はるのあけぼの
うめ屋
*
冬が散るころに子を喪ったわたしは、それからというもの、寝たり起きたりをくりかえしていた。
春は気が
みっしりと咲きつめた桜の花を
わたしにはそれらの春の息吹がつらかった。座敷に
白いひかりが畳をうつろい、天井に波のような透かしをつくる。
とぷ、とぷ、と幻のたゆたいまで聞こえた。その波紋が、わたしのまなざしを遠い果てへ連れてゆく。
子は、かたちもろくに成らぬまま流れていった。わたしは倒れ、血を流し、その血とともに子は胎から消えたのだった。つぎに目がさめたとき、わたしはそうした
わたしが、望まなかったせいだろうか、と思った。
その子は望んで為した子どもではなかった。というと不謹慎なことだけれども、わたしには子を願う欲も、育てる覚悟も足りていなかった。わたしは父母に命じられるまま夫へ嫁ぎ、夫そのひとと義父母に仕え、言われるがまま家のなかで働いていた。
気の利かぬわたしはいつも失敗をする。そのたびに姑は呆れ、舅は無関心に一瞥をした。夫はこの街の港で貿易商としてつとめている。忙しいひとである。家のなかのことまで目がゆきとどかぬのは自然であった。
わたしは義父母に叱られながら、ひたすらにはいと頷く。口ごたえせず、考えず、ただ言われたとおりのことをする。それが嫁だと実家でしつけられていた。
またわたし自身、考えを回せるほどの知恵もない。朝夕変わらぬ日々をすごし、いつか子を産み死ぬのだろう、というくらいの見通ししかなかった。夫をあいしているのかもよく解らなかった。閨ごとはぼんやりとした幕の向こうのできごとだった。
このような母だから、子は根づかなかったのかもしれない。そしてそのほうが、子にとって幸せであったかもしれないとも。
「――は、るの、……お、が、わ、は、……さ、ら、さ、ら、ゆ、く、よ……、」
さらさらと。
このようにわたしも消えてしまいたい。
死ぬのではなく、誰に知られることもなく。誰の厄介となることもなく。
線香の灯が絶えいるように、すうっと失せてしまいたかった。
*
すずやかな風が額を撫でた。
誰かが、わたしの髪を梳いてくれている。寝ついたきりで、およそ手入れも忘れてしまった汚い髪だ。けれどもその誰かはいとけなく、わたしのなかの苦しいものをどこかへ遣ろうとするように、心をこめて髪を梳いた。
そう、それはちいさな掌だった。
子どもらしく熱く、ふやけて、男児の汗のにおいがする。わたしはおのずから、それがわたしの子だと感じた。まばゆく目を細めて仰ぐと、その子は手を引いて笑みを浮かべた。
五つか、六つか、それくらいの歳ごろだろう。みじかい髪は陽に透けて、べっこうの飴だまみたいな色をしている。そこに夫との類似をみとめた。
子は両のほほに笑くぼをつくり、低い鼻をふくらませて、みつかってしまった、というような照れと得意をみせた。そのままかろやかに立ち上がり、襖を開けて駆け出してゆく。
「――あ、」
待って、とわたしは言おうとした。
けれどもその子の名前はなかった。わたしはわが子を引き留めることばを持たず、指一本、動かす力もないのだった。
まなじりに涙がにじみ、こめかみを伝い落ちた。これほどにおのれというものが厭わしく、口惜しいときはなかった。生まれてこのかた、ないことだった。わたしは唇を噛み、けものの唸るように嗚咽した。胸がふるえて、このまま暴れ出したいくらいに悔しかった。
そして初めて、わたしはあの子をあいしていたのだ、と悟った。
わたしはあの子を流してしまいたくはなく、あの子を腕に抱きたかった。
*
きん、こん、ころろろん、と、水琴窟を鳴らしたような音がした。また、ほうほうと湯の沸く気配。
わたしはまぶたを上げ、寝床の脇にひとりの青年が坐しているのをみとめた。
こざっぱりとした黒髪に、柔和な顔、開襟のしろさと黒い
「……せんせい、」
わたしが掠れた声をかけると、
「気がつかれましたね。ご気分は?」
「むねが、」
かなしく、重い。花曇りのゆううつのように、わだかまっている。あの夢がしんしんとわたしをふるわせ、うつろにしている。つたなくそういう趣旨のことを伝えると、医者は深く頷いた。
「そうでしょう、春ですからね。余計に胸が苦しくなる。春はとほうもなく大きく、季節が動くときですから」
そう言いながら、医者は自分のかたわらにある箱様のものに手を伸ばした。
これが、医者の仕事道具である。
この湯が沸くと、きん、ころん、という音がするのである。医者は往診もされており、ときおり街を歩いているところをお見かけする。それでわたしも、仕事道具や、きんこんころん、のことを知っているのだ。
「急にいきいきとするのは難しいですからね、一歩ずつ行きましょう。ほのぼのと、夜明けのように」
医者は薬種をいくつか選び、また左上のひきだしから湯のみを取った。薬種をまぜ、ぱっぱと散らして湯沸かしの蛇口をひねる。
その端から、しづかに花のひらくような香が広がった。音もなく、まさに夜明けのひとときに、眠りから醒めた芍薬の花がほころぶような。医者はやわやわとした湯のみの香にふたをして、わたしへと差し出した。
「どうぞ。ふたを少しだけずらしてお召し上がりください」
「……はい、」
わたしはゆっくりと起き上がり、受け取って口にふくんだ。
と、みどりが胸をしたたり落ちた。
さわやかな苦みが鼻をぬけ、やがてとろりとした甘みに変わる。その苦みと甘みが、からだの重だるさをゆるゆると融きほぐしてゆくようだった。わたしは目をまたたかせ、つぶやいた。
「おいしい」
「なら、奥さまのおからだに合っているということですよ。身に合う薬は
医者は、にこにことしている。そうしていると若い学生さんのようでもあるが、彼こそが、このはるまち唯一の
この国には、季節医という職がある。
その名のとおり、季節にかかわる不調を専門とするお医者さまだ。
季節が動けば風も動き、水がさざなみ、みどりも移る。そうすれば、ひとの心身が変じるのも道理というもの。たしかな病名はつかねども、かよわきひとびとの胸はわるく、胃は重く、あるいは繁く頭痛が走る。
そうした名もなき病を癒し、ひとの心身をただしい季節の流れにみちびく。それが季節医という職だ。なかでも春の病をになう春医者は数が少なく、優秀なお医者さましかなれないのだといわれていた。
しかし目の前の
「きょうの診察なんですが、奥さまの旦那さまに呼ばれたんです。私はなかなか家にいられないから、ようすを診てやってほしいと」
「……宅のものが?」
おどろいて目を見開いた。
夫はわたしのことなど、まったく見ていないのだと思っていた。夫もわたしとの婚姻に愛はなく、それゆえに流れていった子のことも気にならぬのだと。
医者はたんすの右上から紙袋を取り、調合した薬をつめた。そして胸の隠しから
「これが、奥さまの処方です。一日二回、朝と夕、煮たてた湯でお飲みください」
「――……、」
その笑みが、なにとなく夢の中の子どもと似ていたので。
わたしは肩の力をぬき、ほろりと唇をゆるめた。
「はい、そういたします」
*
わたしは薬袋を膝にのせ、〈処方せん〉の欄を読む。優美な文字で、あけぼの、と薬の名前が書かれていた。わたしはほほえみ、縁側の向こうを見つめる。
白いひかりが、さわさわと風にゆれている。
わたしはそのすずやかさを思い、ひさしぶりに床を立ってみたくなった。
たとえば夜。帰ってきた夫を迎え、おかえりなさいませとその背から上着を預かったなら。
そして夫と目をあわせ、ちいさく笑んでみせたならば。
あのひとは、いったいどんな顔をするのだろう。
そう考えると、ぽっと胸の奥に灯りがともる。わたしはそのぬくみを抱え、ひっそりと、亡きわが子の位牌がある部屋に向かった。
はるのあけぼの うめ屋 @takeharu811
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