がバイトのような不安定な立場なのだから、博士課程に進む者も少なくなるというわけだ。

 幸いなことに三笠は四年ほどポスドクで足踏みしたあと、現在の気水研の研究者として永久雇用のポストにありつくことができたわけで、生活面の安定は確保できたわけだが、仕事面となるとまた別の話。研究のための資金を得るというのは簡単ではない。工業系や生物・化学系と違い、研究結果が即利益に繋がるわけではない地球物理系の研究に資金を出してくれるスポンサーなどというものは存在しない。であればどうするかというと、日本学術振興会(学振)の科学研究費助成事業(科研費)という助成金を得るのが一般的だ。気水研もそうだが、学振も独立行政法人なので、要は国の補助金のようなものだ。その予算が潤沢なはずがない。資金を取るだけでも大変なのに、たいていは要求した金額は満額通らないので、どうにかやりくりしていくしかない。


 そういうわけで、研究のために観測に行くにしても可能な限り節約したいのが実情だ。とはいえ観測装置に使う金は削れず、飛行機代はもともと安いチケットしか買っていない。宿泊費などはもともと規定が決まっているため、節約しようと一定の金額が差っ引かれることになっているから、節約しても意味がない。となれば、それ以外のいずれでもない雑費を差し引くしかない。

 観測地点に向かうまでのガイドを雇う金は、だから可能な限り節約したかった。セサルは個人でガイドをやっているためか、相場より賃金が安かったわけだが、それで現場に着くまでに余計な出費が増えるのであれば意味がない。休憩のために村に対価となる金を払うのはできるだけ避けたい、とこういうわけだ。

「いや、不要だよ」

 と、しかしセサルはあっさりと答えた。

「しかし、夕食をご馳走してもらうとなると……」

「客はもてなすものだろう?」

 さぁ、行こうぜ、とセサルはリャマを連れて先導する。三笠と比嘉は顔を見合わせてから、夕陽で赤く染まった空気の中、追いかけた。

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