ノスタルジック・シンフォニー
ほがら
ノスタルジック・シンフォニー
発車の時間を知らせる、どこか調子の外れた古臭いメロディが流れる頃になって、私は電車のフロントガラス越しにふと空を見上げた。まだ朝焼けに染まりきってもいない、中途半端なコントラストの空がにじんで見える。どうやら寝不足らしいと判断して、私は操縦盤の横に置いた缶コーヒーを口に運んだ。
さて、もう少しだ。
いつもの時間、いつもの始発駅のホーム。
それにしてもどうしたものか。発射の時間はいつも決まっていると言うのに、彼女は相変わらずギリギリに現れる。もっと早く起きて準備をしていれば、毎朝の余裕だって生まれるはずなのだが……
「おじさん、待って待って!」
慌てて駆け寄ってくる少女の姿を視界にとらえて、私は思わず表情を緩めた。
「今日もギリギリかい? まあ、お客さんなんて君しかいないから、待つけどもね」
「そっかそっか。たしかに他の人って見ないもんね」
言いながら、この駅で唯一の利用者である少女を電車内に招き入れる。
車内には誰もいない。
始発のこの時間、しかもこんなドがつくほど田舎のローカル路線で、乗客などいるはずもなかった。いや、それは言いすぎた、世の中で朝早くから働いている多くの社会人の皆様に申し訳が立たないし、この路線近辺の住民の皆様に失礼だ。そして何より、その朝早くから律義に電車を動かすこの私自身の頑張りが無意味だということになってしまう。
それは困る。実に困る。
「どしたの?」
「いや、別に…って、こらこら。操縦室に入ってきたらダメだろう」
「えぇ? 誰も見てないし、いいじゃないの。固いこと言わずにさぁ…ね?」
「ね? じゃないんだ。まったく」
困り果てているように見せながら、実際のところ私はこの状況を楽しんでいた。
彼女を見ていると、なんとなく娘の学生時代を思い出す。娘はもうとっくに成人していており、最近はとんと会っていないが…そういえば、妻ともずっと会っていない気がする。仕事の関係で別居を始めてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。
ぼんやりと考えながら、私は発車レバーに手をかける。
がたん、という小気味よい音とともに車体がわずかに揺れて、少しずつ前にと進み始めたことを確認してから、私は彼女に声をかけた。ちゃんと座っていないと危ないぞ、と。
「大丈夫だよ。ほら、ここの手すり握っとくからさ」
「そう言う問題じゃないんだがね」
苦笑してから、誰もいない乗車席に向けて次の駅名を告げる。次の駅も、その次の駅も乗客はいない。この路線で私の電車に乗ってくれるのは、ここにいる彼女だけだ。
そして、それも今日限りとなる。
「知っているだろう? もう、ここは廃線になるんだ」
人知れず存在していた、田舎の小さなローカル路線。
ずっと昔から採算など取れていなかったのだから、その決定はむしろ当然ではある。だから、私は廃線が決まったと聞いた時に、驚きやそれに類する感情はまるでなかった。
そんな事実よりもまず気になったのは、やはり彼女のことだった。この路線でほぼ唯一の乗客である彼女は、この先どうしていくのだろう。見たところまだ中学生、もしくは少し背の低い高校生かもしれない。
いや。
何年前だろうか。彼女が初めて私の電車の乗客になってくれたのは。思い出せずに首をかしげていると、横から思案を邪魔するように声が響いた。
「ここも廃線かぁ。寂しくなっちゃうね」
「君はこれからどうする? 学校に通うにも不便だろう」
「へーきへーき。また新しい路線ができるからさ。そっちを使うよ」
「新しい路線?」
そんな話は聞いてないが。
「いーからいーから。ほら、最後なんだしさ。安全運転よろしく頼むよ、おじさん」
「あ、ああ…もちろんだとも」
何か後ろ髪を引かれるものを感じながら、私はふと思い出す。
そうだ、彼女の名前を聞いていなかった。毎日毎朝顔を合わせていたというのに、なぜ名前のひとつも聞いていなかったのだろう。
いまさら聞き出すというわけにもいかず、私はただ前を向いて電車を走らせた。カタンカタンという音とともに、私の体も小さく揺れる。この路線で電車を走らせる最後の日、ただひとりの乗客を乗せて。
「元気でね、おじさん」
「君もな。もっと早起きしろよ?」
「大きなお世話だし。時間にはちゃんと間に合ってるからいいんだよ。それよりもおじさんこそ、次はいい人生になるといいね」
「……人生?」
私が問いかけると、彼女はしまったという顔で自身の口を押さえて見せた。
いまのナシ、ナシだからね。そんなふうに焦る彼女に適当な相槌を打っておいて、私は電車を動かす。
「あ…夜明けだ」
彼女からそう言われて、ふと気がつく。
空が朝焼けに染まり、そして少しずつ世界が優しく残酷な夜の世界から、厳しく温かい昼の世界へと目覚めていく。そんな空の下で不思議と気分が高揚しているのを自覚して、私は無意識につぶやいていた。
「今日はいい日になりそうだ」
「そうだねぇ。いい天気になるよね、きっと」
のんびりした彼女の声を聞いて、私は笑った。
カタンカタンという電車の音は、なおも軽快に響く。目覚めた世界に自分の存在を知らせるかのような、しかしそうと言うにはあまりにも控えめなその音色は、私と彼女にだけはしっかりと聞こえていた。
ノスタルジック・シンフォニー ほがら @takuan_02
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