第3話 釜石・防災センター
気仙沼から釜石までは、JR大船渡線で盛まで行き、三陸鉄道南リアス線に乗り換え吉浜まで、路線バスで釜石駅前まで行った。吉浜~釜石間は未だに不通なのである。
駅前にはAさんが由美子を出迎えてくれていた。Aさんは遠野市に住んでいて、娘さんをこの釜石鵜住居地区に嫁がし、娘さんは防災センターに避難して亡くなっている。
車で釜石市街を廻って貰った。釜石では死者・行方不明者合わせて千人程の犠牲者を出している。釜石市は気仙沼と同様漁業も盛んであるが、違うところは新日鐵住金釜石製鐵所があり製造業がもう一つの産業としてあることである。
最盛期の人口は9万人を超えたこともあったが、製鉄所の高炉の休止に伴い人口が減り、その上に今回の災害で、現在は最盛期の半分以下の約4万人程ということである。単に震災による人口減というだけでなく、地方の難しい問題を抱えているのだ。
瓦礫は綺麗に片付けられており、営業を再開している店もあるが、歩道や空き地には雑草が生え、閑散としている。使用されない建物と人通りの少ない閑散とした風景は今回の津波だけが原因とは思われない。津波の被害を受けた建物の撤去跡に新たな建物が再建されるとは限らない。一言で復興というが生易しいものでないと思われた。
規模の復活でない、従前にない新しい発想がいるのではないかと思ったが、「さてどんな発想かは私には無理。賢い人に考えて貰うしかない」由美子は苦笑した。
鵜住居地区は国道45号線沿いに東にあり、JR山田線(釜石~宮古)で釜石から二つ目の駅にあり、ホタテの養殖で有名な大槌湾に面する。山田線は復旧のめどが今もついていない。赤字線でJR当局は廃線にして高速バスにするか態度を明にしていない。山田線が廃線になると、南北三陸鉄道リアス線は分断されることになるので残して欲しいとAさんは語った。
鵜住居町は釜石市で最大の被害かあった地区である。釜石市の犠牲者の半数以上がこの地区であり。この地区の犠牲者の半数近くが防災センターの犠牲者であるのだ。
「鵜住居」という地名の由来を聞いた。鵜住居川があり、以前は河口には干潟があって鳥の生息地で実際鵜も住んでいて、長良川の鵜はここから出たものであるとAさんは説明してくれた。鵜住居駅前に立ったがどこが駅で、どこが駅前かもわからないほどで、夏草の匂いがした。
鵜住居地区防災センターは、鉄筋コンクリート2階建て、海岸線から1.2キロ、標高4.3メートルに立つ。瓦礫が片付けられた跡にポツンと姿を見せていた。ここに2000人以上の住民が避難し、津波にのまれそのほとんどが亡くなった。海に近く、津波の避難場所ではなく、水が引いた後に被災者が身を寄せる避難生活を送るための施設であった。なぜ、そこに多数の人が向かったのか?
ここで度々津波の避難訓練が行われてきた。災害が起きた同年3月3日の避難訓練には早朝にもかかわらず100人が参加。500メートル離れた高台の会場の参加者を上回るまでになっていたのである。津波が襲ってきたのはその8日後である。住民が津波の避難場所と勘違いしていたことは明らかである。2011年3月11日。釜石市鵜住居町には奇跡と悲劇が隣り合った。海沿いの小中学校は周到な防災教育が実を結び、一人の犠牲者も出さず「釜石の奇跡」と称賛された。
多数の犠牲者を出した本件について、調査委員会は中間報告で、事態を回避することは可能であり、行政の適切な対応で、生命を救う機会は多くあったとし、住民の生命を守るのは行政の責任であることからすると、市の行政責任は重いと指摘した。
「どうして2階建てだったのですか」と、由美子は前から聞きたかった質問をAさんにぶっつけた。Aさんはこのように話した。
「センター建設は、老朽化した市の出張所や公民館を1カ所にまとめて建て替えて、消防出張所を併設する計画で始まったのです。建設の財源は市債の発行に頼らざるを得ず、防災施設建設の名目なら市債の割合を高められ、国の補助金も期待され、防災の役割は後付けだったのです。結局、国の補助は受けられず、予算上の制約もあり、3階建て以上とすることや屋上への避難階段の設置は検討されなかったのです」。
せめて、訓練の後で、津波が来た時はここではないと念を押していてくれていたらとAさんは涙した。「防災センター」と言う名前が多数の人を犠牲にしたと由美子は思った。
夜は遠野市のAさん宅で泊めて貰った。今年還暦を迎えるというご主人と二人住まいで、農業を営んでいる。「遠くからご苦労さんです。疲れられたでしょう。ゆっくりしてください」と夫妻は遠路を労ってくれた。
遠野市は河童や座敷童子などが登場する「遠野民話」で知られる柳田國男の遠野物語で余りにも有名である。人口3万の静かな町である。この遠野市が被災のとき、後方支援自治体として重要な働きをしたのである。
市長は神戸震災の時ボランティア活動に従事していて、近隣自治体の支援の重要さを痛感していた。市長に当選して市の防災計画を立てるときに、同時に隣接自治体が被災したときにどう支援するかをあらかじめ計画に入れさせていたのである。だから、迅速に対応出来、ボランティアを受け入れたり、物資の補給と、後方支援の基地となったのである。これはAさんの主人の話である。
翌日、夫妻とともにセンターに設えてある祭壇に花を持ってお参りに行った。手を合わす夫妻に由美子はその無念を思った。その後市内で開かれた会合に出席した。
「会場は保存賛成の人の方が多いようですが、反対の人も見えています。反対と言っても何が何でも、というわけではないのです。また賛成と言っている人でも反対の人の心情は理解出来るので複雑なのです」と、Aさんは会場を見渡して、由美子に説明してくれた。
由美子は大勢の人前で話した経験はない。大きく深呼吸して、ゆっくりと自分の体験を話出した。グループで来られた時に一度話しているので、整理出来て話せたと思った。広島の例だけでなく、気仙沼で見てきた共徳丸にも触れ、時間をかけて、急がないことを力説した。
「維持費や、費用の問題だけで考えないでください。これが、ここがあるから、後々助かる命があるならと考えて下さい。広島の原爆ドームはその被災で死んで行った少女の後を思う日記の1ページから始まっています。今、見るのが辛くっても、時間とともに人の気持ちは変わるものです。忘れようとしても忘れられないものです。後に悔いを残さないで下さい。長い時間の中で位置づけて考えて欲しいと思います」と語った。自らの体験で語られているので、静かに頷く人が多かった。
その翌日、市長も出席しての市と遺族連絡会との会合があるのでそれに同席させて貰えることになった。
やはり遺族はこの中に避難して亡くなった縁者を思い、無念でやるせないのだろう。それは、また「早く撤去せよ」「保存すべき」の二つ感情になって表される。見たところ撤去の方が多数を占め、市もそれに乗りたいようであった。
Aさんは普段の穏やかな立ち振る舞い、表情と打って変わって論鋒は、鋭く厳しかった。
「見たくない意見が多い?市長が一番見たくないんじゃないのですか!犠牲者?違いますよ。市に殺されたのですよ」
「言い過ぎだ!」との意見が出た。
「500メートルも離れていない学校の生徒たちは全員助かっているんですよ。この建物がなかったら、避難訓練がなかったら、防災センターなんて名前がなかったら、せめて3階建てで屋上に繋がる階段があったらと思わないんですか。天災ではないのですよ、人災です。私は行政の責任だと思います。単なる遺構保存を言ってるのではないのです。そのことを肝に銘ずるために残すのです。私だって楽しくってお参りに来てるわけではないのですよ。見れば毎日辛いですよ。遺族の感情より、死んでいった者の無念や、後への願いを思ってやって下さい。亡くなった者の帰ってくる場所はここにしかないのですよ。市長なんとか答えなさいよ」
すすり泣く者もあり、Aさんの激しい言葉に野次もあり、会場は混乱し、市はとりあえず延期を言って席を立った。会場を後にしてAさんは車の中で、「駄目です。冷静に話そうと思うのですが、話し出すと止まらないんですよ。言葉が勝手に出て来るんです」と言って、ハンカチを目頭にあてた。
出来れば、保存が検討されている宮古の田老地区の観光ホテルに寄りたかったのだが、70にならんとする由美子には、体力も費用も限界であった。帰りは夫妻に遠野の駅まで送って貰い、釜石線で新花巻駅まで出て新幹線であった。
2泊3日の慌ただしい旅であったが、こんなことでもなければ、来れることもなかっただろうと、夫妻に持たせて貰った土産の包に目をやった。そして目をつぶると、あの共徳丸の姿が浮かび、耳にはAさんの会場での話が聞こえて来た。由美子は「お役に立ったのかしら…」と自問した。
了
災害遺構 北風 嵐 @masaru2355
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