硬化。 1

「しょうちゃん、朝だよ、おはよう。幼稚園行くから早く起きて」

「しょうちゃん汚いよやめてちょうだい」

「しょうちゃん、いつまでぐずってるの、時間ないの、ほら早くして」

「しょうちゃん静かにして、うるさいよ」

「しょうちゃんやめて」

「翔太いい加減にして」

「静かにしてちょうだい」

「翔太片づけなさい、自分がやったんでしょ」

「翔太やめて汚い」

「危ないからそれに触らないで」

「翔太やめなさい」

「翔太ちゃんとして、車に跳ねられたらどうするの!」

「翔太ちょっと黙ってうるさい!!」

「翔太!! 何回言えば分かるのよ!!」

「いい加減にしなさい!!」

「翔太!!」


 こうして最後はいつも手が出る。

 自分に余裕がないのは分かっている。

 もう少し柔らかい態度を取ればいいだけなのだ。

 ゆり子の態度次第で、翔太が素直に動くようになることはゆり子だって分かっている。

 それでも今のゆり子にはそれが出来ない。


 家の中ならまだましだ。

 やって、怒って、終わる。

 どんなに騒ごうとも、そこにはゆり子しかいないからだ。

 問題は家の外だった。

 ゆり子は外出するとき、必ず奏太を一緒に連れている。

 抱っこ紐で抱いて、あるいはベビーカーを押して、その状態で、翔太と手を繋いで歩く。

 翔太は大人しく手を繋いで歩いたりはしない。

 いつも繋いだ手をなんとか放そうとして躍起になって腕を捻り、いつでも全力で走り出そうとする。

 ゆり子は奏太も連れているので、なにかに備えて咄嗟に動くのにも限界がある。

 だからゆり子もいつも必死になって、翔太の手を離すまいとして腕を掴み、嫌がって力の限り大騒ぎする翔太を引き摺るようにして歩くしかない。

 それを通りすがる人たちに見られるのが嫌だった。

 どうしてよその子は普通に手を繋いでいられるのだろう。

 きちんと、なんの負荷もなく手を繋いで歩いている。

 信号待ちだって大人しく立っている。

 手なんて繋がずにひとりで歩ける子だっている。

 ゆり子はそれが不思議でたまらなく、また羨ましかった。

 翔太は常に動きたがった。

 騒ぐか、走るか。

 大人しく信号待ちなんて出来ない。

 走行中の車が何台も行き交う車道に走って出ようとしてしまう。

 幼稚園に行けば友達と喧嘩をし、買い物に行けば店内を走り回って人や商品にぶつかる。

 いつしかゆり子の口癖はバリエーション豊かな謝罪ばかりになっていた。

 幼稚園では先生や喧嘩した相手の親に頭を下げ、買い物に行けばぶつかった他の客に頭を下げ、店員に頭を下げる。


「すみませんでした」

「ごめんなさい」

「申し訳ありませんでした」

「よく言ってきかせます」


 頭を下げるたびに、言って聞くならこんなことにはなっていない、と叫びたくなる。

 誰か助けてほしい。

 ゆり子はいつもひとりだった。

 幼稚園にママ友はいる。

 それでも、愛想笑いで世間話を交わす程度で、自分のこんな辛さをぶつけていい相手ではない。

 向こうだって同じ母親なのだ。

 その苦労は嫌というほど分かっているからこそ、そんな相手に頼るわけにはいかないし、愚痴こそこぼしたとしても、よその子と比べられていかに翔太が手がかかるかを改めて見られるのは嫌だった。

 高校からの友人たちは、まだみんな軒並み独身で、自由を謳歌している。

 ゆり子は彼女らが羨ましかった。

 みんな自分が働いた金を自分のために使って、光輝いている。

 彼女らは口を揃えて言う。


「ゆり子が羨ましい。自分も早く結婚して子どもがほしい」


 そんないいもんじゃないよ。

 言ったところで彼女らには伝わらないし、夢を壊すようなことばかりを洩らして嫌なやつになるわけにもいかない。

 姑は言わずもがな。

 相談窓口?

 そんな大層なはなしでもないような気もしてきてしまうし、第一知らない相手とわざわざ話すのも疲れる。

 助けてほしい。

 だけどその声が出せない。

 唯一「助けて」と言える相手は真だけだ。

 でも真は、どれだけ言っても助けてはくれない。

 ゆり子は八方塞がりだった。


 翔太が幼稚園に行っている間、ゆり子はベッドの上で胡座をかいて座り、奏太を抱いて揺らしながらぼんやり考える。

 今日の夕飯、どうしよう。

 なにも作りたくない。

 なにも食べたくない。

 疲れた。

 開けた窓から申し訳なさそうに生ぬるい風が入ってくる。

 ゆり子がベランダに干した洗濯物の、柔軟剤の匂いがする。

 奏太も、もう少ししたら寝返りが出来るようになって、自分で動くようになる。

 そうしたらますますあっちもこっちも目が離せなくなる。

 分かっているからこそ、限界が来る前に、少しでも今の状態をなんとかしなくてはならない。

 そうでなければ、このままではまた翔太を殴ってしまう。

 ゆり子は目を閉じて、腹のなかの濁った水を確認してみる。

 もうすっかり黒ずんで、粘ついていて、かき混ぜるにも苦労するくらいだ。

 鉛玉の量だけが増えていく。

 なんとかして少しでもリフレッシュがしたい。

 粘ついて固くなってきているから、水の入れ換えがしたい。

 ゆり子は奏太をベッドに転がして、自分もその隣で横になった。

 そうして、傍に放っていたスマホを拾い上げる。

 ゆり子に唯一手を差しのべてくれるのは、インターネットだった。

 同じ子育て中の母親たちが集まる掲示板を覗いてみたり、コラムを読んだりする。

 もう何度もあちこちを見て回っているから、目新しい情報はどこにもない。

 それでも、それらは行き詰まっているゆり子にとって蜘蛛の糸のような存在だった。

 時々横にいる奏太を撫でながら、ゆり子はインターネットのなかを徘徊する。

 そうすると、ひとつのコラムが目についた。

「涙には自浄作用がある。……かあ」

 試してみる価値はあるかもしれない。

 ゆり子はスマホの左隅に小さく表示されている時計を確認した。

 まだ、翔太のお迎えに行くまで、1時間くらい余裕がある。

 ゆり子はスマホをベッドに放って、横にいる奏太を見た。

 奏太は大きな目をいっぱいに広げて、ゆり子を見上げている。

 「ねえねえ、そうちゃん。映画借りにいかない?」


 ゆり子は急いで仕度をして、奏太を抱っこ紐で抱いて家を出た。

 家からほんの少し離れたところにレンタルショップがある。

 ゆり子は久しぶりにわくわくしながらその自動ドアを開いた。

 確実に泣ける映画を、ゆり子は知っていた。

 『火垂るの墓』だ。

 子どもの頃から何度観ても泣いてきた。

 これなら間違いがない。

 ゆり子はついでにもうひとつ、翔太のためにアニメを選んで、それらを借りて帰った。


 それが功を奏したのか、ゆり子はその日、珍しく気持ちが軽かった。

 笑顔で翔太を幼稚園まで迎えに行くことが出来たし、多少の大騒ぎやわがままなら受け流してやることが出来た。

 翔太は、ゆり子が借りてきたアニメを大喜びで観た。

 そうしていつもよりもスムーズに子どもたちを寝かしつけ、まだ真が帰るまでには時間があるからと、ゆり子はテレビのリモコンを手に取った。

 『火垂るの墓』をセットして、再生してみる。

 ストーリーなら覚えている。

 ゆり子が泣けるのははなしの後半だ。

 しばらく静かに映画を観ていて、いつの間にか終わりそうになっている。

 ゆり子は、あれ、と思った。

 涙が出ない。

 こんなに悲しい気持ちなのに、今にも泣いてしまいそうなはずなのに、ゆり子の目からは涙が出ないのだ。

 ゆり子は拍子抜けしてしまった。

 かえってなんだか寂しい気持ちになってしまって、最後まで観ることなく、テレビを消した。

 大人って、こうやって泣かなくなっていくんだろうか。

 ゆり子は真っ暗なテレビ画面を眺めて、ぼんやりとそんなことを思った。

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