レオンが、ホームレスの暮らす路地裏に帰ってきたのは陽が落ちる前だった。彼の左手には、いつもより少しだけ大きく膨れた麻袋。そして、彼の鉄の右手にはナインの小さな手が握られていた。   

 ホームレスたちの様子はこの時間、この季節になると大抵は身を縮こませて静かにしているはずなのだが、その日はいつもと様子が違っていた。

「ほらっ、一人ずつ並べ。人数分はある」

「ナナキ、戻ってたのか」

「わかったら手伝ってくれねぇか? わい一人じゃ追いつかんっ」

 路地裏の入り口に大きな荷台が二つ。布のかかったそれを、レオンは開けるとそこに入っていたのは夥しい量の防寒着と毛布が詰まっていた。そして、ナナキはその荷台から防寒着と毛布をセットに、彼の前に並ぶホームレス一人一人に配っていた。

「お前さんの言う通り用意してやったよ、ったく。老人に無理させやがって」

「すまない、ありがとう」

「礼を言うのは手伝ってからにしてくれ、ほら。嬢ちゃんも」

 レオンのそばにいるナインはナナキの言葉に黙って頷くと、その小さな体を思いっきり伸ばして荷台から毛布などを引き摺り下ろそうとする。レオンも、続いて荷台の布を取り払いそこから防寒着を取り出してゆく。ふと、隣でナインが軽く声を漏らす音が聞こえた。

 思わず、隣を見るレオン。そこには、防寒着を下ろす途中でナナキがナインに何かを着せている姿だった。

「こんな格好じゃ寒いだろうと思ってよ。思わず買っちまった」

「……いいのか?」

「いいも何もなぁ……こんな子供が寒さで凍えさせるわけにはいかんだろうさ」

 ナナキが、ナインに着させたのは白い綺麗なポンチョだった。前を紐で留めるタイプで、紐の先には小さなポンポンが付いている実に可愛らしいものだ。それをもらったナインも、どこか素っ頓狂な顔をしており、というよりも戸惑っているという方が近いようななんとも不思議そうな表情をしている。

「黙ってもらっとけよ、嬢ちゃん。一緒に暮らすんだ、仲良くしてゆこうや」

 力強く、わしわしとナインの頭を鷲掴みするように撫でた後。再び、ナナキはホームレスの相手をし始めた。

「……レオン様……これ」

「……貰っておけ。少しは寒くないだろう」

 しばらく、考えるように下を見た後。ナインは、静かに頷いた。それを見たレオンも、納得したかのように再び荷台の上から防寒着を取り出しホームレスの連中に渡し始める。

 なんとなく、続いていたはずの日常に光が灯るような瞬間にレオンは思えた。ホームレスたちの表情は、何処と無く安堵にも似た笑みを浮かべて、これから続くかもしれない生の実感を得ているのは目に見えてわかった。

 しばらく、こんな夢を見るのも悪くないのかもしれない。

 レオンは、そんなことを思いながら自分の頬が緩んでいることに気付きながら防寒着を手渡す作業を続けてゆく。

「ほう、これはこれは。随分と景気がいいのではないかな? ウジ虫ども」

 突如、路地裏に妬み、もしくは嫌悪感にも似たものが含まれた低い声が響く。作業をしていた全てのホームレスの動きが止まり、レオンは動きを止めながら軽く舌打ちをしていた。

「まぁ、この時期になると虫の死骸を片付けるのは我々の仕事になるわけだが。今年は少し減ってくれそうだな」

 背後からゲラゲラと笑い声の聞こえる。レオンがゆっくりと振り返る。以前なら、こんな言葉を言われてもそれを受け入れるようにただただ無視を続けていたが、今となっては違う。かつての、自身の中に巣食っている獣が目の前の標的を睨みつけるように、その声の正体を見据える。

 いつも、この時間になるとパトロールと称し。ホームレス連中にちょっかいを掛けては影では暴行などを行なっている衛兵。その数人が黒の軍服を身に纏い、銃剣を肩に構え濁った両目でレオンのことを見ていた。

「なんだ、その反抗的な目は」

「……別に」

「ん……? その横にいるのは獣人のガキか? ウジ虫の分際で奴隷を飼っているとはな。それともアレか、成長したら商人にでも売るつもりで飼っているのか?」

「……っ」

 へらへらと笑う、その汚い口に一発叩き込んでやりたいとレオンは思っていた。実際に、彼の鉄の右腕はカタカタと震えており、アルムもまた相当な怒りを持っていることは理解していた。だがそれでも、ここで事を起こせば後々面倒なことになる。レオンは、必死に怒りに震えるアルムを左手で押さえつけていた。

「それにしても、これだけの服を一体どうしたんだ? そういえば、近くの山林で。奴隷商の馬車が何者かに襲われたそうだが……?」

「……だからどうした? これは俺たちが鉄屑を集めて必死に働いて得た金で買ったものだ」

「どうだが……だが、そこの犬一匹、売ればそれなりの金になったのではないか?」

 素早い動きで、男の銃剣の先がレオンの陰に隠れるナインに向けられる。より一層怯えたナインの体が大きく痙攣し、寒さではない恐怖の震えがレオンの足へと伝わった。男の表情は、雪に白く反射し、より一層不気味にも見えた。

 しかし、次の瞬間。その表情は大きく歪むこととなる。

 男の持つ銃剣の肩当てが鳩尾にめり込み、それを一回転させた後。先ほどまでナインに向けられていた剣先は男の喉元へと向けられることとなる。やったのはレオンでも、ましてやナインでもない。やったのは他でもない、抑えの聞かなくなったアルムの仕業だった。

『おい、坊主。この男の喉突いてもいいか?』

「ばっ、お前っ!」

 自分の意思に反して勝手に動く右腕に、戸惑いの表情を浮かべながら思わず声が漏れる。頭に響いたアルムの声に『やめろ』と大声でレオンは言いたいが、すでに敵意と殺意の矛先は目の前の男に向けられてしまっていた。

「今すぐ銃を置いて両手を後ろに回せっ! 貴様っ!」

 男と共に巡回していた仲間が、その状況をみるなり各々手に持っていた銃剣の先をレオンに向ける。しかし、それらの警告を無視しアルムは依然、銃剣の先を男の喉に突きつけたままだ。必死にレオンは銃剣を握ったまま離さない鉄の腕を下ろそうとするがビクとも動かない。

 重々しい発砲音が、路地裏に響き渡った。白煙と共に吐き出された弾丸は、まっすぐとレオンの頭蓋に目掛け冷たい空気を裂きながら翔んでゆく。次の瞬間、キンと甲高い音ともに弾き飛ばされた弾丸はその軌道を変えて、背後に並ぶ路地の壁に当たって砕け散る。

『なっとらんっ! 全くもってなっとらんっ!』

 剣先は、いつの間にか白い煙を吐く銃口に向けられており。弾丸が当たり弾け飛んだアルムの握る銃剣の先はクルクルと回転し、静かに雪へと突き刺さった。

 先に動いたのはアルムだった。思いっきり突き伸ばされた右腕にレオンは体のバランスを大きく崩し、前に倒れこむ形で弾丸を放った相手へと接近する。男は、すぐさま次弾を装填しようとコッキングしていたが、それよりもはるかにアルムが放った突きの方が早かった。

「ギャっ!」

『その先についてる剣は飾りかっ! 戯けっ!』

 剣先は、男の肩を貫き鈍く突き刺さったそれを引き抜こうと必死に抵抗するものの、ひっくり返ったカメムシのようにジタバタするしか出来ず、その姿はあまりにも見るに耐え難い。

『後ろの警戒を怠るんじゃないっ!』

「っ!」

 突如、背後からの気配にレオンの本能が反応した。先ほどまで喉元に銃剣を突きつけられていた男がレオンの背後から襲いかかり、叩きつけられた銃剣がレオンの体を掠め、雪を撒き散らしながら地面に叩きつけられる。

「貴様っ、殺してやるっ!」

 もはや殺意、敵意を隠す理性など全く。辱められた恨みをただ両目に込めて、大振りの攻撃がレオンの襲いかかる。しかし、そんなものを諸共せずにレオンは身軽にそれらをかわして行く。そして、一瞬。雪に足を取られた男の体のバランスが大きく崩される。その瞬間をレオンは見逃さなかった。

 左手で、相手の銃剣を掴み上げ。銃剣ごと、男を引き寄せる。すかさず、アルムはその読んで字の如く鉄拳を引き寄せた男の顔面に力強く叩き込んだ。

「グギィっ!」

 口の中を大きく切ったのか、それとも歯が外れたのかわからないが。口から血を吹き出しながら男は吹き飛ぶと路地のホームレスたちの中に転がり込んでいった。突如衛兵が飛び込んできたホームレスの集団は、突然の出来事にまるで汚いものを避けるように男を中心に距離を置く。

『己が誇示するだけの武など、笑止千万っ! 武とは殺す為に非らず、生かし守るために有りっ! それが分からぬ者に武を振るう資格などないわ、この大バカ者っ!』

 当然ながら、このアルムの怒号は今怯えた目をしている男には聞こえていない。しかし、その武人としての誇り、憤怒は確かに目の前の男にもビリビリと伝わっているはずだ。アルムの振りあげた銃剣の先が男へと向けられる。殺されると思ったか、男の両手が庇うように顔を覆う。だが、その鋭い投擲は男の顔のすぐ横を掠め切り地面へと突き刺さる。

『故に、貴様を殺す価値も無しっ!』

「……行け、そして二度と来るな。気が変わらないうちに」

 怯えた目で、大きく頷いた彼は銃剣を放り出し、今だに痛みに喘いでいるもう一人の仲間を抱えると、一目散に雪をかき分けながら逃げ出していった。その姿に、先程までの大きな態度など微塵も残っておらず、すでにホームレスの視界から消えるまでその様は、小さな虫のように見えていたことだろう。

 大きく、吐いたレオンのため息は白く、そして暗く黒い空へと消えていった。震える生身の自分の左手を押さえ込むようにその場でしゃがみこむ。

『おい、大丈夫か。どっかやられたか?』

「……いや、大丈夫だ」

 アルムの言葉が大きく歪んで聞こえる。今、この手が震えているのは紛れもない恐怖だ。レオンは確信している。かつて、ユートの最前線で戦った兵士がこんなところで、ホームレスをやっていて、ましてやディストの衛兵と喧嘩をしたことが知られれば。ここにいる連中は一体どうなるのか、そして、今そばにいるナインがどうなるのか。

 そんなこと。考える必要などないくらいに、結果は明白だ。

『……すまん、余計なことをしちまった』

「……」

 返す言葉もない。取り返しのつかないことをしてしまった、と気づくのはいつも何もかも終わった後だ。ノイズのかかった頭の中で、レオンは意気消沈としているアルムの姿を見たような気がした。しかし、そんなノイズが晴れるような音がレオンの耳に入り込んだ。

「……」

 それは徐々に、まばらだったものが集まるように。一つの大きな音になってレオンの耳を通り越して響き渡る。

 それは、大きな喝采になって。

「レオンっ! お前さんすげぇじゃねぇかっ!」

「あぁ、あぁっ! 何かこう……スカッとしたぜっ!」

「いやぁ、本当にすごかったっ!」

 拍手は、痛々しく。だが、それでも力強く。希望など何一つない、人生の負け組が吹き溜まるようなこの暗い路地裏で大きく綺麗なものが咲いたように。

 彼らの顔には笑顔があった。

「いや……その……すまない」

「おいっ、よくやったじゃねぇかっ! 見てていい気分だったぜ、ほらっ!」

 その光景に目が眩むようにも思えた。しかし、差し出されたナナキの手を、今だに震えの治らない左手で握ると力強く引き寄せられしっかりと二本足で立たされ、その肩をナナキにバシバシと叩かれる。

 その間、いまだに拍手の収まる気配はなかった。

「レオン様。とてもカッコよかったです」

「……ありがとう」

 立ち上がったレオンのそばにもまた、ナインが羨望の眼差しを向けている姿がある。全く頭回らなかった。しかし、その微睡の中で確かに思ったことがある。それは、レオンの鋼鉄の右腕に宿るアルムも同じことを思っていた。

『「あぁ……悪くないな、こんなことも。また」』

 こんなことを思ったのは、いつぶりだったか。

 多くの命を葬り去り、そして多くを失い。それでも、何か一つを守れた時の、あの感情を。それは、ナインを衝動的に助けに行った時の感情に似ていて。自分の中にある何かが息を吹き返してゆくのはわかっていた。だが、それに気づくのが怖かった。

 レオンは、思い出してしまったのだ。

 気づいてしまったのだ。

 そして、騒ぎが収まった路地裏で再び防寒着の配布が始まり。深々と静かに降り始めた雪の中で、暖かな布に包まり穏やかな表情で眠るホームレスの姿が路地裏に並んだ。それらの光景どこか嬉しそうな表情で、いつもより早いペースで酒の瓶が空にしているナナキがレオンの隣に座り込んでいる。

「なぁ、お前さん。強いんだな」

「……あぁ」

「やっぱりあれか。ユート側の騎士っていうのは本当だったんだな」

「……あぁ」

 返答を聞いたナナキがラッパ飲みで残りの酒を一気に喉へと流し込む。その時、路地の入り口付近で路面機関車が通り、その明かりで照らされた空の酒瓶がキラキラと輝いて二人の顔を照らすと、しばらくしてボウっと消えていった。

「ありがとうな」

「……すまない。これで面倒なことになったら」

「そんなこと気にしてるのか。何、ここの連中は強い。今日みたいな、一瞬の希望でも見えれば、何されても生きることを諦めない連中ばかりだ。ここにいるやつらは」

「けれど……それは……」

「フゥ……はぁ、久しぶりにいい気分だ。このまま寝かしてくれや。な?」

「……あぁ。おやすみ」

 一瞬、笑みを浮かべたナナキは、空の酒瓶を横に置くと。買ったばかりの防寒着に身を包ませ、大きく白い息を吐くとそのまま大きないびきと共に眠りについてしまった。レオンはむき出しの肌に感じるピリピリとした寒さに身を縮こませながら、先ほどのナナキの言葉を頭の中で何度も考えていた。

「希望か……」

『まぁ。いいんじゃないか? 周りの連中がそう思ってくれてるんなら』

「……」

 希望とは何か、それは光であり、人が生きるための糧である。希望なくして、どうやってこの世を生きることができようか。しかし、今この世界のどこに希望などがある。貧困に喘ぎ、もしくは自由を奪われ、全員が死んだような目で街を歩き、それを見ている富裕層は私服を肥やしている。

 こんな世界のどこに、希望があるのだろう。

『儂はな。夢があったんだ』

「……どんな」

『この世界をな。魔法で、笑顔にしたい』

 突拍子もない発言に、レオンは思わず勢いよく吹き出してしまう。乾いた空気によく響く笑い声が路地裏に反響した後、金属の激しい音が大きく笑い声の後に続いた。

「い……って……」

『人様の夢を笑うとは何事か、この若輩者が』

 殴られた頭をレオンは摩りながら、いまだにアルムの言った言葉をうまく頭の中で理解できていない。とてもではないが八十を過ぎている男の吐く夢とは思えない。それほどまで、アルムの吐いた夢というは幼稚で、単純で。誰もが憧れるような純粋無垢な夢なのだ。

『儂は魔法が使えん。いや、使えなかった』

「ならどうして」

『使えないからこそ、焦がれるものだろう。住んでいた街に魔術師がやってきたとなれば誰もがみんな祭りのように大喜びしたものさ。お前さんたちの国は一応魔法大国ではあったのだろう?』「まぁ……そうだが」

 ディストのように、科学技術の発展した国ではなかったものの。ユートには多くの魔術師がおり、各国に比べて一番魔法の技術が進化した国でもあった。日々の生活に使われる火や水。そして、国の保有する軍で使われる魔法まで、実に幅広く使われておりユートの国の別名は『神秘の残る国』とまで言われたほどだった。

『儂も、こんな棒振りよりも。あの幼い頃に見た素晴らしい魔法を身につけたかったものさ』

「……そうか」

 そう語る、彼の言葉は。どこか夢を諦めた大人の笑い話のさなかに見せる懐かしさを帯びた眼差しをレオンは感じた。それは、かつて憧れであった騎士の父親の姿にもどこか似ているような気がしたのだ。

『人を殺しても、誰も笑顔にはならなかった』

「そうだな……」

『神槍だの何だのと言われてきたが。結局、儂は自らの手で夢を遠ざけていたのかもしれんな』

 カチャリと、項垂れるかのようにアルムの宿る鋼鉄の右腕は力なく地面に横わる。年甲斐もなく夢を語った老人は、そのまま何も言わないただの鎧の右腕へと戻った。レオンもまた、頭の中の声が無くなり静かにその瞼を閉じる。

『レオン、お前の夢は一体なんだ?』

 かつて、父に向けられた言葉が頭をよぎった。

 あの時、自分は一体何と答えたのだろう。

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鋼鉄の右腕は嗤う世界を夢見る 西木 草成 @nisikisousei

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