悲しく響くピアノ
須川 庚
悲しく響くピアノ
クリスティーン・エドウィン。
世界的にも有名でわずか二十一歳の若さでこの世を去った夭逝の天才ピアニストだ。
彼女の演奏を耳にした人たちは、たちまち恋に落ちてしまうほどだ。
世界各地でのコンサートをこなしながら、たまに向かう母国のとある場所。
それは彼女が十八歳まで育った孤児院だった。
私はフリーライターで、彼女が大きな国際コンクールに出始めた十代の頃から、取材をしていた。
クリスティーン……関係者はクリスと呼んでいた彼女の生い立ちを詳しく聞いた人物は、ほとんどいない。
「君、クリスティーン・エドウィンの人物伝を書いてくれるかい?」
そう話してくれたのは、私がライターとして書いていた音楽雑誌の編集者だった。
それから三週間が経った。
彼女が生まれ育った孤児院を見つけたのだ。
それは彼女が作曲した『愛しの子供たち』は、孤児院の子供たちに向けて作られた曲だったと、アルバムの解説書に綴っている。
アメリカの西海岸の北部にある孤児院は、カトリック教会が運営しており、私がクリスの取材をすることを事前に伝えると、喜んで取材を受け入れてくれた。
その反応から見ると、彼女が慕われていたことを教えてくれた。
予定通りの時間に一時間も早くに来てしまったが、すぐに教会の方に連絡したのだ。
するとクリスをよく知るという人物に話を聞く前に、もうすぐで始まるミサに参加してはどうかと提案された。
提案に乗って私も教会のなかに入ると、生まれたばかりの赤ん坊から間もなく孤児院を出るという年齢の子供たちが長椅子に座っていた。
子供たちは髪、瞳、肌の色は様々で、私が常に通っている教会とほぼ同じように見えた。
しかし、ミサに参加している子供たちの熱心に祈りを捧げる姿に心を打たれたのだ。
敬虔なクリスチャンの家庭に生まれ育った私でもだった。
そして、演奏前にクリスが祈る姿が重なった。
ミサが終わり、私はクリスをよく知る人物と話を聞くことができた。
かつての孤児院で暮らしていた仲間だった、二十六歳のピーター・ニコラス・ハート神父と弟の二十四歳のジャック・ヨゼフ・ハート。二十七歳のシスター・マリア・ホワイトと間もなく二十歳になるルーシー・ホワイト姉妹だ。
ニコラス神父とジャックの兄弟に血の繋がりはないが、同じエルヴィン・ハート司祭の養子になったという。
シスター・マリアとルーシーは幼くして両親が事故で他界し、身寄りもいなかったため、この孤児院にやって来た。
いまはマリアがシスターとして暮らしているという。妹のルーシーは現在奨学金で国立大学に通っている。
まずクリスが孤児院にやって来たことを、年長者であるニコラス神父に話してくれた。
「クリスは生まれたばかりの頃にやって来たんだ。それもクリスマスの翌朝にね、みんなが大騒ぎだったよ。ジャックも覚えてるだろ?」
「ピーターのいう通り、クリスが孤児院に来た理由がわかったのは、彼女が入っていたバスケットの中にあったんだ」
それはロザリオとクリスの戸籍、母親からの手紙だったことを教えてくれた。
「手紙の内容はあまり覚えてはいなかったが、未婚でしかも未成年の望まぬ妊娠をし、家族にも打ち明けられずに、出産してしまったと、書かれてあったらしい」
シスター・マリアとルーシーの話はピアニストの片鱗を見せた頃の話だった。
「クリスは子供の頃……エレメンタリースクールに入る前には、あのピアノで古い楽譜をよく出して、弾いてたわね」
「そうそう、姉さん。特にクリスが好きなのはドビュッシーだったのよね」
クリスが好んで弾いていたのは、ドビュッシーの『月の光』、あの演奏は子供の頃から弾いていた思い出の曲なのだと、わかったのだ。
ルーシーが持ってきてくれたのは、ドビュッシーの曲をまとめた楽譜で、それはかなり使い込まれてあった。
「クリスマスプレゼントは、必ず楽譜を頼んでたんですか?」
「えぇ、同い年の子はみんな、かわいいお人形だったりしてたからね」
「そうなんですか。クリスがなぜピアニストの道を選んだのかは、お分かりのかたは?」
そういうと、ここの司祭であるエドウィン・ハート司祭が来た。
白髪交じりのダークブロンドに目尻の垂れたブルーグレーの瞳をしている。
「私が彼女をピアニストの道を勧めたのです。」
私は彼に話を聞くことにした。
「彼女が孤児院にやって来て、ここでの生活は変わりました」
その話を静かに聞いた。
「クリスはもともと絶対音感を持っていたようで、古かったピアノを弾くようになりました。そしてハイスクールに入る頃には、大きな国際コンクールに出場し、史上最年少の十六歳で優勝ほどの腕前でした。そして彼女は年齢が十八歳になり、孤児院を出ました」
「それからの彼女とは交流は?」
「世界各地でコンサートをしていくなかで、帰国する度に彼女はここにやって来てくれました」
クリスはもともと子供好きで、ピアノを弾いていたのは、年下の子供たちを喜ばせたいために弾いていたみたいだ。
生まれ育った孤児院にそのピアノがまだあると、ホワイト司祭は教えてくれた。
「こちらです。ここでクリスは練習をしていました」
グランドピアノは大きな部屋の隅に控えめに置かれてあった。そのピアノを弾く人物がいた。
黒髪に黒に近い茶色の瞳をした少女で、年齢はざっと十代前半に見える。その子の顔立ちを見ると、アジア系の少女だった。
「あの子は?」
「あの子はクリスのミサのあとに、ここでクリスの曲を弾いてくれた子です」
弾いていたのは、クリスが作曲した『愛しの子供たち』だ。もうしばらく聞いていなかった曲で、優しい音色が聞こえる。
「マコ! 練習中にごめんなさい」
「司祭様、どうしたのですか?」
「こちら、クリスの人物伝の執筆をされているユージーン・アダムス氏」
「マコ・サクライ、日系人です。十四になります」
「日系の子だったんですね。マコはどうして、ここに?」
マコはこの近所で生まれ育ったが、両親からの虐待に逃れてきたという。
マコはクリスをよく知っていて、ピアノの練習を付き合ってくれたという。
ピアニストで世界的ピアニストの彼女を、心から尊敬していた。
「でも、亡くなってからは、全く弾かなくなってしまったけど、今年の春からコンクールに出場するために練習をしているの」
マコが弾くのはジャズで、名曲の数々をカバーしていた。
彼女が生まれ育った孤児院で、人生のほとんどがここで作られたのかもしれない。
彼女には作曲する才能もあった。
作曲した数はたくさんあるが、その楽譜や音源はなかったのだ。
「その楽譜、わたしが持っています。実際に、亡くなる二日前に」
「え、そうなのかい?」
私が驚くと、ファイルをマコが持ってきてくれた。
「それが彼女の作曲したものです」
グランドピアノの前に座り、マコが弾き始めた。
情熱的なメロディーやリズムが部屋を包んでいく。
「彼女が最も得意としていた曲で、『パッション』。クリスは情熱的な人だったの」
孤児院から生まれたピアニストは、情熱的で優しく、儚かったのだ。
マコが最後に楽譜にも、残されなかった曲を弾き始めた。
愛車で自宅に帰るなか、私は彼女――クリスの性格を思い出した。
いつも子供たちに優しく接し、必ず笑顔で声をかけていた。
文章がどんどんと頭から溢れてくる。
その日から半年間で、私は本のほとんどを書き終えた。
クリスティーン・エドウィンが亡くなり、ちょうど二年が経つ今日、私が書いた人物伝『クリスティーン・エドウィン~儚き天才ピアニスト~』が発売された。
内容は関係者や孤児院の仲間たち、学生時代の友人……クリスと深く関わり、出会って人生が変わった人たちに取材を続けた結果だ。
それはタイムリーで驚く出来事が起こったのだ。
新人の登竜門と呼ばれるピアノの国際コンクールで、クリスの史上最年少記録を半年も更新して優勝した人物がいた。
人物の名前は桜井真湖。私が取材したあとに日本人の親戚に引き取られ、日本国籍を取得したのだ。
彼女が発売したCDには、クリスが作曲した数々の曲をカバーしたアルバムで、人生のほとんどをピアノに捧げた天才ピアニストがいたことを証明するものになった。
そして、アルバムの最後の曲は彼女が耳で聞いたというクリスが楽譜にも残さなかった曲。
『悲しみより幸せ』という曲は、クリスが亡くなる二日前に孤児院を訪れたときに、即興で作られた曲だった。
その曲はこういうタイトルとしても、知られるようになった。
――『悲しく響くピアノ』と
悲しく響くピアノ 須川 庚 @akatuki12
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