二人の庭園

 八月七日。

 事件が発生してからちょうど一月。僕たちの物語の、最後の日。

 夕暮れの空が、あたり一面をオレンジ色に照らしていく。水面が反射するその光は、すべてを包み込むように温かい。周囲に人がいなくなったことで、あたりには噴水が吹き出す音と木々が風に揺られる音だけが響き渡っている。

 自然だけが音を奏でる世界に、地面を踏みしだく一つの足音が響く。

 振り返れば、そこには純白の白衣に身を包んだ壮年の男性が、柔和な笑みを浮かべていた。


「どうしたんだい、ヒロ。こんなところに呼び出して」


 そこに立っているのは、長年僕を支え続けてくれた人。


「……白鳥先生」


 僕から数歩離れたところで、白鳥先生はその歩みを止め僕に相対した。先生はいつものように僕に向かって、笑いかける。

 僕が導き出した結論。それが今、僕の目の前の人物だ。

 幼い頃から、僕のことを親身に治療し続けてくれた人。

 そして今は、僕が決着をつけなければならない人。

 拳が震え、背中には嫌な汗が伝う。

 それでも、僕は、僕たちがたどり着いたその事実を告げなければならない。


「白鳥先生、あなたが……千鶴を殺した事件の犯人だ」


 先生は僕の言葉を受けて、一瞬目を丸くする。だが、すぐにおどけたように口を開いた。


「おいおい、ヒロ。いくら冗談でも言って良いことと悪いことが」

「冗談なんかじゃありません」


 茶化すように発した言葉を遮る。

 こんなこと、冗談で言うはずがない。震えそうになる全身を意思の力で押さえ込み、正面に立つ先生を真っ直ぐに捉える。

 先生は僕の視線を受け、その口角を引き下げた。


「……何か、根拠があって言っているのかい」


 その重く暗い響きが、先生から発せられたのは初めてのことだった。先生はいつも患者である僕を不安がらせないように明るく穏やかに振舞っていた。その先生が、今僕に冷たい目を向けているのだ。

 ここに来るまで何度も考えた。

 僕は過去日記を手にしてから、様々な世界を巡った。

 そうして得られた数々の事実が、目の前にいる先生が犯人だということを告げた。

 先生の問いに怯むことなく、僕は首肯する。


「……そうか。ならば根拠を聞かせてもらおうか」

「先生は以前、僕が聞いたときに言いましたよね。今回の事件は通り魔の犯行ではなく、顔見知りの犯行の可能性が高いと」

「あぁ、そう言った。彼女の体には数十カ所にも及ぶ傷跡があったのだろう。ならば、犯人は彼女に強い恨みを覚えている者の可能性が高い」

「そうです。でも、ここで一つ問題があります。犯人はどうやって、事件当日の千鶴の行動を予測できたのか。千鶴は普段東京で生活しています。けれど、事件はこの街で起こった。つまり、犯人はあらかじめ千鶴の行動を知っていたはずなんです」

「……言っておくが、私が彼女に最後に会ったのは小学生の頃、つまり数年以上も前だ。以降、私は彼女の連絡先すら知らない。こんな私が、どうやって彼女の行動を知り得たと言うんだい」


 先生は淡々とその理を積み上げていく。それはまるであらかじめ準備していたかのようで、一片の綻びもないように思える。だが、僕にはそれがどこか空虚なものに聞こえた。


「それを説明するには、まず事件当日の千鶴の行動を振り返っていきましょうか。七月七日の正午ごろ、彼女のアイドル仲間である水野亜紀さんが、千鶴から『大切な人との約束がある』と言われたそうです。その後千鶴は東京を出発し、午後八時ごろに事件現場付近の喫茶店で一人の人物と会っていた」


 これは彼女がβ世界をつくるきっかけとなった出来事。


「その相手とは、僕のクラスメイトでもある高島詩織です。二人は喫茶店で約一時間ほど話し、小さな口論の末、詩織は千鶴を置いて先に帰りました」

「ならば、彼女がこの街に来ることを知っていた水野亜紀、もしくはその高島詩織のどちらかが事件に関係しているんじゃないか」

「えぇ。千鶴がこの街にやってくることは、その二人しか知らない。さらに言えば、警察の捜査によると、彼女の行く先を示唆する通信記録は一切なかったそうです」

「ならば」

「でも、そもそもが間違っていたんです。千鶴が言った『約束』とは、詩織と会うことじゃなかった。いえ、もしかしたらそれも含んでいたかもしれませんが、『約束』はもう一つあったんです」


 結んだ相手すら忘れてしまっていた約束。

 だけど、千鶴はずっとその約束を忘れていなかった。


「その約束とは、九年前の七夕の日に僕と千鶴が小さな山の頂上で交わした約束、『二人でまた星を見よう』という約束です。……つまり、犯人は九年前から七夕の彼女の行動を知っていたんです。その約束を知っていたのは僕と千鶴、そして」

「……その場に居合わせた私、と言いたいのか」


 九年前の七夕の日、僕と千鶴は病院を抜け出して、山から夜の星々を見ることを画策した。だが実際には先生に見つかり、先生の引率というかたちで、僕たちは三人であの星空を見た。

 つまり、あのときの約束を知っているのは、僕と千鶴、そして先生の三人なのだ。

 先生は、僕の理屈が間違っていると言いたげに鼻で笑った。


「おもしろい推理だが、さすがに論理が飛躍しすぎている。そもそも殺人という大それた事件を起こすのに、九年前の約束なんていう不確かな情報をもとに計画を立てるのは非合理的だ。それにあのときの約束がなぜ今年果たされると思ったのか。約束が果たされるのは、一年後かもしれないし、二年後かもしれない、それが今年に果たされると考えるのは、都合が良すぎるんじゃないか」


 さも当然だというように先生は僕の言葉に反論する。

 だけど、それも僕が考えていた反論のうちの一つだ。


「まず、約束を殺人の計画に組み込んでいたという話ですが、極端な話犯人にとってはいつでも良かったんだと思います。仮に千鶴が九年前の約束をすっかり忘れていて、七夕の日にこの街に帰って来なかったとしても、犯行を別の日に行えばいいだけだ」


 犯人は特定の日に事件を起こすことを企んでいたわけではなく、たまたま九年前の約束という情報があった日をその第一候補として選んだ。もし、七夕の日に計画が空振りしても、犯人にとっては別段デメリットはない。


「だけど、犯人は今年にその約束が果たされる可能性が高いと考えていたと思います」

「なぜ?」

「だって、先生が教えてくれたんですよ。七夕の日は、一年に一度だけ織姫と彦星が神に会うことを許された日だ、って。僕と千鶴は初めて出会ってから一年前までずっと共に過ごしてきた。だけど、一年前の文化祭の日以降、僕たちは初めて離れ離れに過ごすことになったんです。そのことを考えれば、今年の七夕に僕たちが会う可能性が高いと考えても不思議じゃない」


 星空を見上げながら寓話を語ってくれた先生。その伝説については、誰よりも先生自身が詳しい。もし織姫と彦星の物語に僕たちの関係を当てはめるなら、千鶴が結んだ約束は、今年の七夕に果たされる可能性が高いはずだ。

 僕の推理を先生は黙って耳を傾けていた。


「話を戻しましょう。喫茶店で詩織と別れてから、千鶴はある人物を待っていた。あの喫茶店は僕たちが九年前に星を観た山への途中にありますからね。そして、その人物はあらわれた。……そう、僕です」


 あの日、僕は夜九時頃に家へと帰り、すぐに眠りについたと思っていた。

 だけど、それは僕の思い込みだったんだ。

 実際には、過去日記によって、未来の自分に行動を操られた僕は千鶴と会っていた。


「僕たちは合流してから約束の星を見るために、移動を開始しました。そこにやってきたのが犯人です。僕はとある理由からその日は周囲を警戒していました。だけど、僕は犯人を警戒することができなかった。なぜなら、それは僕も千鶴もよく知る人物だったからです」


 過去日記によって、千鶴への危害が加わることを予測していた僕。

 だが、未来の僕はその犯人が誰までかはわからなかったのだろう。

 先生とは九年前にも夜に山へと星を観に行った。

 僕と千鶴が夜に出会っても警戒できない唯一の人間。

 結果的に僕は注意していたのも関わらず、犯人を迎え入れてしまった。


「そして、先生は隙を見て……、千鶴を刺した」

「やはり、君の推理には無理がある。君の言う通りなら、私たちは三人で行動していているときに犯行が起こったことになる。普通は目撃者のいないところで犯行を行うか、目撃者を消してしまおうと考えるはずだ。そんなことをすれば、君が警察に行ってこの事件はすぐに解決するのだから」

「その通りです。……でも、実際にはそうならなかった。僕は現場にいて、犯人の顔も見ていた。にも関わらず、事件の捜査はこんなにも難航してしまった。それは僕が記憶を失ってしまったことが原因です」

「記憶を?」

「ええ。犯人は千鶴を刺した。普通なら次はその場にいた僕を刺して口封じをするでしょう。でも犯人はそうしなかった。なぜなら、犯人は僕が精神的に負荷を抱えたときに記憶を失ってしまうことを知っていたからです」


 実際には、僕は精神的なショックで記憶を失ったわけではない。

 過去日記によって操作された行動であるため、僕にはこの日の夜の記憶がないのだ。

 だけど犯人は、僕が精神的なショックで記憶を失ったと考えているはずだ。


「そうして、千鶴を刺した犯人は逃げていく僕を追うことなく、倒れた千鶴にさらに刃物を突き立てた」

「なぜそんなことをする? 倒れた彼女よりも逃げていった君を追うほうが合理的だと思うが」

「さっきも言いましたが、犯人は僕が逃げても記憶を失うと考えて放置したのでしょう。それに、犯人は焦っていたのだと思います」

「焦っていた?」

「警察によると、千鶴は最初の一突きで急所を突かれ、致命傷を負ってしまったみたいです。だけど、これは珍しいことです」


 一般的に刃物による通り魔事件などでは、一突きで被害者が死に至ることは稀だ。普通は肋骨に阻まれたり、そもそも急所を外れたりすることが多いためだ。

 いくら被害者が油断していたとはいえ、暗がりで、それも刃渡りの短い凶器で、ひと突きで致命傷を追うことは珍しい。


「つまり、犯人は人体について、熟知していた人間であることが予想されます。故に犯人は焦ったのでしょう。一撃で急所を突いてしまっては、通り魔の犯行としては不自然だ。だから、犯人は急所を突いた後も事件を偽装するために、複数の箇所を刺した」

「……なるほど。ならば、そもそも刃渡りの短い刃物を使った理由は?」

「それはおそらく凶器の刃物から僕の指紋が検出されるようにしたかったからでしょう。僕がその刃物に触れた覚えはありません。なら、犯人はどうやって僕の指紋のついた凶器を準備できたのか、という疑問が生まれます」


 凶器の刃物から僕の指紋が検出された理由。

 それは、僕が気づかないうちにその凶器に触れてしまっていたからに違いない。

 そして、刃渡りの短い刃物が存在しても不自然ではない場所。


「それはおそらく病院で取られものでしょう。僕は、記憶障害が寛解してからも月に一度検査のため、病院に通っている。その検査のときか、あるいは入院していたときのいずれかのタイミングで僕の指紋が取られた。そのとき、病院内にあって不自然でないように、刃渡りの短い刃物が選ばれた」


 先生は黙って、僕の推理を聞いた。

 その顔は最初にここに訪れた時のような余裕のある表情ではなく、真剣そのものだ。


「そうして、犯人は千鶴を殺害した後、悠々とそこから立ち去った。……これが、事件のすべてです。どうですか、先生」


 僕は正面から先生を見据える。

 一つ一つは小さな出来事に過ぎない。だが、その全てを積み重ねれば、そこには誰かの意図が見えてくる。

 七夕の約束を知っている人物。

 僕と千鶴が夜に会っても警戒しない人物。

 人体の構造に詳しい人物。

 僕の指紋付きの刃物を用意できた人物。

 これらに当てはまるのは、僕の目の前の、たった一人しかいない。

 僕は正面から先生と向かい合う。

 だが、先生はそれでもまだ反論を重ねる。


「なるほど……。よくできた妄想だ。だが、彼女が握っていたアクセサリーについてはどう説明をつける? アレは確か君が贈ったものだと記憶していたが」


 千鶴が死後硬く握り締めていた白い羽を型どったアクセサリー。

 今となっては、その意味も明らかだ。


「先生、覚えてますか。夏の大三角を見たときに、千鶴がベガ、僕がアルタイルなら先生はデネブだと言ったことを」


 九年前のあの夜、星空を見て、僕たちは夏の大三角を見つけた。

 先生は僕と千鶴のことを彦星と織姫に例えた。そして、僕はそれに返すように先生のことをもう一つの星だと言ったのだ。


「デネブの意味は動物の尾。そして、デネブは白鳥座を構成する星でもある。……つまり、千鶴が握っていたあの白い羽は、白鳥の尾を意味する。すなわち、白鳥先生、あなたの犯行の尻尾を掴んでいたんです」


 千鶴が硬く握り締めていたアクセサリー。

 それは僕にしか伝わらない、僕のための千鶴のメッセージだった。


「あの日、先生は夜勤で病院にいたと言っていましたが、監視カメラを見れば犯行時間だけ抜けていることがわかるはずです。それに」

「もういい」


 先生は、そう言って僕の言葉を遮った。

 それは他でもない、先生が僕の推理を認めるという意味をあらわしている。

 先生は白衣のポケットに手を入れたまま大きく息を吐き出した。

 落ちかけた日を見ながら、先生はその重い口をゆっくりと開く。

 その横顔はいつも僕が見てきたものと同じように穏やかなのに、どこまでも別人のように感じる。


「そうだ、私が殺した。君の目の前でね」

「どうして……」


 怒りで頭がおかしくなりそうだった。だけどそれと同じくらい行き場のない悲しみが僕の心を襲った。

 僕たち三人の思い出をあれだけ鮮明に覚えていた先生が。

 僕や千鶴のことをいつも気遣ってくれた先生が。


「どうして、殺したんですか」

「君のためさ」


 言っている意味がわからなかった。

 だが、先生の表情は至って真剣そのものだ。


「意味が……、わかりません」

「そうかい。なら順序良く話そうか」


 先生はそう言うと、過去を語り始めた。

 そこで語られるのは、一人の医者の狂気の物語。先生が、堕ちた日の物語。

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