硬化。 3

 その瞬間、ゆり子の耳の奥に、バキッ!! という鈍い衝撃音が響いた。

 バキバキバキバキ、と、腹の底のほうから大きな音がする。

 鉛を溶かしきれなくなった、水だったものが、とうとう硬化を始めたのだ。

 もうすっかり巨大な鉛の塊となってしまったそれは、その硬さに耐えきれず下のほうから順番にひび割れていく。

 その鈍く響く音を、ゆり子は耳の奥で聞いた。

 ああ、心が死んだな。

 まるで他人事のようにそう思った。


 ゆり子はゆっくりと落とした鞄を拾い、静かに寝室に戻った。

 鞄を元のように仕舞い、リビングに戻って翔太の横に座り込む。

 ブロックをひとつ拾うと、翔太が不思議そうにゆり子を見上げた。

「おかあさん、お出かけしないの?」

「うん、もういいの」

 ゆり子が静かにそう答えると、翔太はゆり子にもうひとつブロックを渡した。

 ゆり子は黙ってそれを受け取ると、翔太の横で黙々とブロックを組み立てた。

 真を起こす気にはならなかった。

 真は、それから4時間起きなかった。

 外はいつの間にか夕暮れが近づいてきていた。


 目を覚ました真は慌てたように、真っ先にゆり子の機嫌を窺った。

「いやー、ごめんごめん、ついうっかり寝ちゃったわ。俺、よっぽど疲れてるんだなあ。な、ゆり子、俺起きたからさ、今から行ってきたら? 行きたかったんだろ、喫茶店。な?」

「もういい。よく分かった」

 ゆり子は包丁を握りしめていた指に力を込めて、まな板の上の人参を切った。

 よく分かった。

 真にとっていかに自分がどうでもいい存在なのか、よく分かった。

 無賃で働く便利な家政婦でしかないのだ、自分は。

 真にとっては、疲れているのは自分だけ、しんどくて眠いのも自分だけ、子どもの面倒なんてみる必要はないし、ご飯は黙っていても勝手に出てくるのは当たり前だし、嫁はいつでも家で寛いでるんだから疲れるわけはないのだ。

 だからゆり子が自分のために使おうとするお金は全て無駄遣いだし、どうせロボットみたいなものなんだから、わざわざ気にかけるような存在ではないのだ。

 ルンバと同じ。

 スイッチひとつ。

 手入れをするのは自分じゃない。

 つまりはどうでもいい存在なのだ。

 頼っていい相手ではないのだ、助けてくれる人ではないのだ、真は。


 よく分かった。


 ゆり子は、とても静かな気持ちだった。

「なあ、ごめんって、ゆり子」

「いいよ、もう。よく分かったから。邪魔だからどいて」




 その日から、ゆり子は真の前で笑顔をつくることができなくなった。

 翔太と奏太には笑いかけることができる。

 幼稚園のママ友にも、近所の人にも、いつもと変わらない愛想笑いをすることができる。

 ただ真の前でだけ、それができなくなった。

 意識してそうするわけでもなく、真が視界にはいると勝手に表情が消えてしまう。

 最愛だったはずのその人は、道行く他人と同じだけの存在に、成り下がってしまったのだ。

 当の本人もゆり子のそんな気持ちの変化に気づいているようで、朝晩、まるでご機嫌うかがいのように、顔を会わせるたびに笑顔で話しかけてくるようになったけれども、ゆり子にはもう手遅れだった。

 ひび割れた鉛玉と成り果てた、死んでしまった心には、それは水道の蛇口から出てくる水音と同じくらい、日常の雑音にしか聞こえなかった。

 ゆり子は真に対する全てのことが、どこか他人事のように感じられていた。

 どうでも良かった。






「大丈夫? 最近疲れてるの? 目付きが険しいよ?」

 かりんちゃんのママが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 ゆり子ははっとして我にかえった。

「ごめんごめん、大丈夫。ちょっと寝不足なのかも」

 ゆり子は慌てて口元に笑顔をつくった。

 幼稚園に翔太を迎えに来て、さよならの順番を待っている間、いつの間にかぼうっとしていたのだ。

 かりんちゃんのママは、今度はゆり子の横のベビーカーを覗き込み、大きな目をきょろきょろさせている奏太のほっぺたを優しく撫でた。

「そうちゃん、まだちっちゃいもんねぇ。夜中とかまだ起きる?」

「きっちり3時間置きに起きてくれるよ、すごいよねえ」

「わたしもかりんが赤ちゃんの頃、上の子とバランス取るの難しかったなあ、懐かしくなっちゃう」

「そっか、かりんちゃん、お姉ちゃんいるんだっけ、やっぱり女の子はお手伝いとかしてくれるの?」

「ぜーんぜん! そんなの幻想よ、幻想。もうちょっと歳が離れてたら違ったかもしれないけどね。でもうちの子は、どっちも甘えたがりだから」

 かりんちゃんのママは苦笑いをしながら、「ねぇ、そうちゃん」と奏太に話しかける。

 それから、屈んでいた体をよいしょ、と起こして、今度はまたゆり子に笑いかけた。

「でも、もうちょっとしたら楽になるよ、夜に起きなくなったら助かるよね」


 帰り道、先生とさよならの挨拶を済ませた翔太と手を繋いで歩きながら、ベビーカーを押しつつ、ゆり子は考える。

 かりんちゃんのママが言っていた、もうちょっとしたら楽になる。

 その通りだ、翔太も、奏太も、ちゃんと成長している。

 いつまでも同じではない。

 そのうちきっと楽になる。

 ゆり子は、さっきのかりんちゃんのママの寄り添ってくれる気持ちが嬉しかった。

 少しだけ、気持ちに余裕を持てそうな気がしてくる。

「しょうちゃん」

「なあにー?」

「おかあさん、しょうちゃんのこと大好きよ」

「わあ! ぼくもおかあさんだいすきー!」

 翔太は嬉しそうに大声を出した。


 その気持ちは口に出したら本当な気がした。

 翔太の顔をみて思う、自分がもっとしっかりしないといけない。

 助けてくれる人はいない。

 自分がこの子たちをしっかり育てなければ。

 甘えたらいけない。

 全部自分でやる。

 真のことは諦めた。

 ゆり子は、腹を括った。

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舞台女優 夏緒 @yamada8833

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