#3
「ガツ! さっさと『非常口』へ逃げろ!」
「Hさん!」
ライオンからガツを守るように、俺は前へ飛び出した。
正直、ライオンと目が合った瞬間に足がすくみそうになったが、そんなことを言っている場合じゃない。
二十メートル先のライオンは、一直線に俺たちへと走ってくる。ピエロと比べ物にならない速さだ。
しかし、こっちだって無策じゃない。「底なし沼モード」のショートカットをさらに短くして、三文字で入力できるようにしていた。
十五メートルほどの位置に配置した。これで大丈夫……。
そう油断していたが、ライオンの足は「底なし沼」を一瞬だけ踏んで、すぐに過ぎ去っていった。
「なっ!」
動揺が隠せない。ライオンのスピードが速すぎて、「底なし沼」が反応しなかったのか。
こうなったら、俺の前に新しく壁を作るか。だが、これまで使ってきた「空間内の物体の性質を変える」コードよりも「新しく物体を出現させる」コードの方が十倍の長さがある。
間に合うのか……? いや、弱気になるんだ、やるんだ。
必死に歯を食いしばりながら、空中で光るキーボードを叩く。
あと四文字入力すれば、そこまで来たのだが、一メートル先に、ライオンが俺に飛び掛かろうとした。
風にたてがみが流れ、鋭い牙と爪が目に入る。
俺の手は、完全に止まった。もうだめだ。
ガツは、『非常口』まで逃げ切れただろうか?
目をつぶってしまった直後、ドゴンと重たい音が腹に響いた。
恐る恐る、目を開く。電柱の下敷きになって、ペタンコになったライオンの姿が見えた。
「Hさん、大丈夫ですか!」
電柱の根元をつかんだガツが、俺を見てそう叫んだ。
ほっとしたが、完全に危機が去ったわけではない。ライオンのガーディアンは、体に多少のノイズがかかっているものの、壊れてしまったわけではないからだ。
「ガツ! 逃げんぞ!」
「は、はい!」
俺はガツの手を握ると『非常口』に向かって走り出した。
ガツはとっさに電柱から手を離したので、ゴドンとコンクリートの上に電柱が落ちた。
遠くに見える真っ赤で丸い『消火栓』の文字の看板に向かって、俺もガツも必死に足を動かした。
その途中で、ガツがこらえきれなかったのように「ふふふ」と笑い出した。
ここまで緊張続きだったから、気が抜けてしまったのかと、背後の彼女を振り返った。
ガツは本当に楽しそうに、目じりに滲んだ涙をぬぐった。
「すみません。私、こうして走るのは、生まれて初めてなんです」
「……俺も、随分久しぶりだ」
ガツの弾んだ声を聞いていたら、こちらまで苦笑が漏れてしまう。
俺たちは、誰もいない星もない夜の中で、馬鹿みたいに高笑いしながら、ひたすらに走っていった。
◇
電柱の下から這い出てきたライオンは、一度こちらのほうを向いたが、俺達には気付かずに、元々いた通りを進んでいった。
消火栓の看板の下で息を潜ませていた俺とガツは、ライオンの尻尾が塀の向こうに消えたのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。ここが『非常口』だという自信はあったが、不安がゼロだったというわけではないからだ。
俺はガツと向き合った。
名残惜しさもあるが、ここでお別れだ。
「ガツ、ここなら安全にログアウト……」
突然、「ピピッ、ピピッ」という規則的な機械音が鳴り出した。
俺は驚きすぎて、文字通り跳び上がってしまった。
「なっ、な、なんだ!?」
「あ、Hさん、大丈夫です。私のアラームですよ」
「え? そうなの?」
確かに、音はガツのほうから聞こえていた。ガツはまた、掌を下に向ける動きでアラームを止めた。
俺は冷静をよそっていたが、内心バクバクだ。生理現象が反映されるアバターだったら、顔真っ赤で汗ダラダラになっていただろう。
「で、何のアラームだったの?」
「はい、朝日が昇るタイミングでセットしたんですけど……」
ガツは、真正面に顔を上げた。そちらの方向が東だ。
目の前にあるのは、何の特徴もないブロック塀と、白い壁の二階建て一軒家だった。
「ここからですと、何も見えませんね」
そう答える彼女の横顔は、ドキリとするほど寂しそうだった。
確か、ガツは朝日が見たくて、ログアウト時間もそう設定していたはずだ。こんなドタバタに巻き込まれていなかったら、ガツは高い建物の上から朝日を臨んでいたのだろう。
俺は長いコードをキーボード入力しながら、ガツに尋ねた。
「ガツ、インドアスカイダイビングをやったことあるか?」
「いいえ、ありません」
「今から地面から強風が吹いてくるから、俺の言う通りにしてくれ」
「分かりました」
ガツは、瞳をキラキラさせながら頷いた。恐れを知らない好奇心の塊のような輝きだ。
ライオンから守ってもらったお礼にやったことだが、俺はこのガツの瞳が見たいだけなのかもしれないと、ふと思った。
下から時速二四〇キロの風が吹きつけてくる中、ガツと俺はうつ伏せになって、顔は正面に向け、両膝を曲げた状態で、一メートルほどだが宙に浮いていた。
「え、Hさん、飛んでいます! 私たち、飛んでいます!」
「落ち着けって。ここからが、本番だぞ」
俺はさらにキーボードを操作し、風速を上げる。俺たちの体は、ガツの「わわっ、わわわわわ!」という声とともに舞い上がった。
周りの塀や消火栓の看板より高く、電線よりギリギリ下の位置で停止させる。この消火栓を中心に半径一メートルが『非常口』の適応範囲なので、空の上にいてもガーディアンに見つかる心配はない。
実際のインドアスカイダイビングは、耳栓が必要なくらい轟音がすごいのだが、VR空間ではミュートで音を切ることもできる。
だから、隣のガツが目の前の光景を見て、「あ……」と息を呑むのも聞こえた。
終わりのない暗闇の下、バラバラな大きさの家々の合間から、真っ白に輝く球体がのっそり昇ってくる。
そこから放たれた光の束が、夜を退けて、街の隅々から俺たちの顔まで、一斉に照らし出した。
「いいもん見れたな、ガツ」
日の出からガツの方を向いた俺は、眩しさに細めていた眼を、思わずギョッと見開いた。
ガツは……泣いていた。両目から零れた涙は滴となって、一粒ずつ風に吹かれて天高く上がっていく。
俺は咄嗟に目をそらした。見てはいけないもののような気がして。
「お日様って、こんなに綺麗なんですね」
「そうだな……」
感激したガツの鼻声に、水を差さないように俺は頷いた。
しかし、一方で彼女の涙の理由が全く分からなかった。人口のものとはいえ、俺たちの星の上では、太陽が回っているはずなのに、ガツはまるで日光を初めて浴びる人のようだった。
「……Hさん、今日は本当に、ありがとうございました」
しばらくして、泣き止んだガツは、微笑みを浮かべたまま、俺を見つめていた。
「いや、別に、俺が巻き込んでしまったから、」
罪滅ぼしだといいかけたが、ガツはゆっくりと首を横に振った。
「私、これまで別のユーザーがいないところにログインしていたんです。話し相手もNPCだけで……。だから、他の人とこうして、目を合わせて話すのは初めてで、とっても嬉しかったんです」
「そうか。だから物怖じしなかったんだな」
相手がハッカーだと分かっても普通に話しかけてきたガツを思い出しながら皮肉を言うと、彼女は恥ずかしそうに「ふふふ」と笑った。
少しは会話を交わして、ガツの趣味や好みが一般と少しズレていると思っていたから、今まで人の全くいないところへログインしたのも想像できた。
そんな彼女の孤独に付き合って、共に楽しめたのなら、俺にとっても満足だった。
「私、この夜のこと、一生忘れません」
「俺も、ものすごいインパクトだったからな」
俺がおどけて言うと、ガツはくすくす笑う。
もうすぐ、ガツがログアウトする時間だったけど、俺もガツも別れを言おうとはしなかった。
どちらも気付いていた。この出会いは、この空間の、この時間の中だということを。
文字化けしたユーザー名では、ガツは俺を探すことができず、ハッキング行為をした俺も、後にガツを探すことは彼女を危険に晒すことになるだろう。
だから、ここで別れてしまえば、二度と出会えない。
太陽は全ての建物の上に昇っていて、目の前で燦々と輝いている。俺たちの頭上も青色に染まり切っていた。
俺がハッキングで切り取った夜の線は、もはや完全に消え去っていた。
そんな中でも、俺もガツも、強風で髪をボサボサにさせたまま、白んでいた朝の景色が少しずつ目覚めていく様子を眺めていた。
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