#4
一歩、足を踏み出すたびに、背骨に激痛が走る。
俺はそれに耐えながら、歩行補助器を押して病院の廊下をへっぴり腰で進んでいた。
脊髄に人口神経を入れる手術をしてからすでに一週間が経っていた。医者からは、リハビリを始めてもいいと言われたのだが、こうして歩くだけでも酷く疲れる。
自動運転のバグによって、確率小数点二桁以下の交通事故に遭ってしまうなんて、我ながら運がない。命が助かっただけでも儲けもんだが。
俺はもう耐えきれず、廊下の途中にあるベンチに腰を下ろした。その動きだけでも激しい痛みが背中を走り、悲鳴を上げそうになる。
こうして、動かないでいる方が一番楽だなと、ぼんやり前方にあるエレベーターを眺めていた。下から一台上ってくるらしい。
VR空間で遊んでいるときは本当に自由で楽しかった。現実では体にかかる重力すら煩わしい。
リハビリをしなくてはいけないことは分かっているのだが、そんな気力は最早無くなっていた。俺はまだ十四歳で、成長するにつれてこの人口神経の延長手術をしなければならないということはよーく分かっていたからだった。
「こんなリハビリが、あと何回あるんだろうか……」
下を向いたまま、絶望しきった独り言が口をついたタイミングで、エレベーターが開いた。
誰かに聞かれただろうが、顔を上げる気にはなれない。コツコツと不自然な足音がして、エレベーターから降りてきたようだが。
「……Hさん、ですか?」
「えっ?」
聞き覚えのある声に、思わず顔を上げた。
目の前に立っていたのは、あの夜のVR空間で出会ったガツだった。服装以外は殆どVR空間とは変わっていないが大きく違うのが、白い杖を握っていて、目を閉じたままであることだった。
それを見た瞬間、俺の脳内にバチッと電気が走る感覚がした。
VR空間の中でガツが掌を下に向けて操作していたのは、瞬間形状記憶液晶タイプのタッチパネルだったのではないのだろうか。ああやって、ガツは文字の形を読んでいた。
「お前、目が……」
「はい。今日は靴型歩行補助器と外部センサーの接触が悪いので、検査入院することになったんです」
俺が言い淀んだところを察して、ガツは口元で微笑みながらスムーズに説明してくれた。
それを聞いて、ガツの世間離れしたVR空間の言動にも納得がいく。シナプス反応を利用しているのなら、現実の視力は関係なく見ることができるのだから、ガツにとっては知らないものだらけなのだろう。
手術前に興味を持って、色々と義肢について調べたことがある。
義眼が装着できるようになるのは、確か第二次成長期後からだったはずだ。世界を見れるのはあそこだけだから、ガツはVR空間にログインできなくなるのをあんなに恐れていたんだなと、想像できた。
「なあ、この前の夜は、本当に……」
「Hさん、あの時のことは、秘密にしましょうよ」
俺がまた謝ろうとすると、ガツは笑いながらそれを遮った。しかし、目を閉じている彼女の顔は、どこか寂しそうに見えた。
俺が来た方とは反対側へ、ガツは行こうとする。俺はその後ろ姿を目で追いながら、これでいいのかと自問していた。
同じ病院に入院しているのなら、話す機会は作れるのだろう。ガツのユーザーとしての安全も守られる。
でも、あの夜のことを、一緒にガツと走って笑った瞬間のことを、あそこで切り取られたままでいいのか? そんな思いが、脳裏をよぎった。
「ガツ!」
考えをまとめる前に、俺はあの空間でのユーザー名を叫んでいた。
彼女がぴたりと足を止める。俺はその背中に向けて、話しかける。
「今日、一緒にサーカスを見に行かないか?」
俺は、自然と笑いかけていた。
ガツが、くるりと振り返る。髪が揺れた後に見えたのは、あの夜と同じ満面の笑顔だった。
「はい!」
一夜のキリトリセン 夢月七海 @yumetuki-773
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