第5話 アフタースクール・プログレッシブ《柴藤綾乃》その2


3.

 わたしが代読した『彼』の言葉はかつての神学校大講堂に響き渡る。


 ゲームのチュートリアル。彼自身がそういうように、そこにあるのは散文的な説明でしかない。なのに何故、こうまで何か魔術や呪いのように響くのか――

 やはり、『彼』の言葉には、力がある。

 一言語るたび、一節つむぐたび、全能感すら湧き上がってくるようだ。

 その証拠に。

 こうして、一番低い場所にいるにもかかわらず、なんだか、一番上から見下ろしているような気がする。

 重要文化財の元神学校の講堂とは、舞台が出来すぎている。マホガニーの演台に手をついてこうして話していると、なんだ体を持ち上げられるような高揚があった。

 こんなわたしを見る人の視線はさまざまだ。

 戸惑うもの、意図を問うように見返すもの、そして、おもしろそうに、目を輝かせるもの。

 人として許される限りの、ありとあらゆる反応が、そこにあった。


 唐突に気が付いた。ああ、これが彼、茅場晶彦の視点なのか、と。


 《世界SAO》の創造主。同時に惜しげもなくその世界を崩壊させた破壊者。

 天才にして、狂人。有識者であり破綻者。物理学者であり利己的な大量殺人者。

 始まりにして、終わりの男。


『ソードアートオンライン』の物語においては、技術的にも思想的にもすべての世界ゲーム事件イベントが茅場晶彦を起点として起こり、基幹となる物語では最終的に彼の出現によって終結する。

  

 この物語は『彼』を無視することも忘れることも、殺すことすらもできない。

 彼は「いつもそこにありつづける」のだと、あらゆる人間に覚知されるもの。

 死すら超越して「変わらずあり続けているのでは」と、示唆せらるる存在。


 それは、もはや、《神》ではないか。

 

 この壮大な物語は、遠くない未来に現実となるであろう「VR」――「仮想現実空間」を「ゲーム」ではなく、一個の『世界』と捉える。その可能性は、すでに「アリシゼーション」で示されている。

 であるならば。

 この物語の作者は、この茅場晶彦という存在を用いて人類に先立ち、デジタル技術の結晶として生み出された完璧な仮想空間に『神』が生まれる瞬間を、シュミレートしようとしているのではないか? 


 そんなことすら、夢想してしまうのだ。


 ソードアート・オンラインは、そんな無慈悲で、享楽的な神が生み出した、偽りの楽園の物語。

 肉体の軛(くびき)から解放された『彼ら』は、そんな本物以上に魅力的なウソの世界で、遊び、迷い、争い、そして恋をする。


 雄大で、壮大で、ち密で、緩やかで、ご都合主義で、齟齬もあれば矛盾もある。だからこそ、きっとみんなが笑顔のラストシーンがやってくる。そんな痛みや悲しみの向こうに笑顔を信じられる物語。


 そんなこの小説が、わたしは――大っ嫌いだ。


 ◇◆◆


 いつの頃からかはわからないけれど、自覚だけはあった。


 どうもわたしは、物語の登場人物に感情移入しすぎるクセが、あるらしい。

 絵本でも、漫画でも、児童書でも、小説でも、アニメでも。いわゆる『泣ける話』に当たると、もういけない。わんわん泣いてしまう。ネロとパトラッシュがルーベンスの絵の前で力尽きた時には(周囲がひくくらいに)大泣きした。

 もちろん泣くばっかりではなくて、ペリーヌが池のほとりの小屋で独り暮らしを始めた時はわくわくしたし、ラムダスがセーラの屋根裏部屋を宮殿のように変えてしまう時はうれしくて小躍りした。コゼットが自分の背丈をよりも大きなほうきを持っていた時には胸がぎゅっとなり、テナルディエの宿屋からちゃんと脱出できるかどうか、ドキドキしながら見守った。(もちろん彼女はとても大きな手をしたやさしいおじさんに無事、救い出された)


 そして、その『弱点』は、ラノベを読むようになった今も引き継がれている。……引き継がれて、しまった。

 泣くばかりでは、ない。

 ヒロインが悲しくなれば悲しいし、主人公が怒れば腹を立て不機嫌になる。二人がすれ違えばハラハラし、距離が近づけばドキドキする。

 ラノベつながりの「本トモ」たちは「感受性豊か」なんて綺麗にまとめてくれるけれど、実際は「感情移入多め」とでもいうべき、ちょっとはずかしいクセである。

 とはいえ、つらい話は読むのもつらいので、畢竟(ひっきょう)読むのはもっぱら、日常に近い「学園物」。もちろんこれこそ『泣き』がウリの物語の宝庫だったりするのだけど、そして実際、大泣きしてしまうけれども、まあ、後日トラウマになるような「大けが」だけは、しないで済んでいる。


 そんなわたしが心から好きなのに、できるだけ遠ざかる様にしている物語が、この『ソードアート・オンライン』だった。


 普段の読書の傾向というか守備範囲からは圏外になるこの本と、わたしとの出会いと、現在おかれている状況は、少々複雑だ。それでも、できるだけ簡単にいうと、ラノベを通じて知り合い、なんだかんだあって親友と呼べる友達が『絶対に読んで!一緒に話したい!』と薦めてくれた一冊であり、そして――ちょっと言いにくいが、うちの父が年甲斐もなくドはまりしていで……しかも。

 写真家という職業柄か、家族のひいき目にみても若々しくて格好いい、あの父が、わたしが持っていた第一巻を見ていきなり興奮しだして「実はずっと内緒でファンだった!」とカミングアウトしたのち

「私は、ネットでコレを初めて見た時から絶対ヒットするとおもっていたんだ!」

自慢げに語りはじめた、実にめんどくさいオールド・ファンだからだ。


 親子して、一つのラノベで盛り上がれるのが、いいんだか悪いんだか。


 ただ、まあ。新刊やムックや特集記事が載っている掲載誌やアニメのブルーレイが発売日当日にダイニングのテーブルの上に予約特典各種と一緒に置いてあるあたり、世間様より恵まれているかもしれない。

 もう最近じゃレオンは自分で買うより先に、うちに寄ってく様になってしまった。

 あまつさえ、父の帰りをまって家族と一緒に夕ご飯を食べ、食後にコーヒー飲みながら小説やアニメの感想を語りあったりしている。

 うちの父親と。


 お母さんまで、新刊の発売日にはレオンが来るのが前提で献立決める様になって。

 ご飯の後は(わたしの父と)アニメみたりサントラをステレオで流しながら小説を読んだりして夜遅くまで話し込んで、ついでのようにわたしの部屋に泊まっていく。

 ……

 順番とか優先順位とかが、明らかに違っているような気がしてならない。

 と、いうか。

 夜更かししてアニメ見ている二人に「明日も仕事とか学校があるんだから、寝なさい」とか、わたしがいうのって、おかしい……おかしいよね? 間違ってるよね!

「お義父さん、綾乃さんをボクに下さい!」

「ありがとう皐月君。君なら任せられる。娘を……綾乃を頼む!」

 ええい。アニメ第二期の二十三話にインスパイアされたんだかなんだかしらないが、本人の前で、くだらない小芝居するな!

「何度見ても泣けるなあ」

「いいですよねえ。『マザーズ・ロザリオ』」

「よし。この感動が薄れる前に劇場版を見よう」

 だから! いい加減に、寝なさいっっていってるでしょ!

「綾乃。お父さんとキミは、わかりあわなければいけないんだ」

「そうだな。ぶつかり合わねばわからないこともある、か」

 今! 現在進行形で、今ぶつかってるから! むっちゃ本気で、ちょうど今! 

 あとこれ以上今の二人をわかりたくもないから! けっこうお腹いっぱいだから!


 ――いけない。話が逸れた。


 ともかく、いささか読む本によって心理状態を揺さぶられる傾向が強い私は、そういう自覚もあって、物凄く泣ける話や物凄く苦しい話、人がバタバタ死んでいくようなバイオレンスだったり、サバイバルだったり、サスペンスだったりという話を避けていたわけで。

 そんな、弱くて、臆病で弱虫で泣き虫なわたしが、であるにもかかわらず、出会ってしまったのだ。

 ゲーム内の死が現実の死と直結する《デスゲーム》。死や暴力とは無縁に暮らしていたはずの、自分と年齢がさほど違わない少年少女たちが、否応なしに命を懸けた闘争をしいられるこの無慈悲な物語と。


 それはもうしんどかった。特に第一巻。アインクラッド編と、その次の短編集が納められた第二巻。

 レオンが「これはかなりね」と事前に注意してくれたこともあり、万全の態勢で読んだ。

 部屋に閉じこもって、ブラインド下ろしてヘッドホンつけて(泣いちゃった後用に)タオルと氷嚢アイスノン用意して、読んだ。

 わたしにしてはよく頑張ったと思う。『朝霧の少女』のラストは辛うじて耐えた。でも、結局最後の最後、『赤鼻のトナカイ』で大泣きしてしまった。あれはずるい。あれはひどい。次の日が土曜日でよかった。本当によかった。

 後に見たアニメでは、時系列にそって並べなおされているけれど、『トナカイ』は、個人的にはやっぱり『黒の剣士』や『ココロの温度』とともに、アインクラッドからの解放後に、『回顧録』的に読むべきお話だと思う。特に『サチ』のエピソードは、キリトがずっと心に秘めて誰にも話さなかった記憶だから。(『朝霧の少女』は『フェアリイダンス』に直結するので別にして)


 キリトという主人公が強くやさしくなるために、必要なエピソードであると頭のどこかで理解しながらも、わたしはこのエピソードをどうしても許容できなかった。

 彼は自分を責めているけど、そんなこと誰に想像できるだろう。彼になんの落ち度があるというのだろう。


 そして、こうも思った。


 、アスナが側にいてくれたら、キリトはきっと、こんな思いをせずにすんだのに。

 きっと誰よりも彼に親身に寄り添って、彼の心を後悔の暗闇から救い上げたろう。わたしが信じている二人ならかなず乗り越えたろうに――と。


 うまくいかないもんだなあ。などと、残念に思った。

 

 そう。この時のわたしは、心の底からそう思い、二人の不運を嘆いた。


 なんにしろ、アニメーション第一期も見ておらず、そして本日わたしがビブリオバトルで紹介する一冊、『ソードアートオンライン プログレッシブ』の存在も、まったく知らなかった頃の話だ。


 だって、誰が思うだろう。外伝的なこの、新シリーズで。

 いまさら、「キリトとアスナは、第一層のボス退治のときから一緒でした♪」

なんてことを後から言われることになるなんて。


 だって、こんなのおかしい!

 二人がアインクラッドでどんな出会い方をしたか、たしかに第一巻では語られてなかった。だからどんな出会い方をしたかについて、後から説明があるのはいい。

 しかし、それにしても!

『プログレッシブ』のストーリーがあったのに、『トナカイ』の時はまったく無縁になっている理由がわからない。


 四六時中、一緒にいろなんていわない! でも『月夜の黒猫団』に加わりたくなるくらいに、キリトが孤独になっている時に、アスナはどこで何をしているのか? キリトが一つ間違えれば死んでしまうような、苛烈なレベル上げを己に課して、欠片ほどの可能性にのぞみを託して、聖夜を迎えて、彼がそうまで苦しんでいる時に、仮にも「パートナー」であったはずの彼女はどこでなにをしているのか?

 パートナーでなくなったら無関係なのか? ただのプレイヤー同士に戻るのか? コンビを解消したから彼がどうしていても気にしなくていいのか? 誰も信じられず頼ることすらできなかったアスナの手を引いて、アインクラッドで生きる残るすべを、闘うすべを教えたのはキリトではないか。

 男と女なんだから好きになれ愛情を抱けといっているのではない。

 共に死線を乗り越え、悩みを共有していたはずなのに、そんなことまるでなかったかのように、無縁になっているのが、あんまり不自然だ。

 あんまり寂しいではないか。

 二人に何があったというのだろう。いっぱい喧嘩はしていたけれど、道をたがえるような、根本的な意見の相違はなかったはずなのに。

 その事を、特にアスナはどう思っていたのだろうか?

 わたしには、アスナが、コンビ解消後は、キリトの様子も伺わず、何も相談せず、連絡もせず、放置したままで、どんな目にあっているかも、何に悩んでいるかも知りもせず、知ろうともせず、忘れ果てているように見える。


 むしろ。と想像してしまった。

 アスナがキリトから離れたからこそ、キリトはあんな風に『月夜の黒猫団』へ自らを偽って、参加することになったのではないか、と。


 プログレッシブで描かれるのは『キリトとアスナが仲たがいして、別々の道へすすむ結末』そして『対立したままのその後』なのではないか?

 第二十五層での、キリトと因縁深いキバオウ支配下の『アインクラッド解放隊』潰滅。そしてヒースクリフ率いる『Kob』の台頭とアスナの副団長就任は、『プログレッシブ』のクライマックスで語るにたる大事件だ。

 ならば、第一巻『アインクラッド』――SAO事件最後の三週間へと向かう前日譚たる外伝プログレッシブとは、決して離れてはいけない二人が、別離を選ぶまでの物語なのではないか?

『月夜の黒猫団』との出会いと別れは、二十七層。SAO最強のソロプレイヤー・キリトを生み出す契機になったターニングポイントだ。では『出会い』そのものの切っ掛けはなんだったのか? アスナとの別れではないのか?

 このまま一〇〇層にだって駆け上がっていけそうな二人の関係は、いずれ破綻してしまって、たったひとりになったキリトは『赤鼻のトナカイ』のエピソードにたどり着いてしまって、それをアインクラッドのどこかにいるアスナは、キリトがどうなろうと関係ないとばかりに、想像すらしていない。……こんなことが、あっていいのだろうか?


 そんな想像をしてしまったら、もう、続きが読めなくなってしまった。


 ちゃんと頭のどこかでは、理屈では、納得できる。仲間意識も恋愛感情も過程を経て……それこそ『段階的プログレッシブに』育まれるものだ。キリトとアスナが互いを掛け替えのないパートナーとして自覚するのは、第一巻の事件があるからこそ。

 それまでの二人が、仲間意識はあるけれど只の他人であることはストーリーとして間違っていない。キリトがアスナに助けを求めないことも、アスナがキリトを無視しているのも、別におかしくない。

 これは、二人が互いを本当に想い会う前の、前日譚なのだ。


 だけど、でも、だけど……それでも「何故だ」と思ってしまう。わたしにとってはこの二人はいつもコンビで、仲間で……唯一無二のパートナーであってほしい。

 全部全部ぜんぶ。わたしの、ただのわがままだと自覚している。でも、納得できない物は納得できない。


 何故作者はプログレッシブでアスナとキリトの出会いを描いたのだろう。何故二人は、第一層で出会ってしまったのだろう? 何故二人はそのあと離れずに冒険をつづけるのだろう? なぜ手を取り合って、苦難を乗り越えて、互いに対する信頼関係を深めていくのだろう?

 こんなことなら、いっそ50層くらいで初めて出会った……くらいの方がまだマシだった。第一層のボス戦で、孤独に立ち去ったキリトにアスナが寄り添い、その後も仲良く楽しそうに冒険しながら信頼関係を深めていっているのが、かえって腹が立った。悲しかった。いっそ読まなければ、よかった。

 このアスナは、キリトを見捨てるアスナだ。


 プログレッシブの第一巻を読んだ後の自分の気持ちを、わたしは、いまだにまともに言語化できない。

 次の日に部屋から出られないくらいに両眼を腫らした涙は、片付け先をなくして未だに宙ぶらりんのままだ。


「これはもう別の世界のアインクラッドだ。VRパラレルワールドだ」


 そう思って、本を閉じ、まとめて本棚の位置を変えて片付けて。

 わたしは彼らの物語と、距離を置くことに決めて。

 結局、新刊を購入だけはするものの、開くことができずに。

『SAOP』は、まっさらのままただ無為に並んでいくことになった。


4.

『ちょっぴりロマンチストで明るく朗らかな女の子。青春学園ものが好きで感情移入しやすく、登場人物を手に汗握って応援してしまう。あるきっかけでライトノベルを読むようになったが話し相手がおらず、一緒にラノベを語れる相手を探している』

 

 学校帰りのオープンカフェ。互いに手元に一冊の本をおいて。

 どこまでもマイペースに、そしてこちらに欠片の遠慮もしない我が友、皐月レオンは、を、そのように表現した。


 ……誰の事だろう? と思う。うじうじと悩んでばかりの、どっかの『エセ文学少女』とは、きっと別人だろう。


◆◆◆


 わたしが、『SAOP』を封印して、少したったある日の放課後。『プログレッシブ・ショック』というほかないショック状態から、まだ立ち直っていなかった頃。

 仮想現実ならぬ、ライトノベル関連の悩みとは別に。

「現実」のわたしは、別の悩みも抱えることになる。


 書道の先生に提出していた作品が夏休み前に、半年ぶりに返却されて手元に戻ってきたのだ。まあ、それだけなら、どうということもないのだけど。

 先生に預かっていただいていた間に、裏打ちどころか物凄く高そうな表装の上に額装までされたその『一枚』は、自分も知らないところで展示され何故か全国規模の展覧会で望外の賞をいただいてしまい……そのことを「ぽろっ」と、知り合いの書店員さんに――て、つむぎさんのことだけれど――漏らしてしまったばかりに、なんと課題図書の文庫コーナーの上に、つむぎさんのポップといっしょに展示されることになってしまったのだ。

 となりで聞いていたレオンとか華恋ちゃんとか、ノエルちゃんとかの悪ノリもあったのだけど。

「……大変なことに、なっちゃったなあ」

 未熟、若輩とはいえ、わたしだって一人の書人だ。自分が自分自身と向き合って作り出した作品を、人に見られることに、いまさら怖気たりはしない。


 それが本当に力の限りを尽くして書き上げた、得心の一枚でありさえすれば。


 ため息とともに、手元の文庫本に視線を落とす。


 この夏休みの課題図書として選んだ『中原中也詩集』。うっかり目に入ってジャケ買いした自分の本は自分の部屋の本棚にあって、これはお母さんが学生時代に読んでいた、古い詩集だけど。

 ちょっと色が変わっていて、色鉛筆で書き込みや、線も引いてある、思い出の一冊だそうで、

「ほんとなら人様には見せられないんだけど……ほら。傍線入りの詩集なんて、はずかしいじゃない? 当時の自分の心の中、見られているみたいで」

 もう、やだ。こんなのお父さんにも見せたことないのに。なんて、乙女のように恥じらう彼女に無理をいって借りたものだが、いわば、これがすべての始まりで。


 読みグセがついて、栞なしで開かれるようになっていたページ。『羊の歌』の、あのあまりに有名な詩が目に飛び込んできて、わたしは衝動的に次に提出する作品の題材にこれを選んでしまったのだ。

 そのこと自体に、後悔なんて全くないけれど。それはそれとして。


 実のところ。その書作品は提出期限の間際までばたばたともがいて、どうしても納得がいかないまま、下書きも含めた30枚ほどの中から選んで、落款印を押して提出したという、なんとも間に合わせ感漂う出来上がりだったのだ。

 もちろん偶然良い出来だったなんてことはなく、納得とは程遠い。そんな出来のわたしの文字が、展示されている。

 課題図書の展示と絡んだ名作文学の文庫を中心としたフェアは、二週間前に始まり、八月いっぱい続く。

 つまり、一か月半もの間、わたしのあの書が、まるっと生活圏内に存在し、かつ一番立ち寄る本屋さんの一番目立つところに掛けられ続ける……ということになるのだ。

 話を聞いて浮かれて写真を撮りに行き、自慢げに待ち受け画面に設定したうえで、職場やスタッフの人や取引先に自慢しまくるんだ、などと口走った父とかなり本気の喧嘩をしたのは、記憶に新しい。

 

「ああ、もう」


――消えてしまいたい。


そう思って、わたしは図書館の大きな机に身を投げ出して、目を閉じた。





《柴藤綾乃 その3》へつづく

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