偏向の愛情
私は、優秀だった。
とりわけ、勉学の分野で私の才能は開花した。
それに気がついたのは、一体いつだっただろうか。正確な時期は覚えていないが、とにかく物心つく頃には、私は周囲の人間とは一線を画す人間なのだと言うことを自覚した。
学校の同級生にも、上級生にも、下級生にも私に並ぶものはいない。私は常に最上位の成績を収めた。周囲の人間がなぜ教科書という学問の入門に位置する内容を理解できないのか、理解に苦しんだ。ものの道理を解する者であれば、何一つ理解できないことなんてないだろうに。
いつしか私は、その理解できない人々との交流を避けるようになった。同じ場所で生活していて、同じ言語で話しているというのに、私と彼らの間には生物として埋め難い深い溝があったからだ。
そんな私の横柄な態度を諫める人間もいた。あれは高校の教師だっただろうか。いつだか私に向かって言ったのだ、「君が優秀なのは、それは君にとっての世界がこの小さな箱庭が全てだからだ。外を見れば、君は有象無象の一つに過ぎない」と。教師の言葉には理がないわけでもない。ただし、それを信頼させるには、その教師はあまりにも適性がなかった。どうして、自分よりも学問に対する理解が浅い者の言葉を信じられるだろうか。受験勉強のような簡単な作業すらこなせずに平々凡々な学術機関へと進学したものが、自分より一回りも小さな存在に受験勉強は必死にしろという、これほど滑稽なことはない。
いつしか私は己の不出来を他者に投影するその教育機関に見切りをつけるようになった。周囲から益々上がる反発の声とは裏腹に私は国の最高学府へと首席で進学した。大学では、私は脳科学研究に没頭した。それは幼い頃からの疑問である「私と他者を分け隔てるそれは何か」という疑問の答えを探るためだった。その答えを求めるために、私は海外の研究機関への留学を経た後、国内の国立研究所へと舞い戻ってきた。その間書いた論文は、最高権威である学会誌にも掲載され、学会での発表も数多くこなしてきた。二十代が終わる頃には、将来ノーベル賞は確実だとも言われてきた。
かつて言われた”外”の世界に飛び込んだが、結局私は有象無象の一つにはならず、私と他者には深い隔たりが存在するままだった。
そんなある日のことだった。知り合いの医師に重度の障害がある患者を診てほしいと言われたのだ。医師免許は持っていた私だったが、それまで臨床に携わることはほとんどなかった。一患者に関わる時間があれば、私は、私の疑問への答えを見つけたいと考えたからだ。だが、そのとき私は何の因果か、それを引き受けてしまった。
そして出会ったのが、まだ若干六歳の一人の少年だ。
彼と初めて出会ったとき、私は身を打ちひしがれる思いだった。彼の瞳は暗く沈み、その心は闇の中にいた。まだ私の何分の一にも満たないその生で、彼は既に世界から隔離された存在だったのだ。ちょうど、その頃の私のように。
私は感動した。その小さな身に私を超える孤独を感じたからだ。
そして、興味を持った私は彼の治療に積極的に携わるようになったのだ。
さらにもう一つ幸運があった。それは、彼の障害には類似のケースが少なく、その原因の特定が困難だったということだ。これまで、問題に対してすぐに解を導き出してきた私にとって、彼の症状は私の知的好奇心を大いに刺激した。思考、判断、知覚、行動、記憶。あらゆる方面から脳を刺激しても一向に改善は得られない。その事実がより一層、私を興奮させた。
いつしか私は己に、そして彼に誓うようになった。
『君の病気は”私”が必ず治す』と。
彼は深く沈んだ深海の中で、それでも私の言葉だけを一縷の光に感じていたようだった。私の治療に取り組む姿勢を間近で見てきたからであろう。
私は彼から「未知」を、彼は私から「治療」を与えられていた。同じ孤独を抱えたもの同士が互いを必要とするその関係は、名状し難い心地良さだった。
だがそんなある日、一人の少女が彼のもとへとあらわれた。彼女は彼を遊びに誘い、初めは断られていたはずなのに、気がつけばいつも一緒にいるようになっていた。そして、以前私が提案したときは拒否した日記も書き出すようになった。だが、所詮は子どもの遊戯。その頃の私は、そのことを深く受け止めてはいなかった。
しかし、すぐに異変は起きた。彼女があらわれてから一月が経った頃、彼が彼女のことを記憶し始めたのだ。一日でリセットされるはずの記憶が、その微かな残滓を留めていた。一時的な症状の異変だと考えていたが、一向にそれが変わる気配はない。私ははじめて心の中で歯車が狂ったような焦燥を感じた。
さらに初診から一度も笑うことのなかった彼が、初めて彼女の前で笑顔を見せたのだ。私はそのことに自分でも理由がわからないまま、ひどく心を乱された。彼が笑顔を取り戻せば取り戻すほど、私の心は暗い海に沈んでいくようだった。
そして決定的な出来事が起こった。どうにも少女と少年が病院を抜け出して、山へと星を観に行くことを画策していたのだ。私は彼が変わってしまった原因を追求するため、二人へ同行することを決めた。そこで気づいてしまったのだ。そのときには彼はもう私だけを必要としているのではなく、彼女を必要としているのだと。
そして、私は確信した。
彼女の存在こそが、彼にとっての”癌”なのだと。
私は、私の二年間の治療、いや私の人生すべてで得てきたものを、たった一人の少女に否定されたのだ。このときほど、心を乱されたことは後にも先にもなかった。
それからも、彼の症状は快方に向かった。彼女が検査入院から退院した後も、折を見ては二人は遊ぶようになったのだ。それと比例するように、彼の記憶は保てる期間が長く、確かなものへと変わっていった。
この頃の私は、荒れていた。それもそうだ。これまで培ってきた私の知識、経験、理論が尽く否定されたのだ。私の全てを注いできた二年間の治療が少女のたった一月の時間に敗れた。私は再び誰もいない世界の中へと逆戻りしたのだった。
それから数年が経ったある日、私に転機が訪れた。ふと病院のテレビに目をやると、そこにはかつて私を否定した少女が映っていたのだ。ずっと乾いていた私の心に一滴の雫が落ちた。だが、それは一時の潤いでしかないことを私はすぐに知った。
月に一回の彼との定期検診の際に、私は彼女のことを尋ねた。そのときの彼は落ち込んだ様子で、私は再び以前の、孤独だった頃の彼が戻ってきてくれるものだと期待した。
だが、一月経っても、二月経っても一向にその気配はなかった。私は又しても、私の希望を奪われたのだった。そのときになって、いつかのように直感したのだ。
彼と彼女が距離を取ったぐらいでは何も変わらない。
彼女の存在自体が、彼にとって邪魔なものなのだ、と。
私は最初にそう直感した日、すなわち『2020年7月7日』のことを思い出していた。
あの日、結んだ約束を。
彼女のことだ、きっと約束を忘れてはいまい。
彼と離れた『2029年7月7日』に必ず約束を果たすだろう。
そして、私は彼女を殺した。
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