君と見た世界のすべて

斉凛

第1話

 白魚のような指先からこぼれ落ちた花びらが、ひとつ、ふたつ、みっつと、風に舞って少年の頬に降り注いだ。

 暖かな春の日差しの中、桜の木の下で少年は昼寝をしていたのだが、頬に落ちる大量の花びらに気付き目を開けた。

 目の前に見えた白く小さな指をたどる。その先には華奢な肩、細い首、ふっくらとしたバラ色の頬、黒目がちでつぶらな瞳が微笑んでいる。


「良平! 誕生日プレゼント」

「これが?」


 良平は頬にへばりついた花びらをつまみ上げて唇をへの字に曲げた。白い指の少女は照れ笑いを浮かべながら、愛らしくふくらんだ唇から言い訳の言葉を紡いだ。


「えへへ。今月小遣いピンチなの。これで勘弁して」

「貸し一つだ。来年の18の誕生日は倍だからな。奈緒」


「ええ! どうしよう?」


 俯いてうろたえる奈緒。起き上がって奈緒を見下ろす良平。良平が奈緒の柔らかな髪の毛に触れた。

 これ以上ないほど幸せな笑顔で彼女の頭を撫でている事に、奈緒は気づいていなかった。ただ頭を撫でるという行為に彼女は不満の声を上げた。


「また子供扱いして」


 唇を突き出して見上げる奈緒を見ながら、良平は皮肉げな笑みを浮かべて返した。


「来年の3月までは俺の方が1つ年上だからな」

「学年は一緒じゃん。誕生日にこだわる方が子供だよ」


「そうだな」


 奈緒の言葉をあっさり認め、名残惜しげに彼女の頭から手を離す。その瞬間奈緒は無邪気な表情から一転して、真剣な表情で良平を貫いた。


「良平は恋をした事ある?」


 ふいをつかれた良平は、手を止めて、表情を強ばらせた。迷うように唇をふるわせ、視線を地面に落とす。地面には桜の花びらが敷き詰められ、無残にも踏みにじられ醜い跡を作っていた。


「ある」


 良平の口から漏れたのはそれだけだった。低く絞り出すような言葉の重さに、奈緒は何も気づかなかった。

 奈緒の視線は良平とは反対に上を向いて、青い空に舞う花びらを追っていた。ふわりふわりと漂う花びらがどこに落ちるのかまだ誰もわからない。


「私はね、ないの。家族とか友達とかを好きってのはわかるんだけど。恋人って友達と何が違うの? それがわからない私ってやっぱり子供なのかな……」


 奈緒の唐突な質問の理由。それがわかって良平はほっと胸をなで下ろしたようだった。


「また誰か振ったのか?」

「うん……」


 奈緒の声は春風にかき消されそうなほどか細いものだった。その姿は誰もが手を差しのべずにはいられないほど、弱く危うげな様子だ。良平は手を伸ばしかけて途中で止め、空を掴むように拳を握りしめた。


「気にするな。恋に落ちるって言うだろう。いつかおまえもそういう時がくるんだよ。それまで無理して誰かと付き合おうとなんてしなくていいんだ」


 良平は奈緒を慰める振りをしながら、自分の言った言葉の卑怯さに嫌気がさしていた。奈緒に恋人ができる事を良平は恐れている。

 そんな良平の内心の拘泥に気付きもしない奈緒は、表情を和らげて薄く微笑んだ。


「そっか。そうだよね」


 花びらがまた1枚風に舞う。ふわり、ふわりとどこにも落ちることなく。しかしいつかはどこかに落ちるのだ。その時はすぐそばまできている。風が時間稼ぎをしているにすぎない。

 その事実から目をそらすように、良平は次の話題を始めた。


「俺バイト始めるから」

「急にどうして?」

「欲しいものがあるんだ。忙しくなるからたぶん今までみたいにおまえと遊んでられないと思う」


 奈緒は驚いた表情を浮かべた後、俯いて良平の袖口をつかんだ。


「そっか」


 その寂しげな言葉の響きが良平に安らぎを与えた。寂しいと思ってくれるぐらいには、大切な存在と思われているのだろう。


「大丈夫だ。どうせ隣に住んでいるんだし、会いたかったらいつでもうちに来いよ」


 奈緒はその言葉に小さく頷いた。

 団地の中で隣の家同士で育った二人は幼なじみだった。隣にいるのが当たり前すぎるくらいずっと一緒に育ってきた。奈緒にとって良平は家族も同然なのかもしれない。

 でもいつまでも一緒にいるわけではない。桜の季節は出会いと別れの季節。次の桜の季節まで二人が一緒にいる保証などどこにもなかった。



 ピンク色から群青色に美しいグラデーションを描く夕日を、奈緒は眺めていた。夕日は毎日違う色をしている。しかし今日の夕日の美しさは格別だった。感動と切なさが胸の内からこみ上げてくる。

 夕日の作る濃い影に包まれながら、奈緒は携帯を空に掲げて写真を一枚撮った。しかしその写真は、今感じる空の美しさの半分も、表現できていなかった。何度も撮り直しベストな一枚を追求する。


「奈緒何してるの?」

「美春。空綺麗だなと思って」


 友人は空を見上げてそうだねと同意した。美春とこの空の感動を共有できたのに、奈緒の心は晴れなかった。

 美しい夕焼けも雲に遮られ、しだいに陰っていく。奈緒はそれ以上写真を撮り続けるのを諦め、メール機能を呼び出して、一つの写真を添付して送信ボタンを押した。


 これが奈緒の日常だった。

 可愛い野良猫の写真、美味しいスイーツの写真、朝露に光る新緑の写真。どれも奈緒の心の琴線に触れるものだった。

 本当は肌に感じる春風や、湿気をふくんだ夏の空気や、秋の気配を感じさせる虫の声や、白く濁る冬の呼吸さえも切り取っておきたかった。しかしそれらを写真に残す事は出来ない。それらを共有するためには、その時に一緒にいてくれる人が必要だった。

 どうしてこんなに寂しいのか、奈緒にはその理由がわからなかった。わからないまま時だけが過ぎていき、冬も終わりかけの2月に入った。



 2月も終わりのある日、寒さに震えていつもより早く奈緒は目を覚ました。

そろそろ春の足音が聞こえてきてもよさそうなこの時期に、どうしてこんなに寒いのか。奈緒は布団からのそりと起き出してカーテンを開け放る。

 奈緒の口から思わず感嘆の声が上がった。外は真っ白な雪景色に覆われていた。まだ空から大粒の雪がゆっくりと舞い降りている。

 雪があらゆる音を吸収したかのような静かな朝。震えるような寒ささえもこの感動の前には気にならなかった。

 反射的に携帯に手を伸ばし、外の景色を写真で切り取った。そのままメールを送ろうとして止めた。その代わりにメールの送信ボックスを開く。最近の送信メールがずらりと並ぶリストを見て、奈緒はある事に気がついた。

 すぐさまパジャマの上にコートを羽織り、携帯だけを手にして奈緒はゆっくりと部屋を出ていった。



 良平は枕もとに置いた携帯の着信音を聞いて目を覚ました。いつものアラームよりも早い時間。まだ夢と現実の境目にいるような気持のまま、携帯に手を伸ばした。

 朝の寒さに震えながら、携帯を開くと奈緒からのメールが届いていた。


『窓の外を見て』


 要件だけの簡素なメールに首を傾げながら、良平はのろのろと起き上がり窓のカーテンを開け放った。外は一面の銀世界だった。その幻想的な美しさに思わず言葉を失った。

 しかし雪は軽さを失い、湿気を含んで重たく地面へと降り注いでいた。すぐにみぞれになり、やがて雨となって、雪景色を溶かしてしまうだろう。

 美しい光景を見られるのは、今この瞬間だけだ。


 よく観察すれば窓のすぐ下で、奈緒がこちらを見上げて手を振っていた。寒さに頬を染めながら、それでも奈緒は無邪気に笑っている。良平はコートを手に急ぎ奈緒の元へ向かった。


「朝から元気だな」

「だって綺麗なんだもん。この純白の雪に足跡を残すのって楽しくない?」


 子供っぽい奈緒の行動に苦笑しながら、良平は頷いた。降り積もった美しい雪景色を汚したいという欲望はわからなくもない。


「私ね今日やっと気づいたの」


 奈緒の話がいつも唐突なのにはなれていた。だから良平は驚く事もなく、奈緒の次の言葉を黙って待っていた。


「この雪景色を見て、感動して、この感動を誰かに伝えたいって思った。それでね最初に思い浮かんだのが良平だった」


 奈緒は良平に背を向けていた。だからどんな表情でこの言葉を紡いでいるのかわからない。それでも良平にはこの話が非常に重要なことだという事だけはわかった。


「今日だけじゃない。嬉しい時、楽しい時、感動した時、良平宛にメールを打ってた。いつの間にか私のメールの送信ボックスは良平宛のもので一杯だった」


 奈緒はそこで言葉を選ぶように、口を閉じて俯いた。湿った雪が軽さを失って重く降り積もる。みぞれに変わるのももう間近だった。

 なぜだか良平は昨年の春の桜を思い出した。あの時軽やかに舞っていた花びらと、今降り注ぐ雪が重なって見えたのだ。


 枝に積もった雪がその重さに耐えかねて地上に落下する。その音は静寂の中でことのほかよく響いた。

 その時奈緒が振り返って良平を見た。口元は微笑みながら、目だけはまっすぐに良平を見ていた。


「何かに感動して、誰かに伝えたい。そう思った時に一番に伝えたかったのは良平だったの。家族でも他の友達でもなく。私にとって良平が誰よりも一番だったんだよ。一番側にいて、同じ感動を味わいたかった。これって恋なのかな?」


 その言葉を聞いた途端、今まで押さえていた良平の理性が吹き飛び、奈緒を強引に抱き寄せていた。


「それは恋だよ。俺もおまえの側で、ずっと同じ物を見ていたかった」

「だったら、どうして、私を置いて遠くに行っちゃうの」


 奈緒の言葉は子供みたいにワガママな言い方だ。それさえも良平は愛おしく思えた。


「18になったら車の免許をとるんだ。そのための金を貯めてた。免許を取ったら初めてのドライブ一緒に行かないか?」

「え……」

「初めてのドライブだから、行く先も初めての所がいいな。これからもずっと奈緒の側にいて、初めて見る景色を一緒に味わいたい」


 遠回しな告白に奈緒は戸惑っていた。でも雪の降り続く、凍えるような寒さの中、良平のぬくもりが恋しかった。良平の頬が奈緒の額に触れる。肌と肌が触れ合っただけで熱を帯びたように感じられた。

 もう少しだけ奈緖は、良平の腕の中でぬくもりを感じていたかった。


「側にいるのが当たり前すぎて、私恋に落ちてた事に気づいてなかったみたい」

「やっと気づいたか。人を待たせやがって」


 キツイ言葉とは裏腹に良平の声音はとても優しかった。


「良平は?」

「言わなくてもわかるだろう」


 にぶい奈緒にはそれだけでは伝わらなかったようだ。まだ奈緒の目には不安の色がにじんでいた。


「もうずっと前から奈緒のことしか目に入ってない」


 がらにもない気障な台詞が恥ずかしくて、良平は顔を見られないために、奈緒の頭を強く抱きしめて胸に押しつけた。

 雪の粒が小さくなり、雨へと変わっていく。雨が雪を溶かし雪の下に隠れた草花を芽吹かせる事だろう。二人の恋が今始まったように。


 温かくなったらまた桜の咲く季節がやって来る。そうしたら免許をとって奈緒を車に乗せて出かけよう。

 旅先での感動を分かち合いながら、一歩ずつ二人の距離を縮めていこう。そう良平は心に誓った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君と見た世界のすべて 斉凛 @RinItuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ