第一章 千年小国
脱走王弟
「ディレイスを捜してきてくれないか」
穏やかな春の日差しが気持ち良い今日この頃。白と黒の格子模様の床が目を引く執務室。開いた窓から心地良い風が入ってくる。
この部屋の主は、使い込まれて深い色合いを見せるマホガニーの机越しに、ラスティの黒い瞳をひたと見つめてきた。俯き加減の群青の瞳は黒髪で若干翳り、怜悧な顔に憂いを滲ませている。
彼――二十代半ばの歳若い国主ハイアンの苦悩を汲み取ったラスティは、癖のある黒髪の覆う後頭部を掻き、眉の根を寄せてハイアンの背後にある書棚を睨みつける。そして、物憂げな目をハイアンに戻してきっぱりと告げた。
「お断りします」
臣下の台詞とは思えぬにべもない応えに、ハイアンは落ち着いた様子で手を額に置き瞑目すると、重い溜め息を一つ吐いた。
「一応訊く。何故だ?」
「面倒です」
「……だろうな」
もう一度溜め息。
ハイアンは、紺色の簡素な官服を着た
ラスティは直立した体勢から、片足に体重を預けると、腰に佩いた剣に左肘を乗せた。鎧を上に着る黒の騎士服は簡素な造り。腰丈までのジャケットと長靴で丈の半分は隠れるスラックスは飾り気なく、シルエットがスラリと見える。詰襟の首元にある銀の台座に紅い石の嵌った襟章とカフスが唯一の洒落っ気のあるアイテム。鎧を着ていたほうが格好良い、というのが周囲の評価だ。
「それから一応言うと、まだ仕事が残っています」
「それは承知しているよ。弟の捜索を口実にサボれるかもしれないのに、それでも面倒だっていうんだな」
ハイアンは呆れたように頭を振った。
「四年近くやってきたことだというのに」
「だからだ」
ラスティの口調が崩れる。遠慮ない物言い。当人の許可があるとはいえ、気楽な体勢。それは全てこの二人が気心の置けない仲であることを物語る。なにせラスティは、二十一になるハイアンの弟――王弟ディレイスの幼少期からの友人だ。ハイアンとは、ディレイスを介した縁で親しくさせてもらっていた。
さて、話題にもなっている件の王弟ディレイスは、王子の時代から王城を脱走する常習犯だった。友人だったラスティはよくその脱走に付き合わされた。十六で騎士になってからは、それを追いかける立場になった。それだけに、ディレイスが何処に行っているのかおおよそ把握している。
だからハイアンは、弟の捜索をラスティに依頼しているわけだが。
元来から面倒臭がりのラスティはこれを拒否した。最近は城の誰もがディレイスの所業を諦めて、黙認しているところもあるのだ。それなのにあえて捜し出す理由はない。そのうち戻ってくるだろう、とラスティは思っている。
「ディルに客人がある」
気の抜けた態度から一変、ハイアンは机の上で手を組み、真剣な光を群青の瞳に宿らせた。
「予定になかったことだ。だから本人もいくらでも待つと仰ってくれているんだが、こちらとしてはその言葉に甘えるのは気が引ける相手でな。早めに捜し出して来てもらいたい」
「…………仕方ない」
ラスティは肩を竦め、やれやれ、とばかりに首を振る。溜め息も隠さない様子には、ハイアンもさすがに苦笑が漏れた。
「まったく。城を抜け出す王弟など、物語のなかで充分だ」
「違いないな」
愚痴をこぼし合ってようやく、ラスティは敬礼し踵を返した。
執務室を出ていくラスティを見送って、ハイアンは執務を再会した。そこに憂いはない。ラスティに任せておけば、程なく王弟は戻ってくることだろう。
若き国王ハイアン・ラウ・アリシエウスが治め、ラスティ・ユルグナーが騎士として仕えるアリシエウスは、一都市と二つの農村のみを森の中に抱える小国だ。政治機構が含まれる都市は、白亜の王城を中心とした円村集落の形態をとっている。城を囲むように貴族の家が立ち並び、その周囲に一般層の街が置かれている。街は城壁で囲まれており、出入りが可能なのは各方位四方に置かれた門のみ。その各門から王城に向けて真っ直ぐに大通りが敷かれていた。
制服を脱ぎ、シャツとズボンだけという簡単な私服に着替えたラスティが行く先は、一般市街である。北門へ続く大通りを街の様子を眺めながらゆったりと歩く。行方不明の王弟を忙しく捜し回る様子はない。普段から気怠げな表情は、今も弛緩している。一応帯剣はしているもののあまりに気楽な姿なものだから、仕事中というよりは遊び歩いているようにしか見えないだろう。焦りなど全く見られない。
それだけ平和だということだ。このアリシエウスは。
なにせ、王弟は伴を付けずに街を遊び歩くのを、城の者が黙認するくらいなのだから。
円の外周――灰色の石が積み重なった城壁がだいぶ近付き、存在感が増してきたところで、ラスティは大通りを右に曲がり、古い本屋の脇の日陰となった細い道を入った。奥へ奥へと入ってゆく。日中でも薄暗い場所、油断していたら誰かに襲われかねないその場所に、小さな酒場があった。木造りのこの街にふさわしい丸太小屋。ただし襤褸小屋にも見える。いかにも安酒場といった塩梅だ。貴族どころか一般市民さえ躊躇いそうな雰囲気の酒場だが、ラスティは気後れすることなく店の中へ入っていった。
薄い合板の扉の先は、春風爽やかな外と一転して酒気と熱気がこもっており、隣の人間の声が聞こえないほどに騒がしい。あちこちで立ち上る紫煙で空気は白く、ただでさえ暗い角灯が更に暗くなっていた。
焼けた肉の匂い、酒の臭い、煙草の臭い、汗の臭い――いろんな臭いが入り混じった空気にラスティは一瞬だけ顔を顰めたが、その後は慣れた様子で店の入り口に立ち、ゆっくりと中を見渡した。目的の脱走犯は見つからず、何度か視線を行ったり来たりさせていたのだが、親切に声を掛けてきた給仕がいたので、彼に所在を教えて貰う。
秩序なく並べられた六人掛けの円卓の間を通り抜け、奥へと入り込む。入口のある壁と対面となる壁際まで近寄ると、正面の円卓の一席から手が挙がった。服に袖なく剥き出しの肩は筋肉質で太く、肌は褐色。油のついた黒髪を項でまとめ、気さくな感じの顔に嵌まった真っ黒な瞳は生き生きと輝いている。
「よおラスティ、来たな」
「アレックス」
名を呼んで応じると、青年は笑った。
「なに飲む?」
「残念だが、今日はその暇はないんだ」
「あらら……急ぎなのね」
ただちに状況を把握したアレックスは、ニヤつきながら隣の席に目を向けた。そこには、この場所には到底似合わない、上物の若草色のチュニックを着た青年がいる。黒い髪。群青の瞳。ハイアンによく似た顔。ただ、あちらは怜悧な印象を持つのに対し、こちらは朗らか。軽薄ささえ漂うので、似ていても兄と間違うことはない。
これがアリシエウス国王の弟、ディレイス・ロウ・アリシエウス。ラスティが捜すその人だ。
彼は隣の席の人物と熱心に話しているようで、こちらに気付いた様子はない。はあ、と溜め息を吐いてラスティは額を手で押さえた。ラスティが困っているわけではないのだが、暢気な様が少し憎らしく思う。
「ディル、迎えが来たぞー」
「はあ?」
アレックスが肩を小突くと、ディレイスはそちらを振り向いた。それからアレックスの視線の先を追ってようやく
「なんだよー、早すぎじゃねぇ?」
溜め息混じりに言われ、ラスティは少しだけ苛立った。
「知るか。帰るぞ」
「えー、やだ」
良い歳して子どもっぽい反応にますます苛立ち、物言わずにテーブルを回ってディレイスに接近したあと、その首根っこを掴み上げて無理矢理立たせた。王弟である事実を忘れたような行動だが、長い付き合いの二人にはむしろこれが普通となってきている。
ただ、いつもよりラスティの沸点が低かったのには驚いたらしく、ディレイスは群青の眼を丸くさせた。
「なんだよ、ずいぶん強引だな」
チュニックを整えながらディレイスは口を尖らせるが、その口ぶりに咎める調子はまるでない。王族ではあるが、身分にはそう頓着しない
「客が来ているそうだ」
「……客?」
予定にないな、とディレイスは首を傾げる。
「突然来たらしいが、ハイアンが待たせるな、と」
「……女の人?」
「知らん。待たせるには気が引ける相手だと言っていたが」
「じゃあ、やっぱりあの人か」
心当たりがあるらしく、それなら仕方がない、と肩を竦めてディレイスは懐を
「帰るのか」
「ああ。急な仕事が入っちゃって」
アレックスに応じながらようやく財布を引き当てたディレイスの横で、大きく椅子を揺らす音が聞こえた。
「ええーっ! ホントに帰っちゃうんですか!?」
落ちない煤や焦げで黒ずんだテーブルに手をついて立ち上がったのは、年の頃十三、四の少年だ。色素が薄いのか髪は橙色の明かりをほとんどそのまま反射し、一方で大きな眼は赤々と強く輝いている。
「まだ話は途中なんですけど!」
声変わりの時期にしてはまだ高い声を張り上げて、ディレイスに詰め寄った。ディレイスは財布から紙幣を二枚引き出して近くを通った店員に渡したあと、申し訳なさそうに少年を拝む。
「悪いな、少年。話はまた今度」
じゃあな、とアレックスに手を振り、少年の追撃を許さないままに、ラスティを伴って足早に酒場を出た。
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アリシアの剣 森陰五十鈴 @morisuzu
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