青いひまわり
香枝ゆき
第1話
ふらふらになりながら、バスのステップを降りた。
ロータリーには高速バスやシャトルバスが停まっていて、私のような、訪問者がどやどやとチケット売り場、あるいは入り口へと向かっている。
大塚国際美術館。二回目に訪れた私は、あらかじめコンビニで発券した前売り券をポケットから出して、入り口へと向かった。
「偽物なんか見に行って、なにが面白いんだよ」
カーラジオが何を流していたかははっきりしない。
それくらい、長い距離を走っていた。
「有名絵画が千点以上、一気に見れるってすごくない?」
「レプリカだろ?あと、それ楽しいの陽だけだろ?」
私はいやに不機嫌で、運転手は鼻唄をうたうほどにご機嫌だった。
「夏輝、窓の外、海だよ海!」
本州から徳島へ向かう途上。私たちは明石海峡大橋を渡っていた。
助手席から、ふいっと窓をみやる。
確かに窓から海を見るというのは壮観だ。だが。
「こっちが海沿いで育ってること知ってるよな」
海を見ることは珍しくない。感想。ああ、海だ。
終わり。以上。
「あ、バレた?」
「バレバレだっての」
ナビは目的地まで距離があることを示している。
「遠いなあ、大塚国際美術館」
「車じゃないとしんどいもんねー」
「それに興味のない人間引っ張りこむお前は大概だけどな」
「ほら、旅は道連れ世は情け」
「陽にくれてやる情けはねえから!」
道中の車内が険悪にならなかったのは、ひとえに陽が、ムードメーカーだったからだと思う。
それに思ったよりもあっという間についてしまったから。
チケットを見せ、エスカレーターへと足を乗せる。
長い距離を一定の速度で。
九州国立博物館の動く歩道とも違う感覚だ。
まるで天にのぼっているような。
喪った何かに会えるような。
そんな錯覚を覚えてしまった。
「青いひまわり?青いバラじゃなくて?」
「うん。ゴッホの失われたひまわりの絵だよ」
「それがここにあるってわけ?」
「複製品がね」
エスカレーターを上りきると、広いエントランスにたどり着く。
まずはロッカーに荷物とコートを預け、身軽になった。
家族連れ、カップル、その他大勢。ざわざわとしていて、それなりに賑やかだ。
近所のショッピングモールを彷彿とさせる。
「結構イメージ、違うでしょ?」
今までこの美術館オタクに連れていかれたところは、歩けば靴音が響くくらい静かな場所だった。お上品で、フォーマル。
ここはほどよくカジュアルで親しみやすさがある。
「……ん、まあ」
敷居は私のような門外漢でも低かった。
ごまかすように視線をさまよわせると、いたるところにひまわりの造花が飾られている。
「冬なのに、ひまわり」
「ゴッホのひまわりの企画コーナーやってるからだと思うよ」
「ふーん」
季節はずれではあるけれど、ぱっと明るくなる花を見て、悪い気はしなかった。
館内は広く、空調で身体が暖まるという感じはしなかった。
私はダッフルコートを着て、館内を歩き回る。
館外展示もあるのだし、最初から着ていたほうがいい。
2月の風の冷たさは、コートを着ていても骨身にしみる。
カップルが上着を預けていたからなのか、ニット姿で寒そうにしている女性を片方が気にかけている。
そういえば、一人で歩いている人は、あまり見なかった。
「ごめん、もっかい言ってくれる?」
「スニーカーで来てるよねって」
「違うその前。ちなみに今日もスニーカーだけど」
日常履きも出かける際も動きやすい靴を選ぶ。服もパンツだから、美術館でなくとも動くことに支障はないが。
「地上2階、地下3階。1000点あまりの絵が4キロにわたって飾られてる」
途方もなさに、ゆっくりとスモークサーモンサンドイッチを咀嚼する。
これは想定外だ。
「言ってなかったっけ?」
「言ってなかったな、陽は」
ぱりぱりとレタスを食む音がした。
「……途中で別行動する?こっちは別にいいけど」
「あー、確かに再入館はできるけど、近くにコンビニもないからね。夏輝が歩いていくには厳しいんじゃないかな」
私は運転ができない。
スマホで検索をしても、陽の言葉を裏付けるものばかりだった。
「なんのガイドで行く?」
「ん?全部見るからガイド使わずに行くよ」
「全部を?一日で?」
「うん。不可能じゃないから」
不可能じゃない、イコールやればできるっていうのとはまた別だ。
「それを一緒にやると?」
例えばモチベーションが必要だとか、恵まれた環境が必要とか。
今回の場合は、美術館オタク青山陽介と、絵画に疎い向井夏輝の埋められない知識量と興味関心がネックとなっている。
一、二時間程度ならなんとかなるが、一日美術館は、途中で飽きてしまうかもしれない。
「大丈夫。絶対に楽しませる!」
根拠のない傲慢さ。それでいて自信にあふれている様子はなぜだか信頼できていた。
「絶対、なんて強い言葉、使わないほうがいいんじゃないかー?」
「俺が夏輝の期待を裏切ったこと、あった?」
なかった。
「のった」
私の返答に、陽はにっこりとした。
花が咲いたようだった。
カメラロールには、過去の記憶がこれでもかというほどしまい込まれている。
これから起きることを知らずに、私たちは笑っている。
システィーナ礼拝堂には、一時間の館内ガイドの希望者たちが集まってきていた。
私は一人、木製の冷たいベンチに座って、天井を見上げる。ときおり白く光るのは見学者たちがフラッシュをたいて撮影しているからだろう。
私はもう、撮らなくていい。
何も残さなくていい。
「なるほど、ここのキャプションは姓、名前で統一しているのか……
一瞬誰かと思った」
「もしもーし、置いてけぼりにしないでもらえるとありがたいんだけど」
「あ、ごめんごめん、これはミレイ、ジョン・エヴァレット、あー、違和感あるな、ジョン・エヴァレット・ミレイの《オフィーリア》っていう作品」
「誰が描いたって?」
「ミレイ」
「キャプションっていうのは?」
「絵の近くに書いてる説明書きって思ったもらったらいいよ。作者と制作年、使った画材とか、絵のサイズ、収蔵されてる美術館とかが書かれてる。今まで僕が見てきた中では、作者名は名前・姓の順に書かれてたからちょっと戸惑っちゃっただけ」
絵画は一面の緑だった。少女、あるいは若い女性が横たわっている。
「これ、どんな絵?」
「ある物語の一場面を描いてる。シェイクスピアが書いたハムレットっていう小説の中に出てくる登場人物、オフィーリアらしいんだけど、たぶんこっちの元ネタっていったほうが分かりやすいかな」
陽はスマホに一言打つと、画面を見せた。
【死ぬ時くらい好きにさせてよ】
往年の大女優を起用した全面広告。
目の前の絵と構図が同じだった。
「これか!」
「興味持ってくれた?」
「うん、かなり」
「どんどん行くよ?絵は宗教関係とか当時の政治状況とか、そのほかいろいろある元ネタを知ってたら何倍も楽しめるけど、絵のことを知っててもそれが元ネタだってわかったら楽しいことだってあるから」
「……この絵、見たことは?」
「ラファエロ前派展で一回ある」
「飽きない?」
「全然。むしろ、本物とここの陶板の違いを比べられて面白い」
「例えばどんなとこが違ってる?」
「一番わかりやすいのはゴッホかな。そこの前で説明するよ」
本物が来たら町だの列になりそうな、そんな第一級の名画たちを抜けて、私は目的のフロアへと足を向ける。
エレベータを使ったら迷ってしまうから、使わないほうがいいというアドバイスを忠実に守りながら。
いくつもの絵を通り過ぎる。
ゴッホ、フィンセント・ファン《タラスコンへの道を行く画家》
陽が足を止めたのは、有名な画家が描いたらしい絵の前だった。
「ごめん、これ、聞いたことない。ゴッホは聞いたことあるけど」
「うん、ゴッホは有名だけど、この絵はないもん」
「ん?」
「消失したって言われてる」
「……」
「ゴッホの筆致は、僕が思うに、独特のタッチと色遣いにある。原色をべっとりと使ってるんだけど、再現だとどうしてもそのタッチが消えがちだ。けれど、なくなるまえに、こうやって形にできれば、本物でなくても、今いる僕たちも見ることができる」
「形にして残すのか」
「うん。それに、ここでまた見ることで、前に絵を見たことを、思い出すでしょう?」
「忘れるくらい、陽は行き過ぎなんだよ」
「だって、好きだし」
「まあそんな陽だから、あたしも好きになったんだし」
暗がりでも、耳が赤くなっているのが分かる。
だって、好きだから、大事な人の好きなものくらい、私も一緒に好きになってみたかったし。
「そういうことをいきなり言うんだから、夏輝は、困る」
何も言わずに去ってしまうのだから、陽は困る。
目的の場所へ着いて、足の力が抜ける気がした。
踏ん張ったおかげで目の緊張が解けてしまった。
陽と一緒にみた絵が否応にも二人でいたころを思い出してしまうのだ。
「思ったより青くなかった」
「ヒマワリが青色だと思った?」
「うん」
「僕も。まさか背景が青色だったとは」
そうやって笑いあった日は、もう戻らない。
「これもなくなった?」
「みたいだね。戦争中の空襲で、燃えたって書いてある」
「そっか……」
ゴッホの青いひまわり。
ここの陶板名画は二千年は持つというが、人はそんなには生きられない。
現在の寿命でさえ八十年ほどだというのに。
「青いバラの花言葉って、かなわないってやつだったけ」
「うん。でも今は開発に成功したから、夢かなうになったみたいだよ」
「じゃあひまわりはなんだろ」
「とりあえず青いひまわりはないから適当に今考えちゃってもいいんじゃない?」
「じゃあ、夢にむかってがんばる、で」
「いいね、それ」
「陽は?」
「もう一度手をのばす、あきらめません、とか」
「……」
「あ、なんか暗いか、ごめんね!」
「いや、努力家らしくて、いいなって思って」
「ほら、人っていつ死ぬかわからないからね」
なぜ気づけなかったのだろう。
言えなかったことに。
別館にある骸骨の絵。
書き込まれているメメントモリ。
「死を忘れるな」
人は死ぬ。
いつか死ぬ。
それが六十年後なのか、三日後なのか、わからない。
人はいつか、いなくなる。
基本的には黙っていなくなる。
バスの時間が近い。
私は一人でバスに乗る。
思い出せたやりとりの数々に感謝しながら、橋を渡り、私は現実へと帰る。
青いひまわり 香枝ゆき @yukan-yuki
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