第7話 アフタースクール・プログレッシブ《柴藤綾乃》その4

5.


 今、わたし、柴藤綾乃の目の前に、一の印がある。

 

 真っ白い、深い朝霧を押し固めたような乳白色に、ふわりと湧き上がる様な桜色がまじった、美しい凍石。長方形の印面には、糸を引く様な、伸びやかな篆書体の朱文で

『凡書象其為人』

と六文字。


 ――まいったなあ。


 なんて、きれいな『印』だろう。思わずため息がでた。

 写真で瞬間を切り取ったかのような静謐と躍動感が共存する構成。硬質でありながら生命感を感じさせる刻線。朱を引き立てる美しい白の空白。

 しかも刻されているのが『凡書象其為人凡そ書はその為人を象る』。蘇東坡のこの句を話題にしたのは、お茶している時だったか、ピザか。それとも焼肉食べ放題の時だったか。

 彼はそれを覚えていたらしく、次の日の放課後この印を直接手渡された。一晩かかって彫り上げたらしく、わたしにこの印を渡すと、彼はそのまま閲覧室の机につっぷして眠ってしまった。

「久しぶりに長時間集中できた。いい気分転換になった」

なんて、言ってたけど。


 机の上に置いておいたそれを、指先で弄ぶ。ひんやりとした感触が伝わってきた。

 印の良しあしがわかるほど、篆刻の勉強はできてないけど、わたし、これ好きだ。

 この、彼の線、わたし、かなり好きかもしれない。


 篆刻。書に添える『印』を刻する書の一分野。


 印とは、石面に鏡文字(それは篆書体とは限らない)を刻み、押印して「書」を「作品」として完結あるいは補足する役割を担うもの。最も重要な印は作者当人が制作の終了と作品の完成を自ら示す為に押す『落成款識印らくせいかんしきいん』。これがすなわち落款印で、勿論ただそれだけなら、作者を示す西洋絵画で言うところの「サイン」に相当し、確かに書類に押すのと意味としては同じ「判子」だ。――だが、しかし。近代以降の書においてはここにどのような意匠を求めるかが甚だ重要とされる。作品がいかに良い出来でも落款一つで「がっかり」になる。逆に作品の意に沿い作者の個性を引き立てるものなら、作品それ自体の完成度を引きずりあげることすらある。『画龍点睛』の譬えの通り――描いた龍に最後に命を吹き込む「ひとみ」だ。


 芸道はいずれもそうだが、篆刻に求められる素養は極めて広範に渉る。

 もっとも一般的な「篆書体」は言うに及ばず、甲骨・木簡・石鼓文・隷書・楷書、摩崖・石碑・青銅器・漢印などに及ぶ文字関係の考古・歴史資料の知識。先人の作品に倣って摸刻を繰り返して身に着ける刻字のための伝統技法。書家が制作する作品を理解するための、中国や日本の書道史や、詩文に関する広範な見識。以上のような伝統と知識に基づく、バランス感覚や美的センス。それら己の内に蓄えたあらゆる要素を、彼ら「印人」は彼らの戦場であるわずか数センチ四方――「方寸」に、作品と書人への敬意や憧れとともに、惜しげなく注ぎ込む。これでもかと詰め込む。人の手よるからこそ生み出し得る文雅の宝石。詩・書・画とともに文人の嗜みとされた技芸。


 印面を見た時からワクワクしたけれど、彼が目の前で透けるような雪花箋に押して渡してくれた印影がもの凄くよかった。もらった印箋をわたしは家に帰ってすぐ、裏打ちして切り取り、小さな短冊様にして細長いビニールにいれ、臙脂のリボンつけて栞にした。今も『中也詩集』に挟んである。

 図書室での最後の彼の言葉で、わたしは彼が「篆刻」をやっていることに気付いていた。しかし、正直ここまでとは思わなかった。彼がどんな先生に師事しているかわからないけれど、半端な稽古でここまでになれるとは思えない。

「……」

 彼は、何に憧れ、何を目指し、どんな道をたどって……ここまで、歩いてきたのだろう。

 どんな出会いがあり、どんな苦境を乗り越え、どんな喜びを得てきたのだろう。

 それは、わたしの道と違うのだろうか。あるいは、似ているのだろうか。


 手首を返して、印の白い側面を見る。そこにあるのは創意あふれる印面とは対照的な、あまりにそっけなく、むしろ寒々とさえ見える、たった三文字の『側款(そっかん)』

「白里刻」――「白里、刻す」。 

 これが彼の印人としての『号』なのだろうか。だとすれば、なんと皮肉な、なんと厳しく、なんと孤独な名前だろう。

 無人の荒野。あるいは波に洗われる砂浜。ながいながい旅の、たった一人の、孤独な後ろ姿とずっと続く足跡が見えるような気がした。 


 彼を知ってから、彼に尋ねたい事は毎日増えるばかりだが、なかなか切り出せない。

 何となく、彼が纏っている雰囲気が詮索を拒んでいるようでもあったし、何かしら内に秘めて、ノートに向かってる彼を見ていると、急ぐことはないのではないかと思えてきたからだ。


 ゆっくりで、いい。ひとつづつ、段階的でいい。もう少し、このままでいい。


 そんなことを考えていて、ふと、彼の心地よい、「えんぴつ」の音が止まっているのに気づいた。

 顔を上げると、向かい側に腰かけて、いつもの『ノート』を広げていた彼が、なんだか眠そうにあくびをしている。

 ――なんだか、

 すると「あ」と彼が声をあげて、こっちを見た。なんだろう?

「……いま、『しんどそう』って。柴藤さん? 」

 彼が――やはり眠そうに言った。いやだ。言葉にでてしまったみだいだ。

「それ、関西の言葉だよね?」

 かなり共通語化されていると思うのだけど。まあ、関西由来では、あるかな。わたしのは諸般の事情で、多分、かなり「native」だけど。

 わたしは、少し困ったけれど、

「気になる? 先生の口癖で、京都の方だから。うつっちゃったみたいで」

と言い訳してみた。

「ぜんぜん。なんだか、やわらかい言葉だな、って思って。ほっとする」

 貶されると腹が立つけど、褒められると嬉しい。我ながら現金だなと思ったが。

 こほん。と一つ咳払いして、わたしは背筋を伸ばした。


『しんどいのやったら、少し寝はったらええんよ。帰る時には起こしますよって』

 おお、なんて。彼は 目をしばたたかせた。

「……おおきに、でいいの?」

『言いにくかったら、『ありがとう』で、かまへんのとちゃう?』

「僕が知ってる『ありがとう』と何か違う……」

 でも、それじゃ、ありがとう――と言って、彼はノートを閉じてごそごそと身じろぎをすると、机に突っ伏してうずくまった。


 なんだか本当に疲れているみたいで、少し心配になってみていると、袖口のあたりにあたって――『スクエア』というのだったか。黒檀のような質感の四角い黒縁の眼鏡が大きく彼の顔からずれる。――あ。……と思って。

 半ば反射だった。身を乗り出し、彼に覆いかぶさる様な姿勢で両手を伸ばすと、わたしは無遠慮にも彼の顔に手を伸ばして、彼の眼鏡を外した。

「ごめん。ありがと」と彼。すぐに寝息が聞こえる。――呆然と立ち尽くし、二拍ほどおいて、自分の「暴挙」に自分で驚く。何をやってるんだ。わたし! 

 思わず、自分の手の中の、彼の眼鏡を二度見した。ほんとに、何やってるの、わたし!

「…………」

 肩幅広いし、背が高いし。眼鏡もどこかきつい印象の角ばった重そうな眼鏡だしで、彼はずいぶん、大人びて見えた。でも、腕の上に乗せている表情は、安らいでいて、こう言ってはなんだけど、ふつうの男の子だった。

 眼鏡の「つる」を丁寧に畳み、わたしは文庫本と鞄を持って席を立つ。そして彼のとなりに座りなおした。

 なんとなく、正面に座って彼を見ているのが、照れくさい。見張ってるみたいなのも嫌だった。

 とはいえ、彼の隣に座ってみたところで。文庫本を開く気にもなれず。そして――目の前に。彼がいつも手元に置いている、灰色のノートがあるのに気づいた。

 彼が、いつも鉛筆で何かを書き込んでいる、『ノート』だ。

 

 ふいに、昨日。華恋ちゃんに連れられて行った喫茶店でのことが、思い出された。

 

◆◇◆


「最近、雨が多いですよねー」

「そうだな」

「天気予報だと週末も雨みたいですね。明日は曇りだけど、大気の状態が不安定なので、にわか雨に注意です!」

「傘持ってこないとなー」

「この前、ちょっといい折り畳み傘見かけて、衝動買いしちゃって」

「ん? 傘持ってこなかったから、人の傘に入れろとか言ってたじゃないか」

「あ、あれは、お気に入りの傘を濡らすのが嫌だったわけじゃなくて、先輩と一緒に一つの傘で帰りたかっただけですよ?」 

「せめて、本音と建て前の順序を入れ替えろ」

「ほんとですってば―(棒読み)」

「やかましい」


 放課後、学校の図書室。今日も天気は、雨。

 静かたるべき閲覧室に、ちょっとにぎやかな雰囲気が漂っているのは、目の前の彼女、一年生の猫屋敷華恋ちゃんのせいだといえる。学年こそ違うがライトノベルを通じて知り合った友人で、読むジャンルも重なってるので普段から仲良くしており、互いの家も行き来している「本トモ」の一人。ともかく明るく、人懐っこく。また心からラノベを愛していて、その感想を人と話すことを何よりの楽しみにしている。

 今も、表紙の黄ばんだ古くて字の細かい文庫のページをめくっている彼の隣で、色々話しかけながら、自らはライトノベルの文庫本を読んでいる。


「こっちも面白いですよー。先輩も今読んでるアーサー王のお話です」

「全身真っ黒の鎧騎士が決闘に割り込む話なら、読んでやってもいいぞー」

「ちがいます! って、それアニメの話じゃないんですか?」

「いや、アニメ化はされてないぞ――そのはずだ。アーサー王の話がアニメ化されたのはずいぶん前だし、僕も見たことがない。だからアニメにこのエピソードがあったかどうか流石にわからんけど」

「? いえ、私がいってるのは最近のぐりぐり動く、CGばりっばりのアニメなんですが」

「……そうなのか?」


 ……違う本を読み、たぶん違うアニメの話をしているのにさも共通の話題のように、なぜか会話が成立してる。


「それでそれで。アーサー王関連のラノベですけども、こっちはー、ええと、アーサー王が困った人で、マーリンが外道な人なんです」

「うーむ。やっぱりアーサー王とマーリンはどの話でもそんな感じにならざるをえんのか。『アーサー王とあった男』なんか、そりゃあもう――いや。あれはひどいなんてもんじゃなかったな。騎士道精神とか皆無で、変な人しか出てこなくて、唯一まともな人だったランスロット卿がひどい目に合うし。キャメロットに何が起こったのかと、子ども心に衝撃を受けた……」

「唯一まともなサー・ランスロット? ……でも、そうなんですか。他にもそんなお話が。じゃあ、これはこれで正統派なのかな? 困った人なのに天下とか獲れそうですけど」

「アーサー王とマーリンはちゃんとコンビさえ組めてさえいれば最強なんだよな。それとも、力で無理やり天下とったから反動で国が滅んだのだろうか……」

「ああ、そうそう! そうです! こっちも、そんな感じです。何一つまともな手段を講じてません。その場しのぎと謀略と力づくです……滅んだりしないといいな、国(しんみり)」

「アーサー王の治世はどこも荒れるなあ。名君だったはずなのに(しんみり)」

「せちがらいですねー」

「まったくだなー」


 だからなんで会話が成立するの?と思っていたら

「そーじゃなくて! もーちょっと、こっちにも興味を持ってください!」

と華恋ちゃんが席をたった。

 ……あ。肝心なところだけ伝わってなかったんだね。


「コレ面白いのに……たまにはつき合ってくれてもいいじゃないですか!」

「悪い。でも、僕は今日中にこれを読んでしまいたい――って、おいっ」

 それでも本から視線を上げなかった彼から、レオンが本を取り上げた。

「トマス・ブルフィンチの『中世騎士物語』の……完訳版かな? けっこうボリュームあるね」

「……邪魔すんなよ」

「借りてきなよ。どうせもう時間だよ?」

といって、レオンは苦笑と一緒に、彼に本を返した。

 ほんとうだ。もうこんな時間。わたしも手元の『詩集』を閉じる。

 図書室が終わったら、みんなでディアナさんのカフェにいこうと、約束している。


 ◇◇◇


 喫茶店について席に座っても華恋ちゃんの勢いはとまらない。

「最近のセンパイにはやさしさと寛容がたりないとおもいます!」

「持って回った言い方だな」

「具体的には私のおすすめのラノベを読んでください!」

「持って回ってていいぞ。また今度な」

「わかってます! それは絶対に訪れない『今度』ですよね!」

 断られているけど、華恋ちゃんは決してアタックを止めない。あきらめない。

 そして断られているのに、なんだか楽しそうだった。

「――それでそれで。そこが切なくて、またいいんですよ!」

「そっか、猫屋敷が好きそうな話だな」

「大好物です! でも切ないとかやさしいとかだけではなくて……」

 小説を読むのは断るけれど、彼はけして華恋ちゃんの話を遮ったりはしない。自分は自分で本を読みながら、彼女の話をちゃんと聞いている。迷惑そうにもせず、義理で聞いているわけでもなく。華恋ちゃんいわく、彼女が勧めたラノベのタイトルも、キャラクターも作者も、華恋ちゃんの感想すらも、一応覚えているらしい。

「――ったく。猫屋敷は本当に、楽しそうにラノベ読むよな」

「えへへ。先輩が一緒に読んでくれたら、もっと楽しいですよ!」

「それはまた、今度な」

「あーまたダメな方の『今度』です!」


 華恋ちゃんは常に彼にラノベを布教してやまず、その勢いは彼が全くラノベを読まないにも関わらず、距離感が縮まるにつれて増すばかりらしい。

 そして、そうであるにもかかわらず。

 彼が、頑固にラノベを読もうとしない理由は不明。……らしい。


「こんにちはー おじゃまするの♪」


 明るい声がした方へ顔を向けると、声の主はわたし柴藤綾乃と少し不思議な縁がある、ほんの少し遠い国から来た女の子だった。

「こんにちはノエルちゃん」

「こんちにはー、綾乃」

 華やかな明るい桜色の装いが今日も可憐なノエル・ミルフォード。本当は「王女殿下」とか呼ぶ必要があるのだけど、彼女自身のたっての希望で、友達呼びをさせてもらっている。

 彼女は他の人たちとも挨拶をかわして八人掛けのボックス席に入ってきた。


 彼女を席に入れるために、入口にいた彼が席を立ち、「顔を洗ってくるよ」とそのまま手洗いに立った。

 すると、妙に動物っぽい挙動で華蓮ちゃんが手招きをする。

「……ノエルちゃんが来て、先輩が席を立ったこの隙に、みんなに聞いてほしいことがあります!」

 彼女は口調を改めた。

「先輩はあの調子で、まったく私のおススメラノベを読んでくれません。先輩をラノベ道に引き込むアイディアはありませんか!」

「すっごく面白い本なら、読むと思うのだけど」

 んーなどと、ノエルちゃんが少し考え込む。

「そこが問題なんですよ!ノエルちゃん! だってそもそも一ページだって読んでくれないんですよっ どこが面白いとか思う以前のお話なんです!」

 ぶんぶんぶん。と拳をふって華恋ちゃんが力説する。

 ふむ。とみんなして少し考え込む……と。


「さっき、さ。彼が言ってたろ? 『アーサー王とあった男』って」


 それは、窓際の席で、アイスティーを飲んでいたレオンの発言だった。

 ああ、言ってた。そんな本あったかな? って思ったんだけど、内容を聞いているうちに思い出した。

「あれはマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』の児童書版のタイトルだよ」

 うん。確かにアレに出てくるサー・ランスロットはいい人だ。

「えっと、どんなお話なんですか? マーク・トウェインって、あれですよね。教科書に出てくるみたいな昔の作家さんですよね」

 そう言って、いかにも「恐々(こわごわ)」といった様子で問いかける華恋ちゃんに、レオンが答える。

「アメリカ文学史の中では近代を代表する作家だね。『トム・ソーヤの冒険』の作者だ」

「聞き覚えがあります。先輩の好きそうな名作文学系の人です……」

「むつかしい本なんですか?」等と若干、怯みながら華恋ちゃんはいうけれど。


『アレ』は名作とか文学とか、そんな生易しい……いや、読み手に優しい「小説」ではない。予備知識なしもでも十分面白いけど、児童書でもサトクリフでもいいから、一通りアーサー王について知った上で読むと、一気に「破壊力」が増す。出来合いの半端な「キャメロット」の印象なんて、一発でバラバラのコナゴナに粉砕してしまう「ダイナマイト」みたいな物語だ。

 どんな、ストーリーかというと……


「で、内容なんだけどね。おおざっぱに言うと、ジャンルで言えば『タイムトラベルによる歴史改変』あるいは『異世界転移物』。主人公は中世レベルの現地の人相手に『科学技術無双』をやって、死刑囚から王国の最高権力者へ『成り上がる』」


「は?」

 と、華恋ちゃんはしばらく呆然として。

「えええええっ!」

 ばん!と、テーブルを叩いて、席を立つ。危ないってば、ジュースがこぼれる。


「ラノベじゃないですか!ラノベじゃないですか! それがラノベじゃなかったら、何がラノベなんですか!」

 がーっと、息の続く限り怒鳴った後で、華恋ちゃんは、めまいでも起こしたみたいに「ふらっ」とよろめいた。そして「せ、先輩。私というものがありながら。……誰と、いつから――」とか不穏な事を口走りつつソファーにへたり込む。

 華恋ちゃん、また『新規開拓』中になんかディープな小説に当たったんじゃ?


 わたしは、慌てて華恋ちゃんに言った。

「華恋ちゃん落ち着いて。それが書かれたの、130年前だよ」

「へ? ひ、ひゃく、さんじゅう……ねん?」

 日本の元号で言うと、明治二十二年。時間旅行および歴史改変をテーマとするSFとしては最初期の作品といえる。けれど――最初にそう言えば華恋ちゃんだって混乱しないのに。このはどうして、いつもこんな言い方を。

 わたしは抗議の気持ちを込めてレオンをみる。が、レオンは鼻で笑って話を進める。まるで詰将棋。いつもそうだ。レオンと話していると、会話も印象もラノベの感想すら、何もかも彼女の手のひらの上で転がされているような気さえする。

「本当にね。マーク・トウェインってすごいなーと思うよ。ボクらの『面白い』を百年前に実現してるんだからね。ジャンヌ・ダルクの話も面白いし」

 こちらは、救国の乙女となったジャンヌを、幼馴染の視点で追っかける歴史小説だけど、とにかく戦場のジャンヌ・ダルクがリアリストで合理主義者。もちろん聖女っぽいところもあるけど、どちらかというと「信じているから、恐れない、揺るがない」という信念の巨人として表現されているし、大砲を効果的に使う戦術家として描かれている。

 信仰と幻想を打ち抜く作者の科学的視点が小気味よい。


 苦笑して、レオンはみんなの方に顔を向けた。

「ボクが言いたいのはね」

 膝の上で、細い指を組んだり解いたりをしながら、レオンは言葉をつなぐ。

「彼にはラノベを受け入れる下地がちゃあんとあるってことなんだよ。SFや冒険やミステリーやファンタジーもずっと楽しんできたからこそ、さっきの華恋との会話で、あんな受け答えができるんだと思う」

 つまり、とレオンは人差し指を立てて、周囲を見回した。

「一冊だ。ただの一冊。最高の一冊をたった一度読ませさえすれば、彼はラノベに『ハマる』んじゃないかな」

ごくり、と華恋ちゃんがつばを飲み込んだ。


「――面白くなってきたっスね」

 ことり、とテーブルにグラスを置く音に顔を上げると、黒と白のお仕着せ姿のディアナさんだった。

「この流れは、彼に最初の一冊を読ませるのは誰か!ってことっスね」

「ちょっとまってください!」と立ち直った華恋ちゃんが手を上げる。

「最初に先輩に読んでもらうラノベは私が紹介するんです!」

「そのわりに、成果は上がってないみたいっスねぇ?」

などと、ディアナさんは余裕を崩さず「にやり」と笑った。対する華恋ちゃんは ぐぬぬぬーと、悔しそうにディアナさんをにらんだ。


「今のお話を参考にできるなら、『異世界もの』は楽しく読んでもらえそうね!」

 喉が渇いていたのか、おいしそうにレモン水を飲みながら、ノエルちゃんがいう。彼女は異世界を舞台にしたファンタジーが大好きで、重力さえも振り切って駆け出す爽快な物語を愛している。

「ライトノベルが気に入らない――ってのなら、重たくて容赦のないハナシを好きになってくれるかもしれないスね。実際、私も『ライト』だから『軽い』と思われるのには、ちっと言いたいことが溜まってるっス」

 ディアナさんは、人の苦闘と苦悩を好む。生も死も超然と物語のエッセンスとして受け入れる。だからこそ、彼女の選ぶ『物語』は重くけっして消えない印象を人に残す。

「ボクはどうしようかな? 彼とはちょっとした『ゲーム』をしたいと思っていたんだ。どうすれば彼を今いるところから『引きずりだせるか』って、最近はそればかり考えていた。正直なところ、本音ではね」

 レオンは――彼女は勝負師で、戦術家で、駆け引きとはったりに長けた冒険家(

アヴァンチェリエ)だ。アクション、ミリタリー、アドベンチャー。活劇を語らせたら、頭一つ抜きんでていて、まず、間違いない一冊を選んでくる。


 なら――わたしは。

 視線を落とすと、膝の上の、革のブックカバーをかけた文庫本が目に入った。その真ん中あたり、臙脂のリボンををつけた栞が目に入る。


『凡書象其為人』――『おおよしょ為人ひととなりかたどる』

 応えろ。朱長文が

 柴藤綾乃。お前の書――お前の選ぶ『物語』は、お前の何を象っているのだ?

 

 わたしは――軽く息をすって、お腹に力を入れた。

「みんな。ひとつ提案というか、お願いがあるのだけど」

 一人ひとりの顔を見て、最後に向かい側真正面に座る親友の目を見て、告げた。

「わたしは、今、彼にラノベを勧めることに、反対です」


 柄じゃない。空気を読めば流れに乗って、参加表明すればいい。それが嫌なら、黙ればいい。それもできないのなら、適当に言葉を濁せばいい。

 わかってる。でも。だけど――だめだ。

 どれもえらべない。わたしの『物語』が象るわたし自身が、それを許さない。


「ずっとというわけじゃない。少しの間、彼に好きに本を読ませてあげてほしいの」


 疲労の滲む横顔。それでも何かをやらずにはいられない焦り。その原因も正体もしらないし、聞くつもりもない。ただそれは――あれ程の印を一晩かけて刻する様なことが「気分転換」になるような――『何か』だ。

 十分だ。それさえわかれば、いい。

 それが、何であるかだなんて、今のわたしにはどうでもいい。

 ただ、今は、彼が一人で静かに戦えるように、彼の静謐をこそ守りたい。


「少しの間だけでいいの――おねがいします」


「綾乃ちゃん……」と、幽かに震えるような声が聞こえた。

 華恋ちゃんが、傷を負った痛みに耐えるような表情かおでこっちをみていて、

「……」

少し胸が痛んだ。


「そうか……」

 窓を背にした逆光の中、真っ黒い影に自分自身を置いてレオンが言った。

「我らが円卓最強The First Knightは、竜の微睡まどろみを守ることを選んだわけだ」

 足を組み、その膝の上で組んだ指を躍らせながら、彼女が嗤う。

「が――聞けないね。ボクらは仮にもラノベ縛りの約束でビブリオバトルをやってきたんだ。キミ個人がどうしようと勝手だが、強制されるのは面白くない。これは明確な『裏切り』だよ」

 レオンが、わたしを追い詰めにかかる。――しらじらしい。

「《円卓》を割る気かい? 綾乃?」

 このの魂胆なんて分かり切ってる。誰よりも状況を楽しむ気だ!

「わたしは、彼に自分のペースで本を読んでほしい、と思うだけだよ」

 まったく、こんなの柄じゃない。でも、引けない時は引けない。

 今がその時だと、わかっている。


「なるほど――では話は簡単だね」

 レオンは、テーブルの上にペンシルホルダーに入った鉛筆をおいた。

「ボクらはバトラーだ。ならば決着の方法は一つだけだろう?」

 ペンシルホルダーはレオンの私物。鈍く黄金色に輝く真鍮製の「それ」は希少な限定モデルだと聞いた。そして、日本のメーカーではあまり見ない、鮮やかな青色に塗られた軸色の硬度2Bの製図用鉛筆は――レオンが、自分の鉛筆と交換で手に入れた、彼の鉛筆。

 さすがに眉を顰めざるをえない。

「本気?『景品付き』は邪道だよ」

「これはただのトロフィーだよ。でもまあ、副賞ってわけじゃないけどさ。一番強い人間の言うことが、誰にとっても納得できるだろうことは――七王国ログレス以来の真理だと思うけどね?」

 彼女はそういって、ペンシルホルダーに収められた鉛筆を差し出した。

 ――これが、手袋替わりか。貴女らしいよ。レオン。

「週末の図書館。午後一時三〇分から第二小会議室――で、どうかな?」

 わたしは、頷いて、彼女が差し出す『剣』を受け取った。

 

◆◇◆


 雨は降り続いている。重たい灰色の空。週末には、天気は回復するらしい。

「……」

 閉館時間までには、もう少しある。


 安らいだ顔で寝息を立てていた彼が、身じろぎする。

 喉の奥から響くような、呼吸音がしたが、彼は寝苦しそうに肩を動かしただけだった。

 やがて、落ち着いたのか。再び静かな寝息を立て始める。


「なんでもないよ? なんも気にせんでええよ?」

 せめて、今だけでも。

「心配せんでええよ。ゆっくりおやすみ」

 キミのことは、わたしが守るから。


 わたしは再び、窓へと視線をやった。

 灰色の空。蛍光灯を跳ね返す窓。映った自分自身に、わたしは問う。

 『おおよしょ為人ひととなりかたどる』

 答えろ。柴藤綾乃。お前の選ぶ『物語』は、お前の何を象っているのか?


 答えなんてない。自問で解ける問いかけなら何年も独りで抱えたりはしない。


 知的書評合戦――ビブリオバトル。


 命がかかっているわけでもない。名誉が汚されたわけでもない。

 成績にかかわるテストではなく、内申書に関係があるわけでもない。

 好きな本を持ってきて、どこが好きだか話すだけの事。

 

 それがビブリオバトルだ。たかだか「ゲーム」ではないか。


 そうとも。それだけのこと。―― だが。

 たとえ、たったそれだけの事であったとしても。

 自分にとって一番を持ち寄り、集められた「一番」の中でも、自分の一冊こそが「一番」であると決めるための『真剣勝負』


 怖気るな。柴藤綾乃。止まるな振り返るな。

 自らのあり方を悔いる瞬間は過ぎ去り、あるいはまだ訪れてはいない。

 ならば、今は立ち止まるのではなく、踏み出す時。

 戦支度をはじめよう――吊り橋を上げろ!篝火を燃やせ!『武器庫』を開くのだ。

 最強の王とその騎士たちを迎え撃つ。《戦士》としてこれ以上の誉れがあろうか。

 今こそ、無毀の聖剣アロンダイトを引き抜いて、いちばん強い自分を呼び起こせ!

 たとえ世界を敵に回そうと、守るものがあるのなら、わたしは戦える。


 ――だが、心せよ。

 ――敗れたならば、わが身はおろか守るべきものにも、禍は及ぶのだと。



 これは――ゲームではあっても、遊びではない。


 



《柴藤綾乃》その5へ つづく。

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