母、妻、嫁。 2

 ゆり子が1時間半かけてやっとの思いでふたりを寝かしつけ、やれやれと思ってリビングのソファにごろりと寝転がったとき、

「ただいま」

と雑に玄関を開け、雑にリビングの扉を開けて真が帰ってくる。

 やっと静かになったはずの空間にガチャガチャと大きな音を立てられて、ゆり子はまた気を逆立てる。

 真はソファの上のゆり子を見るなり、「まーた寝転がってるわ」とゆり子をからかった。

「おかえり。ちょっと、どうしていつも静かに開けるってことができないの?今寝かしつけたばっかりなのに起きるじゃない」

 ゆり子が起き上がって噛みつくように、それでも小声で真に文句を言うと、真はいつも通り、「起きやしないよ、神経質になりすぎだって」と、なにも考えていないような笑顔でへらりと笑う。

「起こしたら自分で寝かしつけてよね」

「無理無理。俺はゆり子みたいに上手にできないもん。それより風呂に入ってくるよ、もう汗だく」

 声のボリュームなんて一切気にしない真は、鞄だけゆり子の足下に放ってそのまま風呂に向かった。




『妻』




 ゆり子は溜め息を吐いてその鞄を爪先で軽く蹴り飛ばしてから、キッチンに向かって、冷蔵庫を開けて真の食事を用意する。

 ダイニングテーブルではなく、テレビの前のローテーブルに、いくらかのおかずと、箸と、ビール用のグラスを並べた。

 ゆり子はいつもどんなに眠くても、可能な限り真の帰宅を起きて待っていた。

 外で働いて疲れて帰ってくる真に感謝はしているし、この時間でなければ、仕事づくめの真とゆっくり話をするタイミングを確保できないからだ。

 完全に子どもだけを優先するような生活にしてしまうことも、しようと思えばできたけれども、ゆり子はそれをしない。

 そのほうが少しはゆり子にとって楽だったのかもしれないけれども、それではまるで真だけ蚊帳の外に追い出すようで、それはゆり子のつくりたい家族の形ではないからだ。

 ゆり子はそのローテーブルに自分のマグカップも置いて、ラグマットの上に静かに座った。

 ホットココアの甘い湯気が立っている。

 どうせ今からテレビをつけてボリュームを上げるんだろうなあ。

 ゆり子は静かにしていれば、ボリューム10で聞こえる。

 真はいつも18まで上げるから、ゆり子は同じリモコンですぐに12までボリュームを落とすのだ。

 毎日の分かりきった嫌な習慣にまた溜め息が洩れる。


 ゆり子よりも2つ歳上の真は、ゆり子が奏太を妊娠してから何故か変わってしまった。

 本人は自覚がないらしい。

 翔太のときにはそれはそれは甲斐甲斐しく子育てを手伝ってくれていたのに、ゆり子が悪阻で吐きながら翔太の相手をしているときも、身体が思うように動かなくて辛い思いをしているときも、真はなにもしてくれなかったのだ。

 家事を手伝ってくれるわけでなし、翔太の相手をしてくれるわけでもない。

 そしてあろうことか、出産して退院したその日に、

「2人目だから余裕だよな」

と当然のように笑顔で言い放ったのだ。

 ゆり子は冗談じゃないと思った。

 2度目、ではないのだ。2人目、だ。

 意味が違う。

 それでもゆり子がなにをどれだけ助けを求めても、真はこの4ヶ月、結局本当になにもしてくれなかった。

 おむつも嫌がって替えてくれなくなったし、ミルクも面倒がってあげてくれない。

 いつも何でもないことのように笑いながら、「いやいや、無理無理。俺は疲れてるし、ゆり子のほうが上手じゃん」と、完全拒否されるのだ。

 おかげで頼むのもばからしくなったゆり子は、ミルクをやめて完全母乳育児に切り替えた。

 そうするともともと貧血持ちのゆり子は、3時間に一度の授乳と寝不足で、立ち眩みの回数が急激に増えた。

 それでもミルクを用意して消毒する手間と比べると、無理やり食事量を増やしたりしてなんとかなるなら、そのほうが楽だと思ったし、何より奏太が哺乳瓶を嫌がるようになってしまったので、もうミルクは諦めるより他がなかった。

 真は、翔太の遊んでほしいという我が儘にも耳を貸さなくなった。

 話を聞いてもらえない翔太が泣きながら怒ると、それをさも嫌そうに手で払うのだ。

 そのくせ可愛い可愛いと騒いでは寝ている奏太をつつき回して起こして泣かせ、自分ではどうにもならないと思うとそれをゆり子に丸投げする。

 週に一度だけ纏められたゴミをゴミステーションまで持って行けば家事を手伝っていることになり、2週間に一度翔太と風呂に入れば育児をしていることになるらしい。

 頭おかしいんじゃないの。

 と、ゆり子は、いつしか怒りも呆れも通り越して、なんなんだろうこの人。と思うようになった。

 真は、ゆり子の出産入院中には翔太を自分の親に丸投げしていたらしく、何を思ったのかは知らないが、その頃くらいから「俺は今仕事が大変なんだよ」という言葉を、何かにつけて、まるで武器の如く振り回すようになった。

 笑って言えばなんでもそれで済むと思っているらしい。

 ゆり子は、姑が苦手だった。

 悪い人でないのは分かっているが、どうも合わない。

 いくら親とは言え、少しばかり真に甘すぎる気がするし、時々、言葉の端々に無神経な嫌みがこもる人なのだ。

 入院中散々翔太を見てもらってしまったし、姑にはこれ以上頼りたくなかった。

 だからゆり子は、早々に姑の手伝いの申し出を断って、退院してすぐから、生後2週間の奏太を抱いて翔太を幼稚園まで送迎し、自分で買い物に行き、自分で家事をこなした。

 四六時中気を使って気を使って、休んだ気のしない産褥期を苛々しながら耐えるより、自分のペースで自分の好きなように動いたほうがましだと思っていた。

 まさか真がここまで役に立たないとは思っていなかったけれども、正直そこに関しては事実として正解だったとも思っている。

 つまりは、奏太を出産して以来、退院して以来、ゆり子はひとりで家事と育児をこなしてきている。

 正直なところ、今の真には、ゆり子は不満しかない。

 役に立たない。

 それがゆり子の、今の真に対する感情の全てだ。


 ゆり子がまた深い溜め息を吐いたところで、真が、少しばかり気をつけたらしく、静かにリビングの扉を開けて風呂から戻ってきた。

 下着姿の、それはそれはだらしない格好だ。

 家で気を抜いているのだから、別に構いはしないけれども。

 昔は顔を見るだけで嬉しかったのにな。

 ゆり子はまた溜め息が出そうになって、それを誤魔化すために立ち上がってキッチンに向かった。

 真に温かいご飯をよそってやる。

 その隙に真がテレビをつけてボリュームを18まで上げたので、ゆり子はご飯片手に戻ってきて、黙ってリモコンを手に取り、12まで下げた。

 真は「ありがとう」とそのご飯を受け取って、いただきますとも美味しいとも言わずにご飯を食べる。

 代わりに吐き出すのは仕事の愚痴だ。

 ゆり子も1日の愚痴を真にこぼす。

 それがふたりの日課だった。

 いくらかお互いに話して聞いてそれから突然

「ああそうそう」

と真が思い出したように一言。

「次の休み、母さんが遊びに来いって」

 げ。

 ゆり子は、表情を隠しきれなかった。

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