舞台女優
夏緒
母、妻、嫁。 1
勢いよく振りかざした拳を、痛みを伴うことなく、なんとか、静かに下ろすことができたのは、別に罪悪感とかいう高尚な気持ちが芽生えたからじゃない。
自分が犯罪者になるのがいやだからだ。
その一心だけで、ゆり子は、翔太を殴るのをやめた。
翔太は、ゆり子が腕を振り上げた瞬間、小さな腕で咄嗟に頭を庇うような仕草をした。
くそが。
ゆり子は翔太の顔を見るのも声をかけるのもいやで、握りしめすぎて細かく震える拳をそのままにキッチンに向かった。
くそが。
またやってしまった。
ゆり子は食器棚のガラス扉が壊れるんじゃないかと思うほどの乱暴さで透明なグラスをひとつ取り出した。
バタン、ガタン、と、乱暴な音が響く。
レバーハンドルをこれでもかと持ち上げて、蛇口から、グラスを持った手までびしょびしょになるほど勢いよく水を注ぐ。
服にも水滴が飛び散ったがそんなことまで気にしていられない。
グラスから水が溢れるのをしばらく眺めて、ようやくゆり子はレバーハンドルを下ろした。
一口、もう一口飲んで、それからグラスの中の水を睨み付ける。
グラスを握りしめる指先が白くなっている。
落ち着け。落ち着け。
大丈夫。
今日は殴らなかった。
寸でで抑えた。
相手は子ども、私は大人。
大丈夫。大丈夫よ。
ゆっくりと心のなかで唱えて、大きく、静かに、一度深呼吸をする。
そうしてようやくゆり子は、グラスを静かにシンクに置いた。
『母』
ゆり子は軽く手を拭いて、リビングのソファにどすんと座った。
またやってしまった。
そろそろ近所にも虐待を疑われるかもしれない。
秋の夕方は、窓を開けている家が多い。
ゆり子は「あーもう……」と呻きながら頭を抱えた。
朝せっかく整えた中途半端に伸びた髪を振り乱すようにして掻き毟る。
苛々しない苛々しない苛々しない……。
ここ数年、ゆり子は毎日のように、何千回、何万回と心のなかで唱える。
苛々したら駄目よ、我慢、我慢。
我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢。
腹一杯に我慢を溜め込んで、大きく一度息を吐く。
そうしてゆり子は自分をリセットする。
苛々するからいけない。
苛々するほうがおかしい。
そこへ翔太が、リビングのドアを恐る恐る開けて、おずおずと入ってきた。
ゆり子の顔色を窺うようにしてゆっくりとソファに近づき、ゆり子の足下の床にぺたんと座り込んだ。
ゆり子のロングスカートの裾を、ほんの少し、踏む。
もうさっきまでの癇癪は収まっている。
目の下に泣きわめいた跡がまだありありと残っている。
「おかあさん、さっきはごめんなさい」
四才にしてはまだ覚束ない口調で、翔太はゆり子の機嫌を窺った。
ゆり子は同情することも哀れむこともできず、ただ
「ブロックは全部片付けたの」
と、平坦な調子で翔太に聞いた。
翔太がはい、と返事をすると、ゆり子はようやく翔太を抱き上げて、自分の膝の上に乗せ、抱きしめた。
おかあさんごめんなさい、と、また翔太がすんすんと泣き出す。
ゆり子は面倒くせ、と思いながら、その背中を優しくさすった。
「母さんもさっきはごめんね。お片付け、ちゃんとしようね」
「うん」
返事だけは立派なんだよなあ、と溜め息を吐きたくなるのをぐっと堪える。
今は優しいおかあさんだ。
大丈夫。
できてる。
大丈夫大丈夫大丈夫。
「おかあさん、そうちゃんおきてたよ」
「そうなの、じゃあそうちゃんのとこ行こうか」
翔太に言われてゆり子は奏太のことを思い出した。
前の授乳からそろそろ三時間経つ。
ゆり子は、翔太を腕で抱き上げたまま立ち上がった。
本当はゆり子だって、翔太を可能な限り甘やかしてやりたいのだ。
ゆり子は四年で随分重くなった翔太をなんとか片手で抱いて、片手でリビングのドアを開けた。
寝室に入ると、存在感のあるベビーベッドの中で奏太が機嫌よさそうに声を出して遊んでいた。
「あ、あ、うー」と、まだ赤ちゃんらしい、可愛らしい声だ。
奏太はもうすぐ生後四ヶ月になる。
生まれたときから動きっぱなし騒ぎっぱなし叫びっぱなしの翔太と比べると、本当に誰の子だろうかと疑いたくなるくらい静かなおとなしい子だ。
……まだ、今のところは。
「そうちゃんおはよう、よく寝てたね、おむつ変えようか」
まず翔太をベビーベッドの脇に降ろして、ベビーベッドの柵を降ろす。
おむつを替えて、授乳をして、またおむつを替える。
ゆり子の生活は、奏太を生んでからずっと三時間サイクルで動いていた。
空いた時間で部屋の掃除をして、洗濯をして、買い物に行って、料理をする。
片手間で翔太の遊び相手をして、翔太が幼稚園に行っている間は、一時間の仮眠を取る。
二十四時間かけて、三時間のなかで一時間だけ仮眠するのだ。
四ヶ月、ゆり子は纏まった睡眠を取れていない。
それがゆり子の生活だった。
ゆり子は疲れていた。
精神的な余裕も、肉体的な余裕もなかった。
「しょうちゃん、またブロック出すの?あとでちゃんとお片付けしてね」
「はーい」
奏太に授乳をしながら、ゆり子は翔太の腕に抱えられたブロックの箱を見て嫌気を指す。
また出すのか。
今大騒ぎしてなんとか仕舞ったばかりじゃないか。
一日に何度も何度も同じ問答を繰り返す。
一度だって翔太が自分からブロックを片付けたことはなかった。
またあとでわたしが仕舞うのか。
買うんじゃなかった。
ゆり子は腹の底に、重くて暗くて汚い気持ちを溜め込んでいく。
その塊はまるで鉛玉のようで、拳くらいの大きさのときもあれば、ピンポン玉くらいのときもある。
ビーズみたいな粒が大量にざらざらしているときもある。
それらの鉛玉が、水のなかにゆっくりと沈んでいくみたいにして、ゆり子の腹の底に溜まっていく。
ゆり子はそれらを、沈んできたときとは比べ物にならないほどのたっぷりした時間をかけて、かき混ぜて溶かすのだ。
溶かして、混ぜて、なかったものにする。
水が、鉛玉が溶けてどんどん濁っていったとしても、ゆり子にはその水を入れ替える術はなかった。
ひとりになって、リフレッシュをするだなんていう時間は、ゆり子には存在しなかった。
ゆり子は腕のなかの奏太の顔を眺める。
うっとりした表情で今にもまた眠りに落ちそうになっている。
まだ小さくて、柔らかくて、軽くて、温かい身体。
奏太の、まだ柔らかい小さなふわふわしたほっぺたを、ゆり子はそっと撫でた。
それを合図のようにして、奏太はまたすやすやと眠ってしまった。
ああ、助かった。
ゆり子はほっと安堵する。
今から忙しい時間になる。
ふたり揃って起きていられては困る。
今から夕飯の支度をして、溢しながら騒いでいやいや食べる翔太の世話をして、また授乳をして、ふたりを風呂に入れて寝かしつけなければならない。
やっと一息つけそうになったら、本当に一息ついたところで、今度は夫が帰ってくるのだ。
今から訪れる怒涛の数時間を思って、ゆり子は天井を仰ぎ見た。
ああああああああああ……
声にならない呻き声が、洩れる。
早くみんな寝てくれ。
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