夏、雲、情景。
夕暮 社
青空、川面、向日葵。
夢を見なくなってから、どれくらいの時間が経っただろう。
◇
揺れる車内はぎゅう詰めで、隣の人と肩が当たって申し訳ない気持ちで一杯になる。
痴漢と間違われないように女性の近くには行かず、両手でつり革につかまる。
電車は今日も、僕と他人を会社に運んでいく。
上京してからこっち、こんな生活を五年ほど続けているが、未だに生活に慣れない。心がどんどん
朝八時から出勤して、夜九時に退社して、家に帰れば疲れて眠ってしまう。
何も変わらない生活。何も変えられない時間。
女性とどうこうっていう機会もないし、そもそも誰かと惚れた腫れたといった心を動かす為のエネルギーさえも無い。
磨り減る自分を、遠くから眺めることしか出来ない。
ズキリとお腹が痛む。
多分、ストレスで胃が炎症でも起こしてるんだろうけど、忙殺される日々の中で病院に行けるわけもない。市販の胃薬を飲んでいるのに、全然良くならない……。
色々と限界が近い気がした。
自分が倒れてそのまま死んだなら、会社と上司のせいになるんだろうか。もしそうなったら少しだけ嬉しい。
そんな事を考えて、人波に押されて下車する。
ふらふらとした足取りで駅を出て、そこでようやく違和感に気づく。
目の前には知らない景色が広がっていた。いつも降りる駅の正面にはコンビニがあるはずなのに、ここにはない。振り返って駅の名前を確認する。……どうやら本来の降りるべき駅から二つほど先の駅まで乗り越してしまったようだ。
まずい。このままでは遅刻してしまう。
慌てて戻ろうとして、ふと外の景色が目に入った。
建物の隙間を縫うように、遠くでキラキラとした光のようなものが見えていた。
それを見つけた途端、何かの糸が切れた気がした。
もう限界だったのだ。会社に通う日々に、どこかで終止符を打たなければいけなかった。
僕は、駅に向けた足を光の方へと向け直した。
その日、初めて無断欠勤をした。
◇
そこは大きな川だった。陽の光が川面に反射して、キラキラと輝いて見えていたものだったようだ。
川沿いを歩いていく。夏の太陽に照りつけられているはずなのに、ちっとも暑く感じない。お腹の痛みも無くなっている。足取りは軽く、心なしか視野が広がっているような気がする。
川面に反射する光が色鮮やかに見える。青い空がどこまでも遠いはずなのに近くに感じる。空高く
一歩進むたびに心が澄んでいくようだった。潤いが体を循環していくような、少年時代の瑞々しさが蘇っていくような気さえした。
こんな気持ちを、今の今まで忘れていた。
そうだ。空は青くて、雲は白い。当たり前のことなのに、五年という社会人生活ですっかり忘れていた。空を見上げるなんて、本当に久しぶりのことだ。
先ほどまで乗っていた電車のなかでは全てが灰色にしか見えていなかったのに、この色彩の鮮やかさはどうだ。まるで世界が違って見える。
川のせせらぎが耳に心地いい。
……子供の頃はよく、田舎の河原で遊んでいたな。
川と青空の景色を見ていると、色褪せた記憶が鮮明に蘇ってくる。
そうだ、あの頃はよく夢を見ていたっけ。
他愛もない、子供が語るよくある夢だ。
僕は、漫画家になりたかったんだ。手塚治虫先生とか藤子不二雄先生みたいな、子供を楽しませるような漫画家に。
いつから、夢を見なくなったんだろう。
川で遊ぶ子供達の情景が目に浮かぶ。
笑いながらはしゃぐ子供達は、服が濡れたってお構いなしだ。
夏空の下、遠くに聞こえる蝉の声にうるさいねって言って笑って、川のせせらぎに耳を傾けて、背の高い
アッキーという同い年の男の子と、サキちゃんという女の子の三人でよく遊んでいた。
他にも遊んでいた子はいたはずだけど、今はもう霞んだ記憶の彼方だ。
秘密基地を作って、お菓子を持参したりもしてたっけ。
全てが懐かしい。遠い過去の大切だったはずの思い出たち。どうして忘れていたんだろう。
いつから
それはもう、死んでいたのと同じではないのか。
空を見上げて、自分を見つめ直す。
本当に今の生活のままでいいんだろうか。
一度やめてしまった夢の続きを、今からでも見れるだろうか。
今からでも、漫画家になれるだろうか。
◆
気がつけば、だいぶ川を下ってしまって、駅からかなり離れてしまっていた。
時刻を確認すると午前十時。いつの間にそんなに時間が経っていたのだろうかと不思議に思う。
不思議と疲れはない。八月の太陽はすっかり空に昇り、街と川を照らしているはずなのに。
川に沿って歩いて、このまま海に出てしまおうかと考えていたとき、目の前には見覚えのある景色が映った気がした。
喉が鳴る。この場所には初めて来たはずなのに、無性に懐かしい空気を感じる。
無意識のうちに歩みは早くなる。
その景色を知っている。この空気を知っている。この胸の高鳴りは、紛れもなく──
──そこには向日葵が咲いていた。
一輪だけではなく、群生した畑のように。
「………………」
ああ、ここは。
田舎にあった向日葵畑だ。何故ここにあるのかはわからないが、覚えている。
まだ未来に希望を持っていて、夢を持っていた。輝かしい日々を過ごしていた場所。
導かれるように畑に分け入っていく。
流石に当時ほど向日葵の背を高く感じることはなく、今は腰ほどの位置に咲いている向日葵たちを見つめながら先に進んでいく。
川はもう、見えなくなっていた。
◆
「なにしてんだよ、早く秘密基地に行こうぜ!」
アッキーが僕の背中をバシバシ叩きながら急かす。せっかちな彼は学校が終わるとさっさと荷物をランドセルに詰めて駆け足で出て行こうとするので、それについて行くのは大変だった。
秘密基地は向日葵畑の中心に、円状に
確かこの辺にあったはず、という記憶を頼りに進んでいくと、ポツンと向日葵が咲いていない空間があった。そこに行くと、そこには確かにダンボールで作ったボロっちい『秘密基地』が建っていた。
ふと、涙が溢れる。
大人になってからすっかり忘れていた宝物のような日々。どうして忘れていたんだろう。
泣き出す僕の横を、するりと子供が駆け抜けて行く。
「なにしてんだよ、泣いてないで早く行こうぜ!」
子供は振り返って僕に笑いかける。
「うん!」
そうだ、やり直そう。
今からでも遅くはないはずだ。
忘れてしまった夢を思い出せたように。
置いていってしまったものを、秘密基地に取りに行こう。
漫画家になるために。諦めたものを、今度こそ諦めないために。
自分と同じくらい背の高い向日葵を分けて進んでいく。先が全く見えないけれど、少しも不安じゃない。
走ってさえいれば、いつかは抜けられるのだからちっとも怖くはない。
──さあ、夢の続きを見よう。
◇
その日の朝、川沿いに一人の男性が倒れているのを近隣住民が目撃した。
すぐに救急搬送されたが、熱中症により二十六歳という若さで死亡していたのを確認された。充分な水分補給をしておらず、朝食も食べていなかったのが原因のようだった。胃潰瘍になっていたが、それは直接の死因とは関係ないと見なされた。
男性は会社に出勤する途中だったのは間違いないはずだが、何故会社とは全く方向の違う川沿いで倒れていたのかは謎とされた。しかし、事件性はこれといって無く、新聞の隅にも掲載される事はなく、いつしか誰もが彼を忘れていった。
彼の名前はもう、誰も思い出せない。
夏、雲、情景。 夕暮 社 @Yashiro_0907
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