母、妻、嫁。 3

「あらあら、しょうちゃんったら、すーごい食べっぷりねえ!」

 まるで日頃なにも食べさせてもらっていないみたい!

 と、姑は、翔太が自分の横で自分の作ったものを食べる姿を見るたびに毎度、嬉しそうに同じことを言う。

「そうですか」

 奏太を抱いたまま正面に座るゆり子は、その度に毎度奥歯を噛み締めながらにっこりと笑う。

 腹を立てても仕方がない。

 姑には一切の悪気がないのだ。

 自分が言っていることがつまり、ゆり子がまるで翔太に、いつもろくなものを食べさせていないようだ、という失礼な意味をもつことに、気がついていないのだから。

 その発言を嗜める人はここには誰もいない。

 真は和室のど真ん中に転がって鼾をかいているし、舅もテレビの前を陣取って我関せずだ。

 ゆり子は、いつもひとりで姑の無意識の嫌みを受け止める。




『嫁』




 義実家はとても綺麗だ。

 義両親はマンションの高層階に住んでいて、いつもその室内は綺麗に保たれている。

 決して物が少ない訳ではないのだが、掃除好きな姑は暇さえあれば家のどこかしこを触っている。

 ゆり子はいつもそれを羨ましいと思う。

 ゆり子の家は、どれだけ片付けをして掃除機をかけても、振り返ると翔太がすでに散らかしているのだ。

 ゆり子の周りが綺麗な状態に保たれるのは、平日の日中、数時間しかない。

 真が帰る頃にはいつももうぼろぼろなので、そんなリビングばかりを見る真は、時たまゆり子に、「子どもができてからあまり掃除をしなくなったな」と、心ない言葉を吐いたりする。

 翔太はそんな綺麗な義実家のダイニングテーブルについて、まだひとりだけ、姑特製の甘い親子丼を食べている。

 食べても食べても、横から姑があれもこれもとどんどんおかずを増やすから、翔太は出されるがまま素直にそれらを口に運び、肝心の親子丼はいつまでたっても食べ終わらない。

 4才児に出す量じゃない。

 延々食べ終わらない翔太を見て、姑はひとり満足げだ。

「しょうちゃん、ばあばのごはんとお母さんのごはん、どっちがおいしい?」

と姑が翔太に尋ねると、翔太は決まって

「どっちもおいしいよ」

と答える。

「翔太、お腹いっぱいなら残してもいいよ」

 翔太のスプーンを持つ手が動かなくなってきたのを見たゆり子がそう言うと、翔太はすぐさまスプーンを放し、ごちそうさま、と小さな声で呟いてから、さっさと椅子を降りた。

「食べ物を残す癖をつけるのはよくない」

と姑が騒ぐので、

「お義母さんおかず出しすぎなんですよ、翔太まだ4才なんだから、そんなに食べられるわけないじゃないですか。残ったの私が食べますから」

とゆり子は嗜める。

 片手で奏太を抱え直して、残り物の丼を自分のほうに寄せると、

「残飯処理ね」

と言って姑が笑う。

 カチンときたゆり子は、それには返事をせず、黙って翔太の食べかけをかき集めた。

 姑が奏太を代わりに抱き抱えてくれて、残飯処理をしているゆり子の向かいに座る。

 ここからは決まって姑の話をひたすら聞く時間だ。

 舅があまり話を真面目に聞かないタイプだから、仕方がない。

 これも嫁の仕事だと割りきって、ゆり子は知らない姑の友人の話を延々と聞き続ける。

 ゴルフ仲間の話。

 買い物に行ったときの話。

 病院に行ったときの話。

「それでね、ゆり子さんこの間美味しいかぼちゃの煮物、持ってきてくれたでしょ。本当にすーごく美味しかったからね、この間ご近所の斉藤さんにそのこと話したのよ、そしたらね、あらまあ羨ましい、素敵なお嫁さんであなた幸せねえって言われたもんだからね、わたしったら本当に嬉しくなっちゃって、ついでだからあなたのご飯がどれだけ美味しいかすっかり話してきたわよ!」

「あらやだ、こないだってそれ、何ヵ月も前の話じゃないですか」

「えっ、もうそんなに経つかしら! いやでもね、本当にあれ美味しかったのよ、また冬になったら是非作ってきてちょうだいね! それでね、全然関係ないんだけどね、こないだ初めて裁縫を習いに行ったのよ、友達が誘ってくれてね、あのー、角の家にいらっしゃる奧さま分かる? あの人がね、」

 姑の話は終わらない。

 まるで今喋っておかなければ世界が終わるのではないかと心配しているような、本当に延々と続くマシンガントークだ。

 こちらの相槌など必要としない。

 そして恐らくだが、今しがたゆり子を褒めてくれたことにも気づいていない。

 これがこの姑なのだ。

 なんでも喋る。

 言われたほうがなにをどう受け取るかは気にしない。

 そういうところが、ゆり子の姑に対して嫌なところでもあり、半面、憎めないところでもあると思っている。


 ゆり子は相槌半分に、立ち上がって食べ終わった食器を流しに運ぶ。

「あらゆり子さん、置いといていいわよ」

という姑の言葉に、ゆり子は

「いえいえ、大丈夫、洗いますよ」

と言ってスポンジと洗剤を手に取った。

 今の言葉に騙されるわけにはいかない。

 ゆり子は数年前、翔太がまだ小さかったときのことを思い出した。

 今のように、

「ゆり子さん疲れてるでしょ、真も寝てるし、あなたもしばらく横になっていていいわよ、しょうちゃんなら見ててあげるから」

と言われ、その時のゆり子は素直にそれに甘えて真の隣に横になったのだ。

 そうすると、30分も経たないうちに、うとうとしていたゆり子の耳に姑の一人言が届いた。

「いいわねぇ、ゆっくり寝ていられて。わたしだってたまにはゆっくりしたいわ」

 それを聞いたゆり子は瞬間的に飛び起きた。

 それ以来、ゆり子は姑の「休んでいなさい」の言葉だけは信用しないことにした。

 そして、いつもいつもその傍らで鼾をかき続ける真に対して、ゆり子はいつも蹴り起こしたい衝動に駆られる。

 寝ないでほしい。

 いつも言うのだけれど。

 あなたの親じゃないの。

 どうしてそんなにいつもなにもしないでいられるわけ?

 いつもいつも、どれだけ言っても言っても分かってくれない。

 ビーズサイズの鉛がまた少しずつゆり子の腹の底に沈んでいく。

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