過去の日記

 落ちかけていた夕陽が水平線の向こうへと姿を隠した。周囲は急速に闇に包まれていき、庭園内に設置されていた街灯が順番にその明かりを灯していく。その光に照らされた先生の顔は、まるで別人のような狂気に歪んでいた。

 語り終えた先生の言葉を何度頭の中で咀嚼しても、それを理解することはできなかった。


「……意味がわかりません」

「簡単なことさ、私はただ以前の君との充実した日々に戻りたいだけさ」


 僕の拒絶の言葉も今の先生には届かない。

 確かにあの頃、僕が頼れる人間は先生しかいなかった。先生は世界的にも有名な研究者で、僕のために根気よく治療を続けてくれた。僕にとっては、絶望から抜け出す唯一の糸だったのだ。

 だが、僕が一方的に引っ張っていたと思っていた糸は、実は先生も引っ張っていた。僕は先生に「治療」を求め、先生は僕に「未知」を求めた。その歪な依存関係を先生は取り戻したいという。

 ……やっぱり、僕には理解できなかった。


「先生は千鶴に対して恨みを持っていたから、彼女を殺したんですか」

「いや、彼女への恨みがあったから彼女を殺したわけではない。彼女が君にとって、昔の君を取り戻すために邪魔だと判断したから殺したまでだ。別段、彼女本人に何か思うところがあったわけではないよ」


 先生の語る言葉に僕はようやく気づかされた。

 僕たちはずっと、この事件は”アイドルの”桜木千鶴に恨みがあるものが彼女を殺害したものだとばかり思い込んでいた。だけど、犯人は千鶴に対しての恨みなど最初から持ち合わせていなかったのだ。

 ふとγ世界での出来事を思い出した。あの世界で秀一は、父親への憎しみから、その再婚相手と親を父親の目の前で殺した。そして、再婚相手との娘であるアリスまで手をかけるところだった。思えば、あのときの秀一も再婚相手やアリスに対して直接の恨みを持っているわけではなかった。ただ、父親への憎しみから二人に危害を加えようとした。殺人の動機は、何も本人への恨みとは限らない。こんなにも近くにヒントはあったのだ。

 そして、γ世界で千鶴が生きていた理由。僕たちは、ミサイルの影響で犯人が犯行を実行できない状況にあったと結論づけていた。だが、あの世界で確かに先生は生きていて、そして千鶴も生きていた。なのに、なぜ犯行が起こらなかったのか。それは、僕が原因だった。あの世界で僕は、中学に上がると同時に秀一に過去日記を渡し、以来日記をつけることはなかった。そして、快方に向かっていたはずの僕の記憶障害は再発していたのだ。つまり、あの世界の僕は入院していた頃の僕と同じような状況だった。……だから、事件は起こらなかった。

 なら千鶴は、僕のせいで殺されたようなものじゃないか。

 千鶴の命は、僕自身、そして目の前に立つ先生によって振り回されてしまったのだ。そのことにどうしようもない怒りを覚えた。握った拳が震える。

 僕はこの人と決着をつけなければならない。


「先生、僕は先生のことを父親のように思っていました」


 辛いときに励ましてくれた先生。先生がいなかったら、きっと今の僕はここにはいない。


「私も、君のことを子のように思っているよ」


 先生の言葉に嘘はなかった。

 ならば、どうしてここまですれ違ってしまったのだろうか。

 星空の下、三人で笑いあった日は虚構だったのだろうか。

 確かなことは、もうあの日々は帰ってこない。


「先生、僕が警察に連絡するよりも先にここに来た意味はわかりますか」


 僕はこれまでの推理から先生が犯人であることを確信した。本当ならその時点で警察に連絡し、証拠品を押収してもらうべきだったのかもしれない。けれど、そうはしなかった。


「僕は先生のことが許せない。身勝手な理由で、僕の大切な人を奪った先生を。だけど、たとえ先生にどんな思惑があったとしても、僕が一番辛いときにいっしょにいてくれたのは先生だった」


 先生が千鶴を殺したことは事実であり、そしてまた先生が僕を救ってくれたことも事実だった。


「だから先生、自首してください」


 はっきりと決別の言葉を告げる。

 僕がここに来たのは、この言葉を伝えるためだった。

 極端に言えば、僕はここに来ることなく過去日記を使って、千鶴が生きている世界に行くことができたかもしれない。過去の僕は先生を信頼しきっているが、それでも秀一と相談すればその方法も不可能じゃなかったように思える。

 だけど、僕はこの事件にきちんと決着をつけなければいけない、そんな気がしていた。

 きっとそれは、僕にしかできないことだから。

 意を決した言葉。先生を信じる最後の機会――。

 だが、それが届くことはなかった。


「そんな提案、受けるわけないだろう。ようやく僕たちは昔に戻れるというのに」


 僕の祈りも通じず、先生は右手で白衣のポケットから何かを取り出した。

 徐々に姿をあらわしたそれは、注射器だった。中には薄く色づいた透明の液体が入っている。


「それは……」


 注射器を片手に持つ先生に、僕は反射的に警戒態勢をとる。


「心配しなくていい。これは少し肉体の動きを麻痺させ、意識を混濁させるだけのものだ。死ぬことはない。だが、これを使えば君に与えられる瞬間的な負荷から、君は直近の記憶を失うことになるだろう。本来ならば、これは事件の日に使うつもりだった。だが彼女を刺した後、君にこれを投与する前に彼女に足を掴まれてしまってね。急所を刺したはずの彼女が私の足を掴んだことに動揺し、君を逃してしまった。まあ、結果的に君はショックで記憶を失ってくれたから良かったものの」


 驚きの声が漏れた。

 先生は、僕にその薬物を投与することで、記憶を消そうというのか。

 注射器の先からカバーを外し、先生は笑みを見せる。


「これで全てが元どおりさ。君を縛る彼女はこの世からいなくなり、そして君はその記憶を失う。また、昔の私たちに戻れるんだ」


 先生はそういうと、僕に一歩にじり寄ってきた。

 僕はその動きに合わせて一歩後ずさり、そして覚悟を決める。

 もう言葉を交わすことでの解決は望めない。

 右ポケットから手のひらサイズの黒い電子機器を勢いよく、取り出した。

 それを見た先生が、瞬間、その動きを止める。


「それは……、スタンガンか!」

「本当はこんなことしたくなかった、だけど……」


 僕は右手に持つスタンガンに力を込める。

 先生との対話が決裂したときのために昨日から準備をしておいたものだ。こんな決着は望んではいなかったが、今ここで先生の思い通りになるわけにはいかない。

 僕は硬直した先生に向かって勢いよく駆け出すと、その高圧電流を先生の手にめげけて放った。

 スタンガンと先生の体の距離はわずか数センチ。躱しようがない。

 やった……!

 僕はそのままスタンガンの先を先生に押し付け……。

 瞬間、信じられない出来事が起こった。

 先生がポケットから左手を取り出し、スタンガンを手のひらで掴んだのだ。確かにスタンガンは接触しているはずなのに、先生は平気な顔で立っている。

 驚きに目を見開く僕。

 スタンガンを掴んだその手を見ると、そこには淡い水色の手袋がはめてあった。


「そんな……」


 先生の顔は狂喜に歪み、そしてスタンガンを掴んだ勢いそのままに僕に向かって体重を乗せてくる。

 その重みに耐えきれず、僕は地面へと倒れた。起き上がろうとするもすぐに両腕を膝で固定され身動きが取れなくなった。


「どうして」


 確かにスタンガンは接触していたのだ。だが、こうして先生は僕のことを押さえつけている。

 先生は右手に持った注射器を念入りに確認しながら言った。


「簡単なことさ。君がここにくるとき、私は監視カメラで既に君の姿を確認していた。君の服装からして、大きな武器を隠し持っていないことは明らかだ。そして、利き手側のポケットの形状から、君がスタンガンを準備していることを確信した」


 そう言いながら先生は、僕に向かって左手を高々と掲げる。


「これは手術用のゴム手袋でね。メーカーの人間が自慢していたよ。生地は薄いが、その絶縁性能は確かなものだ、と」


 僕の考えは、先生に読まれていた。

 注射器を持つ右手は素手だったために、僕は左手も素手だと思い込んでいたのだ。だが、実際にはポケットの中に入れていた左手は、絶縁体に包まれていた。

 先生は再び笑いかける。


「しかし、あらかじめ警察を呼んでおけば結末は違ったかもね。君がそうしなかったのは、自分のことを疑う警察を信用できなかったからかい。いずれにせよ、やはり君は僕と同じだ。本質のところでは、君も僕も他人を信じてなどいないんだ。……さあ、仕上げだ」


 先生はそういうと、拘束した僕の左腕に向かって注射器を近づけた。

 先生は勝利を確信した笑みを浮かべる。

 その針の先端が僕の肌へと触れる瞬間――。

 先生はその動きを止めた。

 それは僕の笑い声を聞いたからだ。

 先生は訝しそうな目で、僕を見つめる。


「何を、笑っているんだい」

「先生、言いましたよね。僕と先生は同じだ、って。僕も先生も他人を信じることができない、って」

「あぁ、それがどうした」

「確かに先生の言う通り、昔の僕だったら誰かを信じるなんてことできなかった。だけど……、今は違う!」


 僕の叫びと同時、左手側に地面を踏みしめる音が聞こえる。さらに、噴水で立ち上がった水の壁の向こうに人影が揺らめいた。

 先生は驚き、その方向へと体を向ける。

 直後、人影とは逆の方向から黒い影が一気に突進してきた。

 そのままその影は僕の上に乗っていた先生を吹き飛ばす。

 先生は僕の上から硬いアスファルトへと投げ出された。


「秀一!」


 僕が叫ぶと、秀一は「おう!」と返し、先生の手からこぼれ落ちた注射器を蹴り、そのまま地面へと倒れこんだ先生を押さえ込んだ。

 最初に水の後ろに揺らめいた陰から、足音が聞こえてくる。

 その正体は詩織だ。

 僕の合図で詩織には先生の気を引いてもらい、その逆方向から秀一が先生を拘束する手はずだった。単純な作戦だが、結果としてそれは成功した。

 ようやく事態を飲み込めたのか、先生は僕たちの顔を交互に見た。


「これは……」


 僕は秀一によって弾かれた注射器の側により、それを勢いよく踏み壊す。中からは透明な液体が飛び出し、すぐに地面へと吸い込まれていく。

 僕は地面に倒れたままの先生を見つめた。


「先生、これが僕の、僕たちの答えです」


 先生は僕の顔をじっと見つめた後、秀一と詩織の顔を順に眺める。


「……まさか、君が、誰かを頼るなんてね」


 先生は抵抗する意思を無くしたように、手足を地面へとつけた。

 先生の敗因は、僕に対する思い込みだ。先生が見ているのは、ずっと過去の僕だった。

 何もかもに絶望していた僕。

 誰も信頼することもできなかった僕。

 先生しか希望がなかった僕。

 だけど、今の僕は違う。もう、僕は。


「僕は、もう昔のままの子供じゃない」


 その言葉を聞いて先生はどう思ったのだろうか。

 地面に伏せたまま、じっと僕の顔を見た。

 それはまるで、遠い日の僕と現在の僕を見比べるかのような視線だ。

 そして、小さく息を吐き出す。


「そうか……。成長、したんだね」


 先生はそれだけ言うと、口を噤んだ。

 その言葉に嘘はなかった、ように思う。

 僕たちの一つの長い戦いはそうして幕を閉じた。

 その後、詩織が呼んでいた警察がすぐに現場へとやってきた。

 警察のうちの一人が先生を立ち上がらせ、パトカーへと連れて行った。先生は抵抗するそぶりも見せず、ただそれに従っていた。

 警察が現場の状況の確認をはじめる中、僕はその中に見知った顔を発見した。


「佐々木刑事」


 呼びかけられた刑事は、僕たちの方を振り返り、複雑な表情を浮かべた。


「まさか、本当に二日以内に事件を解決するなんてね。驚いたよ」

「佐々木刑事が二日間、時間を稼いでくれたおかげです。ありがとうございました」

「礼はよしてくれ。僕は何も褒められるようなことはやっていない。あの取り調べも……、不本意なものだった。すまない、そしてありがとう」


 佐々木刑事はそう言うと、深々と頭を下げた。

 自分のためにやったことだ、そう言おうかとも思ったが、これはきっと佐々木刑事なりのけじめなのだろう。僕はそれを素直に受け取っておくことにした。

 佐々木刑事が頭を上げたタイミングで、秀一が僕を小突いた。


「おい、ヒロ。今のうちに言っておいた方がいいんじゃねぇか」


 その様子を佐々木刑事が怪訝そうに見つめる。


「そうだね。佐々木刑事、一つお願いがあります。この後、僕たちも事情聴取があるって言われたんですけど、少しだけ待ってほしいんです。……どうしても、行かないといけないところが、あるんです」


 僕にはまだ最後にやるべきことが残っている。

 それを終えて、はじめて僕たちの戦いは終わるのだ。

 佐々木刑事は少しだけ考えた後、無線機に向かって何かを呟いた。そして、僕たちに向き直って言った。


「駄目だ、と言いたいところだけど、取り調べの一件もあるからね。仕方ない」


 佐々木刑事はそう言うと困ったように笑った。

 僕が礼を言うと、佐々木刑事はそのまま手を振って僕たちの元を去って行く。

 残されたのは三人。僕と秀一、詩織だ。

 僕が振り返ると、秀一と詩織が笑顔を浮かべた。

 無言でお互いの顔を見つめ合い、そして口を開く前に、僕は二人の肩へと手を回した。


「秀一、詩織。本当にありがとう」


 心の中の思いを一番に伝えたかった。

 千鶴が殺されて一ヶ月。

 この一ヶ月、本当に色々なことがあった。

 だけど、いつも僕のそばにいてくれたのは秀一と詩織の二人だった。

 今だって、二人がいなかったら、僕は先生に負けていた。

 感謝しても、しきれない。


「水くせぇこと言うなよ」

「私はずっとヒロの味方でいるって決めてたから」


 二人を抱きしめる手につい力が入ってしまう。

 僕は二人の肩に顔を埋めるようにして、何度もお礼を言った。

 ありがとう、秀一。

 ありがとう、詩織。

 ありがとう。

 秀一も詩織もずっと同じことを繰り返していた。周りから見ると、すごく不審な三人に移ったかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。今ここに三人で辿り着けたことが、僕は心の底から嬉しかった。

 感情が落ち着いた頃に、僕は二人から離れた。

 本当はとても名残惜しかったけど、それでも僕にはまだやらなければならない。

 その覚悟は、もうできている。


「行くのか」


 秀一が言った。

 僕はそれに頷く。


「そうか。一つだけ言わせてくれ」

「何?」

「いつか俺は、選ぶことは捨てることだって言ったよな。だけどお前は、詩織のことも俺のことも、多分白鳥っていう医者のことも救った。まさか全部選ぶとは思わなかったぜ」

「そうだね」

「ここまで来たんだ。桜木も、全部救ってこい」

「うん」


 僕は力強く、秀一へと向き直る。


「そうだ、秀一。僕も一つだけ言いたいことがあった」

「何だ?」

「アリスと仲良くね」

「……ま、お前がここまでやってみせたんだ。俺も頑張らないわけにはいかないよな」


 秀一は照れ臭そうに頭をかいた。

 今の秀一ならきっと大丈夫だろう。僕はそう確信する。


「ヒロ、行っちゃうんだね」

「うん、詩織」


 詩織は今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。


「今言わないと、きっともう言う機会がないから言うね」

「うん」

「ヒロはね、中学に入ってから人と話すことが苦手だった私に最初に声をかけてくれた。ずっと人に臆病になってた私を、それでも見捨てないで何度も話し続けてくれたの」


 それはいつかの、僕が誰かにしてもらことと同じことだ。


「それから私は、ちーちゃんと秀一と、そしてクラスのみんなとも話せるようになった。ヒロが私の世界を広げてくれたの」

「うん」


 詩織が何を言うのか、今の僕にはわかる。


「だから、ヒロが好き」

「うん」


 僕と詩織はきっと似た者同士なんだろう。

 同じように孤独だった僕たちは、同じように救われた。

 だからこそ、僕たちはお互いの気持ちが痛いほどわかってしまう。


「ヒロの気持ちはわかってる。でもね、私もヒロから学んだんだ。諦めなければいつかその想いは報われるって。だから、私ももう少し諦めないで頑張ってみる」


 その表情は清々しいほどに笑顔で、そしてこれ以上ないくらい輝いた涙がこぼれ落ちる。


「僕からも一つ言わせてほしい。詩織はこの一ヶ月、いや、千鶴がいなくなってから、ずっと僕の隣にいてくれた。そのことにようやく気付いたんだ。こんな僕でよければ、これからもずっといっしょにいてほしい。僕たちは、四人で僕たちだからね」

「今振った相手にひどいよ、最低」


 言葉では僕を攻めながら、それでも詩織は笑顔を崩さない。


「でも、いいよ」


 詩織は僕の存在を確かめるように、強く強く僕の背中へと手を回した。

 その小さな存在が、僕をずっと支えてきてくれたんだ。

 僕は、本当に幸せだった。

 詩織が満足したように僕の体から離れると、既に涙はなかった。そして、満面の笑みでいう。


「そうだ、ヒロ。今日は何の日か知ってる?」

「どうしたの、突然。わからないけど」

「八月七日。旧暦の七夕だよ」


 その言葉に僕はハッとした。そんな僕の驚いた表情を見て、詩織は満足そうに笑う。


「これで約束果たせるね。ちーちゃんによろしくね」


 詩織はそういうと、秀一と並び、僕の出発を見送るようにまっすぐと立った。

 そして僕は、最後にもう一度二人の顔を目に焼き付けて、約束の場所へと歩き始めた。

 名残惜しいと言ったら嘘になる。この世界で、僕が二人と話すことはもうない。

 そのことを思うと、胸がきつく絞められる。

 だけど、ここで立ち止まったら、今まで応援してくれた二人の気持ちも無視することになる。

 僕は一歩一歩勇気を奮い立たせて、その場所へ向かった。

 庭園から二十分ほど移動したところで、僕は山の麓へとたどり着いた。

 目の前には山道を囲むように鬱蒼と木々が茂っている。

 九年前に来たときは、この木々がどこまでも伸びていて、まるで天を覆い尽くしているようにも思えた。だけど、今は木々の上には夜空が広がっていて、そこにはたくさんの星が輝いていることを知っている。

 山道には目印となるように、丸太のようなもので段が作られている。

 僕はそれを一段一段、上に向かって進み始める。

 この場所に来るまでにいろいろなことがあった。

 α世界。僕が一年前の文化祭で千鶴に告白したことになった世界。僕はこの世界で、千鶴から何にも負けない勇気をもらった。

 β世界。詩織が、僕と球技大会の実行委員になったことをなかったことにした世界。僕はこの世界で、詩織の存在がいかに大きいかを知った。僕たちは、四人いて、僕たちなのだ。

 γ世界。秀一が、父親への復讐を果たした世界。一人の憎悪が世界を焦がしてしまうことがあるのだと知った。何でも卒なくこなし、誰とでも仲良くなれる秀一が抱えた闇。僕たちは、ようやく真の意味でわかりあうことができた。

 そして、この世界。未来の僕が、千鶴を助けるために過去日記を使った世界。僕が親のように信じていた先生は、歪んだ思考の持ち主だった。それでも、先生が僕のことを助けてくれたことは確かだった。一つの決着がついた世界。

 これまで歩んできた世界が、これまで関わってきた人たちが。

 僕の一歩一歩を後押ししてくれるように僕を突き動かす。

 僕がここにいるのは、みんなのおかげだ。

 そして、そのみんなの中に千鶴がいる。

 僕は、ひたすらに段を駆けて行く。

 突如、木々で覆われた視界が開ける。

 そこには、九年前にも座ったベンチがひっそりと佇んでいる。

 眼下には、星空を写したような光の絨毯が敷き詰められている。

 だが、まだ空は見ない。

 それは二人の約束だから。

 僕は、ここに来るときに唯一持ってきたものを開く。

 過去日記。

 思えば不思議な日記だった。

 僕の長い旅は、ここから全てが始まったのだ。

 そして、ここで一つの物語が終わる。

 僕は、一番最初にその日記を書いた日のページを開く。


『6月16日 今日から日記をつけます。今日はさくらぎちづるさんといっしょにかくれんぼしてあそびました。』


 六歳の自分が書いた字は拙く、思わず笑ってしまう。

 だけど、絶望に沈んでいた僕を救い出してくれたのが、この一文だったのだ。

 僕はそれを書き換える。


『6月16日 日記をつけるのはやめます。ぼくは日記をすてました』


 物語の始まりの一文。

 僕の存在を証明してきた日記を手放すのは怖い。

 でも、僕にはみんなと過ごした時間がある。だからきっと大丈夫。

 記録はもういらない。僕を支える記憶が心にあるから。

 書き換えた日記を閉じる。

 瞬間、視界がぐらりと揺れた。

 真っ白な世界。

 ここに来ることはもう二度とないだろう。

 目を開くと、さっきまで僕が握っていたはずの日記はもうなかった。

 代わりに、後ろから地面をぎゅっと踏みしめる音が聞こえた。

 僕は、ゆっくりとそこに立つ人物に向かって振り返る。

 その姿に僕の瞳からは熱い雫がこぼれ落ちていた。


「ようやく約束を果たせたよ、千鶴」


 名前を呼ばれた少女は、僕のことを見つめて笑った。

 頭上には満点の星空が輝いていた。

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僕と彼女と過去日記 水瀬すず @suzuminase

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