硬化。 2

「なにこれ、なんでこんなもん借りてきてんの?」

と、真は帰宅早々にゆり子が借りてきた映画を見つけてそう言った。

 いつも通り鞄をソファの近くの床にぞんざいに置いて、その手でパッケージを拾い上げてまじまじと眺めている。

「なんかね、今日昼間にコラムを読んでたら、涙には自浄作用があるって書いてあったからさ、泣いたら気分がすっきりするかなーって思って借りてきたの」

 ゆり子がキッチンで真の夕飯を温めながらそう答えると、真はさして興味もなさそうに「ふうん」と返した。

「泣けた?」

「ぜーんぜん。びっくりするくらい涙出なかった」

「なんだよ、あんま俺の金を無駄遣いすんなよな」

 真はそう言い残して手にしていたパッケージをテーブルに放り、風呂場へ向かった。

 ゆり子は、その言葉にぴたりとおたまを持っていた手を止めた。


 無駄遣い。


 その言葉がひどく引っ掛かった。

 無駄遣いなのか、これは。

 たかだか数百円だ。

 自分の心をなんとかしようと思って足掻いているこれは、無駄遣いなんだろうか。

 やっぱり真はなんにも分かってくれない、と、ゆり子はなんだか泣きたくなった。

 泣いてしまえばいいのに、それでも涙は零れなかった。


 それからゆり子は、今までとなにも変わらない毎日を過ごした。

 相変わらず翔太はわがまま放題に騒ぐばかりで、そのわめき声を聞くたびにゆり子の心はどんどんすり減っていた。

 重い鉛玉が溜まっていく。

 もう溶かしきれない。

 時々取りこぼしたそれがゆり子の右手にひっついてしまって、翔太を叩いた。

 翔太の泣き声を聞くたびにゆり子はどう言い表していいのか分からないひどく衝動的な気持ちに襲われて、泣くこともできず、ほんの少し残った理性からそれ以上手をあげることもできず、どうにもならなくて最終的には発狂した。

 このままでは駄目になってしまう。

 良くないことが起こる。

 ゆり子はなにか言い様のない不安に襲われていた。

 このままではまずい。

 なんとかしなきゃいけない。

 でもこんな状況ではなにも、どうにもならない。

 ひとりになりたい。

 ひとりになって、静かに落ち着いた時間がほんの少しでもあれば、なにかを取り戻せるような気がするのに。

 思えばこの4ヶ月、ゆり子には自分のための時間がどこにもない。

 いつも何かに追われている。

 ゆっくり買い物がしたい。

 気が済むまで寝てみたい。

 美味しいものを誰にも邪魔されずに食べてみたい。

 どれもこれも、当たり前だったはずなのに、今のゆり子には、当たり前には手にできなくなっていた。


 珈琲が飲みたいな、と、ゆり子はふと思った。

 ベッドの上で奏太に授乳をしながらゆり子は、すぐそこにあるのに、もう懐かしい思い出となってしまったその場所のことを考えた。

 まだ子育てなんてものを知る前、ゆり子には行きつけにしていた喫茶店があった。

 家から歩いて5分の場所だ。

 ごく近所に、小さな三角屋根で、店の中も外もダークブラウンを基調とした落ち着いた雰囲気のところがある。

 入り口の扉には軽やかな鈴がついていて、「いらっしゃいませ」の代わりにチリンチリンと音を立てる。

 ゆり子は、その鈴の音を久しぶりに聴きたいな、と思った。

 そこに行けば自分を取り戻せる気がした。


 現実的に考えれば、今の状況では無理だ。

 真に子どもたちを預けて出かけようにも、真はろくに奏太の世話ができない。

 一人でふたり同時に世話をすることを、真はこれまでずっと拒否してきたのだ。

 かと言って、翔太だけを真に預けて奏太を連れていけば、それはいつもとなにも変わらない。

 ゆり子がひとりになれていない。

 それでもゆり子は考えた。

 どうしてもあの喫茶店に行きたかった。


「ねぇ、2週間後の土曜日ってさ、もうなにか予定を入れている?」

 真が帰宅してすぐに、ゆり子は真に訊ねた。

「2週間後? うーん、特にないと思うけど、なに?」

「あのね、その日の午前中、絶対に予定を入れないで。私、珈琲飲みに行きたいの」

「はあ、珈琲?」

 真は眉をしかめた。

 ゆり子があまりに真顔で迫るものだから、なにかと思ったらこいつはなにを言っているんだ。

 そういう顔だった。

「珈琲なんか家で飲めるだろ」

「違うのよ、近所の喫茶店に行きたいの」

「喫茶店? また無駄遣いする気なのかよ、いい加減にしてくれよ」

「もう無駄遣いでもなんでもいい! 私はひとりの時間がほしいの。全然ないの、限界なの。30分でいい。往復で30分よ。その間子どもたちを見ててよ、お願い」

 ゆり子の必死の懇願に、真はなにかを思ったようだったけれども、それでもすぐには頷かなかった。

「でも俺、ひとりで面倒みれる自信ないよ。無理だって」

「大丈夫よ!」

 ゆり子はわざと大袈裟にその言葉を否定して見せた。

 その台詞は、想定内だ。

「だから30分なの。奏太はおむつも授乳も済ませてから行くから、あなたは本当に見てるだけで良いのよ。翔太にもちゃんと、いい子にしててねって言って聞かせるから! だから本当に危ないことだけしないようにって、ふたりを見てるだけ! ね? お願い、私もう本当に翔太のこと叩きたくないの!」

 ここまで一生懸命になって真に頼みごとをしたことが、ゆり子にはなかった。

 だからこそ、全部お膳立てまでした上で頼んで、どうしても言うことを聞いてもらいたい。

 2週間後、と頼んだのは、絶対に予定を入れて逃げられたりしないためだ。

 ゆり子の気持ちが届いたのか、真は渋々頷いてくれた。




 その日を、ゆり子はとても楽しみにしていた。

 たかだか近所に数百円の珈琲を1杯飲みに行くだけ。

 しかも時間制限のために、のんびりしていられるわけでもないのに。

 それでもゆり子は楽しみだった。

 ひとりで自由にできる時間が手に入る。

 鼻の奥に今にも珈琲の薫りが漂ってくるようだった。

 何日も前から翔太にも言い聞かせた。

「しょうちゃん、おかあさんね、今度ちょっとだけお出かけしてくるからね、その間、おとうさんとそうちゃんとお留守番しててね。しょうちゃんがそうちゃんと仲良く遊んで待っててくれたら、おかあさん、すぐに帰ってくるからね。おとうさんをこまらせるようなこと、したらだめだよ」

「うん!」

 翔太は、ゆり子が嬉しそうにしている姿に笑顔で約束をしてくれた。


 当日の土曜日になって、ゆり子は慌ただしく出かける準備をしていた。

 さっき奏太に授乳も済ませたし、おむつも替えた。

 なんならより静かなほうが良かろうと思って、奏太はそのまま寝かしつけた。

 翔太はひとりで上手にブロックで遊んでいる。

「じゃあちょっと、着替えてくるね、本当にふたりのことお願いね」

 ゆり子がソファに寝そべる真に声をかけると、真はスマホにずっと目を落としたまま、片手をひらひらとゆり子に振ってみせた。

「分かった分かった、大丈夫だから、早く着替えてこいよ、そんで早く帰って来てくれよな」

「絶対30分で帰るね」

 そうしてゆり子はリビングを離れて、服を着替えに寝室に向かった。

 すぐそこなんだから、そんなにお洒落なんてする必要はない。

 化粧だっていつも通りだ。

 鞄を開いて中身を確認する。

 大丈夫、すぐ出れるし、すぐ戻れる。

 ゆり子は、「よし、」と鏡の前で小さく頷いて、小さな鞄を手にリビングに戻った。

 そうして、リビングの扉を開けてその鞄を手から落とした。

 ぼとり、と絶望的な音がフローリングに落ちる。

 真がソファで鼾をかいていた。

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