エピローグ

「良かった……」


 安らかな寝息を立てて眠っている転校生の姿を確認し、刀華は安堵の息を吐いた。

 銃弾で胸を撃ち抜かれたのだ。心臓とは反対側だったとは言え、下手をすれば死んでいてもおかしくなかったはずだ。本当に良かったと、刀華は心の底から胸を撫で下ろす。


「ただ眠っているだけよ。傷一つないし、まぁ、ちょっとした過労ね」


 だが、付き添いの恰幅の良い看護師が平然とそう言ってきたので、刀華は目を丸くした。


「傷一つない……?」

「ええ。警察の人からは、銃で胸を撃たれたって聞いていたんだけど。きっと何かの間違いだったんでしょうね」


 刀華はまじまじと寝台で横になる転校生の顔を見た。無論、それで傷痕を確認することなどできやしない。信じられないといった表情をする刀華へ、看護師はからかうように言った。


「それより、あなたの方がよっぽど危ないところだったのよ。酷い脱水症状で。なのに、もうピンピンしてる。随分と頑丈ね、あなた」

「ま、まぁ、人並み以上には……」


 実は刀華自身、目を覚ましたのはつい先ほどのことだった。どうやらいつの間にか気を失って、病院に担ぎ込まれていたらしいのである。


「それより、あなた、彼女さん?」

「かかか彼女っ……!?」


 看護師の何気ない質問に、刀華は思いきり慌ててしまう。


「ち、違うっ! こ、こいつは、ただのクラスメイトだっ……」

「そうなの? それにしては彼、随分とあなたのことを心配してたわよ?」

「……わ、私のことを?」

「そ。病院にあなたが運ばれてきたときは、ずっと傍にいて、手まで握って。その後、自分が倒れちゃったわけだけど」

「そそそ、そうだったのかっ……?」


 声が上ずる刀華。頬が見る見るうちに、真っ赤になっていくのが自分でも分かった。


「元気そうだし、一人でも大丈夫そうね。そのうち消灯の時間だから、それまでには自分の病室に戻っておいてちょうだい。何かあったら、ナースコールで呼んでね」


 気を利かせてくれたのか、そう言い残して看護師は病室を出ていった。

 そうして二人きりになったは良いが、刀華は転校生の顔をまともに見ることができない。


「ふぅふぅ」


 火照った頬を両手で包むように抑え、刀華はなんとか気持ちを落ち着けようとする。


「どうも近藤さん、お久しぶりですね。もう身体の方はよろしいのですか?」


 不意に背後から声をかけられた。


「……お前は」


 振り返った刀華は思わず眉をしかめる。そこにいたのは転校生の養父――木下藤次だった。


「随分と怖い顔をされますね。せっかくの綺麗な顔が台無しですよ?」

「生憎、胡散臭い人間を見ると、どうしてもこういう顔になってしまう性質なんだ」


 相手の軽口へ、刀華は憮然として返した。どうもこの男のことは信用ならない。


「それはそれは、とても残念です」

「で……一体、何をしに来たんだ?」


 ワザとらしい顔で嘆いてみせる木下に、刀華は思わず舌打ちしそうになるのを堪えて問う。


「見舞いに決まっているじゃないですか。わたしは彼の養父ですよ?」

「そう言えば、そうだったな」

「忘れないでくださいよ。そうそう、忘れたと言えば、あれだけ忠告したにもかかわらず、存分に関わって下さいましたね。もっとも、そのお陰で今回は助かりましたが」

「よく言う。そもそもお前は、最初から私を巻き込むつもりだったのだろう?」

「……何のことでしょうか?」

「しらばくれるな。考えてみれば、初めから奇妙だった。同じ学校の同じクラスで隣の部屋。偶然にしては、出来過ぎている。だが、裏でお前が手はずを整えていたのだとすれば合点がいく。昨日、お前に電話したときも、まるで私がかけてくるのを承知していたような口ぶりだったしな」

「うーむ。何のことか、分かりかねますが……とりあえず、これは彼と、そしてあなたへのお見舞いですよ」


 木下は誤魔化すように果物が詰め合わされた駕籠を差し出してきた。それを反射的に受け取り、なんとなく気が削がれたような格好になった刀華へ、彼は小さく頭を下げて、


「本当なら彼が目を覚ますまで居てあげたいところなのですが、色々と後処理が忙しくて。申し訳ありませんが、わたしはこれで失礼させていただきますよ」

「……帰るのは構わんが、一つ、訊きたいことがある」


 早々に立ち去ろうとする木下を、刀華は呼び止めた。

 なんでしょう、と振り返る木下へ、刀華は少し逡巡しつつも問いかける。


「天燃理心流について、お前は何か知っていることがあるか?」

「いえ。実はわたしは士族でありながら、恥ずかしいことに刀の方はからきしでして」

「……そうか」


 何か隠しているような気もしたが、それ以上は問わなかった。恐らく訊いてもはぐらかされるだけだろう。木下が病室を出ていくのを見送ってから、刀華は受け取った駕籠を転校生の眠る寝台脇の床頭台しょうとうだいの上に置いた。


「あの……刀華しゃま」

「うぉっ……?」


 いきなりその床頭台の一番下の戸棚が開き、おかっぱ頭の人形がおずおずと出てきたので、刀華は思わず仰け反った。


「びっくりした。お前、そんなところに隠れていたのか」

「はいでしゅ」


 人形は頷き、それから刀華を見上げて、


「今回は、いえ、今回もと言った方が良いかもしれましぇん。かしゃがしゃね、ましゅたーをたしゅけていただき、ありがとうございましゅた」

「気にするな。礼を言うなら、必死になって助けを乞うてきた瑠璃ちゃんにでも言ってやれ」


 主人思いの人形の頭に手を置いて、刀華はそう微笑んだ。


「瑠璃しゃまが……?」


 と、彼女は可愛らしく小首を傾げる。


「まぁ、それをお前に言うのも変か」


 曖昧に応えつつ、刀華は寝台の方へと視線を向けた。転校生はまだ眠っている。 やはり先ほどの看護師の話が気になるが、まさか病衣をひっぺがして確認するわけにはいくまい。信じがたい話だが、嘘を言っているとは思えなかった。

 この人形なら、何か知っているかもしれない。そう思って、刀華が口を開こうとしたときだった。


「あの……一ちゅ、刀華しゃまにおちゅたえしたいことが……」

「何だ?」


 逆に話を切り出されて、刀華は屈んで耳を傾ける。人形はどこか言い辛そうに小さな口を動かした。


「電子生徒手帳に感染かんしぇんしていた、ういるしゅのことなのでしゅが……」







 島津香苗は寮の自室に閉じ籠っていた。

 アタシって、なんて馬鹿なんだろう。と、香苗は自虐する。信じ込んで勝手に舞い上がって、なんて滑稽なのか。笑ってやりたい。こんな馬鹿な自分を笑ってやりたい。何より、あんなことをされていながら、それでもまだ想いを捨てきれないことが可笑し過ぎる。悲し過ぎる。

 死にたい。いっそ、死んでしまいたい。そうしたら楽になれるかもしれない。

 香苗が絶望の底なし沼に深々と沈み込んでいたそのとき、ピンポーン、と腹立たしいほど軽快にチャイムが鳴った。


「おい、香苗。いるか? いるなら返事してくれ」


 ドア越しに聞こえてきたのは、聞き慣れた声だった。隣の席のクラスメイトだ。

香苗は驚いた。硬派な彼女は前々から、対照的な性格である香苗のことを避けている節があった。家に遊びに行きたいと言っても断られるし、向こうが遊びに来たことも一度もない。そんな彼女がどうして?

 無視しよう。香苗はシカトを決め込んだ。しばらくチャイムが続いたが、やがて諦めたのか、静寂が戻った。と思っていたら、なんといきなり窓が開いた。

 そう言えば、鍵を閉めていなかった。迂闊だった。

 って、いやいや、ここ三階なんだけど!?


「……香苗、大丈夫か?」


 姿を見せた友人は、香苗を見てちょっと驚いたような顔をした。きっと泣いていたことが分かったのだろう。


「窓から入ってくるとか、非常識すぎ」


 顔を毛布で隠しながら応じた香苗の声は、いつもの軽い口調とはかけ離れて、あまりにもぶっきら棒で重たかった。震えてもいた。


「すまない……その……お前、なのか?」

「何がよ?」


 本当は心臓が縮むほどドキリとしたが、香苗はそれを悟られないように努め、訊き返した。


「……ウイルスのこと、だ」


 なんであんたがそんなこと知ってるのよ? そう聞きたかったが、ぐっと堪え、香苗は白を切る。


「……何それ?」

「何で、そんなことをしたんだ?」


 その声には、少し責めるような雰囲気が混じっていた。

 その瞬間、香苗はカッとなった。ふつふつと耐え難い怒りが胸の底から湧き上がる。

 何でって? そんなの、決まってるでしょうが!

 最初は偶然だった。たまたま秘密を知ってしまって、なぜ男が女装して教師をやっているのか理解不能で、死ぬほど驚いた。だが、切実な顔で訴えられた。秘密にしておいてほしいと。自分にはやるべきことがあるのだと。

 気が付くと、助けてあげたいと思うようになっていた。実は、すべて嘘だなんて知らずに。いや、本当はちょっとおかしいかもしれないと思ったときもあった。しかし、そのときにはもう冷静になれなくなっていた。

 あんな男のことが好きになっていた。

 だから、ある日、協力を要請されても、香苗は断らなかった。無論、最初は怖かった。当然だ。好きでもない男と仲良くなって、電子生徒手帳にウイルスを感染させるなんて、いろんな意味で危険な行為だ。

 でも、それでも最後までやり続けたのは、本当に好きだったからだ。頼られるのが嬉しかったからだ。


「アタシはあの男が好きだったのよ! だから手伝ったに決まってるでしょっ!? 騙されてるかもって思ったけど! それでもっ、それでも、やめられなかったのよ!」

「……そう、か。……すまない……不躾に訊いてしまって……」


 香苗には分かっていた。こちらの事情を知らない相手に、そんなこと言っても分かるはずがないと。何より目の前のクラスメイトは、恋の「こ」の字も理解し得ない女なのだ。

 それでも、香苗は溢れ出た感情を抑え切ることができなかった。


「謝らないでよっ……馬鹿なのは、アタシなんだからっ……! だからっ、むしろ好きなだけ蔑めば良いわよっ……馬鹿にすれば良いわよっ……どうせアタシの気持ちが、あんたみたいに誰かを本気で好きになったことのない女に分かるわけないでしょうからね!」


 香苗は声を荒らげて怒鳴り付けた。最悪な八つ当たりだ。

 だが、それに対するクラスメイトの反応は予想外のものだった。


「私は、お前を馬鹿にしたりはしない。……その、なんというか、だ。……わ、私にも、分かる、からな……そ、そういう気持ちが、な」


 彼女はどこか恥ずかしげに顔を背け、そんなことを言った。

 香苗は思わず「は?」と口を開ける。


「いや……その……」


 もじもじと指先と指先をくっ付けたり離したり。珍しい。彼女のこんな仕草は、今まで見たことが無い。こんな……こんな恋する乙女っぽい仕草は。


「刀華、アンタもしかして……う、嘘でしょ……?」

「う、嘘じゃないぞ! わ、わ、私だって……そ、その……す、好きなやつくらい……い、いるし……」


 その瞬間、怒りとか悲しみとか絶望とか、胸の中に溢れていた感情が、まったく別の感情によって一気に塗り替えられたような感じがした。


「あ、あはは、あははははははははははははははははははははっ!」


 気付くと香苗は、思いっきり笑っていた。


「な、なぜ笑うっ……?」


 クラスメイトはそう咎めつつも、自覚があるのか、耳の先端まで真っ赤にしていた。それがまた可笑しくて、香苗は笑った。

 そうだ。可笑しい。本当に可笑しい。こんなに可笑しいこと、今までに無かったというくらいに。心の底から、可笑しくて可笑しくて可笑しかった。


「だ、だって! だってあの刀華だよっ? あの刀華が、好きな人とかっ……ちょ、マジで衝撃的すぎてヤバいんだけど!」

「なななっ、何を言う! わ、私だって……お、お、女なんだぞ!」

「あははははははっ! 女って、いや知ってはいたけど! まさか、さ! あはははっ! あー、可笑しっ……マジでお腹痛いっ……」


 一しきり笑いに笑ってから、香苗は唇を尖らせているクラスメイトに向かって言った。


「そうよ、そうよね! あの刀華にすら、好きな人ができるくらいなんだし!」

「ど、どういうことだ……?」

「アタシもまた頑張ろうってこと! よーし、もっと良い男、見つけてやるぞ!」


 そうだ。また新しい恋を探せばいい。アタシならできる。

 そう自分に言い聞かせながら、香苗は勢いよく寝台から立ち上がる。

 もう嘘のように心が晴れていた。開け放たれた窓から差し込んでくる日差しは初冬のものとは思えない、春のような温かさだった。







 相変わらず自室に引き籠っている瑠璃だが、兄の様子については、みことから逐一報告を受けていた。

 幸いなことに命に別状はなかった。それどころか、一晩経った今はすでに健康そのもので、今日には退院できるという。

 だが、自分のせいで兄は死ぬかもしれなかったという事実を思うと、胸の奥にずきりと鋭い痛みを覚える。それに、いつかまた今日みたいなことが起こらないとも限らない。身体の弱い兄が、いつまで戦闘の負担に耐え続けることができるのかという心配もある。

 今回のように、彼女がいれば兄の負担は遥かに軽減するだろう。だが――


「それは……嫌……」


 自分でも分かっていた。それは我儘であると。だが、怖いのだ。兄が死んでいなくなるのも怖いが、彼女に兄を奪われてしまうことも、それと同じくらい、怖い。


「瑠璃ちゃん」


 いきなりドアの向こうから名を呼ばれ、瑠璃はビクッと身体を震わせた。

 あの女の声だった。


「少し、話があるんだ。……入っても、良いか?」


 神妙な声でそんなことを言ってくる。瑠璃はどう応えて良いのか分からず、息をひそめた。入り口に施した仕掛けのため、向こうが中に入ってくることはできないはずだ。

 しかしその直後、ザンッという音がした。一瞬、白刃が見えた。まさか鍵を斬った!?

 瑠璃が驚愕して恐怖に身を竦めていると、そいつは現れた。


「くま、にゃん……?」


 それは瑠璃の大好きな熊と猫の合成獣キメラキャラクターのぬいぐるみだった。しかも、一メートルの特大サイズ。独特な物憂い表情のまま、そいつは言った。


「やぁ~、ボク、くまにゃん」

「しゃ、しゃべったっ……?」


 瑠璃は目を瞠った。なんと、くまにゃんが手を振りながら声を発したのだ。


「ボクと一緒に遊ぼうよ~」


 しかも、くまにゃんは手招きしてくる。その何とも言えない愛らしさに、ふらふらと瑠璃は光に向かう虫のように、つい誘惑に駆られて近付いていってしまう。


「捕まえた」


 突然、くまにゃんの背後から伸びてきた手に腕を掴まれた。


「だっ、騙したなっ!」と叫んだがもう遅い。腕を引っ張られ、抱きすくめられてしまった。


「あほ! 放せ! やめろ! うんこ!」


 必死に振り解こうとするも、非力な瑠璃とは力が違いすぎる。もしかしてこいつは自分を殺し、兄を完全に独り占めするつもりなのではないか。そんな考えが瑠璃の脳裏を過った。

 だが、女はなぜか瑠璃の頭を撫でてきた。

 優しい手つきだった。


「心配するな」


 耳元でささやかれた声も優しかった。


「……怖かったんだろう? たった一人の兄が、誰かに取られそうになってしまったことが」

「うう、うるさい!」


 瑠璃は身を捩らせながら怒鳴った。だが、なぜか身体に思うような力が入らない。女の身体から漂う甘くて優しい香りが、力を奪っていくようだった。

 女は言った。


「だが、安心してくれ。私はお前から何も奪うつもりはない。……むしろ――」


 そこで女は少し逡巡する素振りを見せたが、瑠璃を抱き締める腕にもう少し強く力を込めてから、こう言葉を続けた。


「――私を、お前のお姉さんにしてほしい」

「……お、ねえさん?」

「ああ。……む、無論っ、お、お、義姉おねえさんではないぞっ……!? そそそ、それはまだ先の話……いいい、いや、なんでもない……っ」


 ……お姉、さん……。


 なぜだか狼狽している女のことは意に介さず、瑠璃はその言葉を大切なものを転がすように心の中で反芻した。同時に、あの施設で自分に優しくしてくれたお姉さんたちのことを思い出していた。


「確かに、血は繋がってはいないかもしれない。だが、私はお前のことを本当の妹のように愛したい。大切に思いたい」


 瑠璃は顔を上げた。女の優しい顔がそこにあった。


「だめ、だろうか……?」


 問われて、瑠璃は首を小さく左右に振っていた。


「……だめ、じゃない……」

「そ、そうかっ……」

「でも」


 瑠璃は言った。女に対する警戒心は、嘘のように消えていた。


「……瑠璃は……姉より……ママが、ほしい……」







「……ママ……ママか……そうか、私は、そんなに老けて見えるのだろうか……」


 刀華はがっくし肩を落としながら、放課後の校内を歩いていた。


「ご、ごめんなさい、近藤さんっ……。瑠璃がいきなり変なことを言い出しちゃってっ……。一体、何があったのかな……今日の朝、近藤さんを見るなり、ママ、だなんて……」

「いや良いんだ……むしろ、私の方から提案したんだからな。ママではなかったが……」

「そ、そうなんです、か……?」


 隣を歩く転校生が、刀華を不思議そうな顔で見てくる。

 昨日の夕方に退院したばかりとは思えないほど、彼の顔色はすこぶる良かった。授業中もいつも通り真面目に勉強していたし、体調はもう万全のようだ。

 あの一件からまだ二日しか経っていない。だが、一日だけ休校となったものの、今日からもう平常通りの授業が再開されていた。それというのも、事件が公にされず、秘密裏に処理されたからだった。当然ながら刀華はその辺の事情について何も知らないが、お陰で自首した香苗も何の罪に問われずにすみ、もう元気に学校に通っていた。

 とは言え、完全にいつも通りというわけではない。《アマテラス》が機能停止したことで、授業や研究などに大小様々な支障が出ている状態だ。学校側は、システムに重大な障害を発見したため現在復旧中、などと発表している。

 それはともかく。刀華はちょっと拗ねたように言った。


「それより、転校生。私のことは、刀華と呼べと言っただろう?」

「あ……す、すいません……つ、つい……え、えっと……と、刀華、さん……」

「っ……」


 かぁぁぁっ、と頬が熱くなった。


「え? ど、どうされました? ぼく、また何か変なことでも言ってしまいました……?」

「ななな何でもないっ。別にお前はまったくぜんぜん悪くないぞ……っ」


 顔を背ける刀華。自分から提案しておきながら、まさか名前で呼ばれることが、こんなにも恥ずかしいことだなんて思ってもみなかったのである。


「あ、あの……それなら、刀華さん……。ぼ、ぼくのことも、転校生って呼ぶの、やめてもらえませんか……? なんか、いつまでも、他人扱い、されてるみたいで……」

「そ、そうだなっ……。よ、よし、じゃあ、えっと……木下、か……?」

「い、いえ……ひ、秀美で、良いです……」

「ひでっ……」


 さらに首筋まで真っ赤になる刀華。


「そそそんなっ、互いに名前で呼び合っていたら、まるで恋人みたいじゃないかっ……って、こここ恋人!?」

「大丈夫、ですか……? なんか、顔が凄く赤い気が……も、もしかして、風邪とか……」

「だだだ大丈夫だ! 何でもない! 何でもないぞ! 私は元気だけが取り柄だからな! よし、分かったぞ、秀美だな! 秀美、秀美、うん、そう呼ぶことにする! 秀美!」

「そ、そんなに連呼されると、さすがにちょっと、は、恥ずかしいです……」

「おおおお前が呼べって言ったんじゃないかっ!」

「そう、ですけど……」


 そんなやり取りを交わしていると、いつも別れる地点に辿り着いた。この先に道場があり、刀華はいつも稽古してから帰るのだ。

 だが、今日はどちらともなくその場に立ち止まると、二人とも図ったかのように何かを言いたげに視線を彷徨わせた。

 よ、よし……。刀華は緊張で汗ばむ掌をぎゅっと握る。そして、勇気を振り絞り口を開こうとして、


「ひ、秀」

「あのっ……」


 声が重なった。どちらも息を呑んで、沈黙する。


「な、何だ?」

「ど、どうぞ……」


 そして、お互い譲り合う。


「えっと」

「あの……」


 また同時に話し出そうとして、口を噤む。

 何をやってるんだ。


「と、刀華さんっ……」


 結局、先に切り出したのは秀美の方だった。ぺこりと大きく頭を下げてくる。


「あ、あのっ……せ、先日は、た、助けていただいてっ……あ、ありがとうございましたっ……。あ、あのとき、刀華さんが来て下さらなければ、ぼくは今ごろ、死んでいました……」

「そ、それは私も同じだ。お前がいなければ、私も死んでいた」

「で、でも、助けていただいたのは、ぼくの方です……。そ、それに……あ、あんなに酷いことを、言ったのに……」

「私は、気にしてなんかない」


 秀美の謝罪を半ば遮るように、刀華は断言した。もう気持ちの整理は付いていた。


「……私に、身勝手な部分があったのは事実だからな。それに、瑠璃ちゃんのことを想うお前の気持ちも、今なら理解できる。……だから、気にするな」

「と、刀華、さん……」


 瞳を潤ませ、秀美は拝むように手を重ね合せた。それから、おそるおそるといった様子で、


「あ、あの……そ、それで、もし、もし良かったら、ですが……。こ、これからも……その、ぼく、いえ、ぼくたちのことを、助けていただけませんか……? な、なんてムシが良いんだって、自分でも思います……。で、でも……ぼくたちには、やっぱり刀華さんの力が必要なんです……!」


 無論、刀華に迷いは無かった。


「元から、私はそのつもりだ」

「ほ、本当ですかっ……? あ、ありがとうございます……っ!」


 秀美は目を大きく見開いた後、礼を言いながら刀華の手を包み込むようにして握ってきた。息がかかるほどの距離に顔がきて、刀華は思わず顔を背ける。


「ば、馬鹿っ……か、か、顔が近いぞっ……」

「ご、ごめんなさい……。そ、それで、えっと……刀華さんの方は……?」

「そそそうだなっ……」


 ドキドキと、胸の鼓動が早くなる。全力疾走した後のように、息が荒くなる。

 が、頑張れ、私! そう己を叱咤し、母の言葉を胸に、刀華は真正面から彼の目を見つめ返した。そして、今度こそ想いを告げようとして――


「木下秀美っ!」


 突然、何者かの大声に割り込まれた。振り向くと、あの変態巨漢が立っていた。


「山本、新蔵……!」


 刀華は顔をしかめ、邪魔者を思いきり睨み付ける。だが、山本はそんな刀華には目もくれず真っ直ぐ秀美の前までやって来ると、刀華を嘲笑うかのような堂々とした告白を披露してみせた。


「やはり拙者は、お主のことが好きだっ!!」

「……は?」

「もう拙者はお主しか見ることができないのだ! どうか拙者のこの純真無垢な気持ちを受け取ってくれ!」


 唖然とする刀華の眼の前で、山本は熱心に思いの丈をぶつけていく。もちろん、刀華にではなく、秀美の方に、だ。


「え、ええっ……? あ、あの、で、でも、ぼ、ぼく……お、男ですし……」

「そんなの関係ない!」


 狼狽える秀美へ、山本は一点の曇りもなく断言した。


「性別など、真の愛の前には些細な問題でしかないのだっ!」

「んなわけあるかっ!」


 蚊帳の外に追いやられていた刀華は、堪らず山本の腹に鋭い膝蹴りをかます。吹き飛んだ山本は、地面にひっくり返る。


「……こ、近藤、刀華……? な、なぜここに?」

「今、気付いたのか!?」

「そ、そうか……拙者の後を追って……すまぬ! そんな健気なお主の気持ちは心から嬉しいが、しかし、拙者はそれに応えることはできぬのだぁぁぁっ!」


 勘違いも甚だしく、山本は涙ながらに叫んだ。


「お前の頭にはウジでも湧いているのか!?」

「ああっ、木下秀美よ! お主が男だろうと関係ない! 何の問題も無い! ぜひとも拙者と結婚を前提としたお付き合いを――」

「……ごめんなさい」

「な、なぜだっ? まさか、他に好きな人がいるとでも言うのか!?」


 秀美が頭を下げてはっきりと断ったので、山本は目を白黒させて問う。


「い、いないですよっ……」と即座に否定してから、転校生は強い口調で言った。

「そもそもっ、そ、そういう恋愛とかっ……ぼく、全然まったくこれっぽっちも興味が無いですからっ!」


「うっ……」と、刀華は喉の奥から引き攣った声を漏らす。

 山本に対し投げられたはずのその言葉は、むしろ刀華の胸に深々と突き刺さったのだった。


「だが、拙者もかつてはそうだった! だから、きっとお主もいつか拙者の愛を理解できる日が来るはずだ!」

「そ、そんなの……か、勝手に決めつけないでくださいよっ……」

「は、ははは……そ、そうか……まるで以前の誰かさんみたいだな……ははは……」


 刀華の口から乾いた笑い声が漏れる。

 山本の言葉ではないが、いつかきっとそんな日がくるかもしれない。

 その日まで諦めずに頑張ろう。

 刀華はそう己に言い聞かせつつ、とりあえず目の前の変態を可及的速やかに制圧・排除することにした。

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刀燁のシュヴァリエ 九頭七尾(くずしちお) @kuzushichio

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