いややわー、こういうの。てレビューも書いた――『あし』
何年か前に、WOWOWでたまたまやっていた『ばしゃ馬さんとビッグマウス』という映画を見た。
なんの気なしに見始めたのに、結局最後まで見てしまった。面白かった、などというものではない。おそろしかったのである。
何が怖いと言って、題名が指すところの「ばしゃ馬さん」、麻生久美子演じる脚本家志望の独身女性が、大筋で、結婚してなかったバージョンの自分の姿にしか見えなかったことだ。
ばしゃ馬さんは、脚本家になりたいという夢に振り回されている。それでも実は、多分ムリくさいな、と自分で気が付いている。実際、劇中ばしゃ馬さんは絶叫する。自分に才能がないことくらい知っている、でも夢なんだもの、夢を持つのはいいことだと言われてきたけど、夢の諦め方は誰も教えてくれなかった、と。細かい言い回しを確認したい反面とにかくおそろしいのでもう二度と見たくないからしないけど、そういう意味の科白だったことは間違いない。
いまわたしは自分の家庭を持って、楽しいおばちゃんとして充分しあわせに暮らしていて、このうえ楽しいおばちゃん以外の何にならなくてもいいというか、さらにこれ以上何かを望んだりするのは実に欲深い行為、すでに十億貯金があるのにあとまだ十八億欲しい、と願うようなことであると思うのだけども、なぜか物心ついたときからずっと粥文業者になりたいわと思いながら生きてきたため、うーん、まああかんな、と諦めてはいるものの、その望みはなかなか抹消できずにいるのである。こんなところに文章を公開しているあたり、御覧の通りでしょう。オマエまだそんなことを、と自分で思う。子育てやなんかで忙しかった間は願望もしばらく眠っていて、そのまま永眠するかと思ったのだが、物に憑かれたように書いた小説(『山田のはなし』といいます)(amazonで売ってます)(買って下さい)が新人賞の一次選考に通ってしまったことで、決定的にこじらせてしまったのがいけなかった。
だからこそ、あかんやろなあと思いつつ、でもいろんなことを諦め切れていないひとや、逆に現実に折り合いを付け、それはそれとして粛々と生きるひとが出てくる小説やなんかにあたってしまうと、そらもう激しく心を揺さぶられてしまい、疲労することはなはだしいのだった。近年では上の『ばしゃ馬さん~』と伏見憲明の「爪を噛む女」(『団地の女学生』収録)、そして阿瀬みちさんの『あし』が、わたしの「手ぇ出したらめっちゃしんどかったやん作品群」の三傑に挙げられよう。(阿瀬さんは、わたしのエッセイを前々からフォローしてくださっているありがたい御贔屓筋であるので、敬称有りで書く。)
ご本人に了解を取ってもいないし、同じ投稿サイトの中でネタばらしのようなことになるのもなんなので、著者ご本人が作品に付けられた手短な説明、
「三十二歳漫画家志望だった男が女装をする話です」
だけをたよりに、読書感想文と言いながら詳しい筋は追わないようにするが、まあ前回から早くも「感想文」ではなく「読書エッセイ」に成り下がって看板の趣旨を逸脱しているから今回もそのつもりで読んでいただきたいのである。
物語は主人公が夢を降りた地点からのスタートを見せる。
自身の夢への足掛かりとすべく勤めてきた漫画家のアシスタントをやめたばかりの主人公は出来心で女装を始める。これが当たってしまう。SNS上で。
出来心でやりだしたことながら、どうやらそれに関してすぐれたセンスを持っていたらしい主人公は、それによって収入まで得るに至る。
主人公は自分がやりたいことと、自分ができることとの乖隔に煩悶するわけだが、こういう気持は程度の差こそあれ、多くの人が一生のうちに何らかの形で経験するものなのではないだろうか。
だから終盤で爆発する
「俺かって、俺かて漫画で成功したかったわ。有名雑誌に連載して、自分の絵で、ストーリーで、認められたかった。でも無理やった。俺より書ける若い人間がなんぼでもいてる。体もそんな強ない。腰かってもう、無理やった、限界やった。俺がもっと絵が上手かったら、発想力があったら、体力があって、体が強かったら。そんなん毎日思ってるわ、女装なんかただの現実逃避じゃ。悪いかボケ」
という主人公の苛立ちは、容易に読む者の共感を引き起こし、鋭く下っ腹に食い込むのである。
個人的なことだが、主人公が自分と同じ関西弁で喋る人物だというところも、共感を煽った。文章表面の問題はひとまずおいて、その根底にある人間の感情そのものをよく見なくてはいけない、味わわなければいけないというのが正しい小説の読み方だとするならば、そういう感情移入のし方は安直で間違っているのかもしれないが、どうにもこうにもわたしは女性の台詞に「だわ」とか「わよ」とかいう語尾があるだけでウソくせー。なーんかウソくせー(Ⓒ『珍遊記』by漫☆画太郎先生)と読む気がそがれてしまうのである。男性の「~なのさ」というのも然り、そんなヤツおらんやろ、となってしまい、無性に「まいっちゃったよたまんないね」とアホの坂田師匠の口真似をしたくなる。
ただ、考えてみれば自分は生まれてこのかた関西語圏に住んでおり、「だわ」「なのさ」の人々と同じく広島弁話者も名古屋弁話者も身の周りにはいないのであるが、「じゃけのう」とか「だがね」とかにはそうしたアレルギー反応は出ないわけで、なぜ「だわ」「なのさ」だけが駄目なのかと自分でもまだよくわからない。あと、翻訳小説であれば「わよ」も「だぜ」も全く気にならない。上手く説明できないが、そっちのほうは、「それ以外に言いようがなかったんやろ」くらいに思って読み流せる。このことついてはまた別の機会に考えたい。
ずいぶん前のことだがテレビで、矢野顕子さんがスタジオにいる観客からなされた、
「矢野さんのように、自分の好きなことで生きていくにはどうすればいいですか」
という質問に答えているのを見た。
アッコちゃんがどんなふうに答えたのか、残念ながらちゃんと覚えていないのだが、ひとつだけ、
「わたしも夫も、これ(音楽)以外のことでお金を得たことがないの」
という言葉が、お金を得る、というアッコちゃんのキャラクターにはそぐわない感じのする、剥き出しの表現の強さと相俟って、非常に、非常に印象的だった。これしかできないの、けどこれが、たまたま仕事になってるの、ということを言外にだったか直截にだったか、言っていた。この「たまたま」、というところを、ポイントを上げて太字で書きたい。たまたま。そういえば柄本明も以前新聞のインタビューで、役者というのは潜在的失業者で、自分は運がよかったから食べられている、と言い、
「まあ、いまのところだけど」
と最後に付け加えていたのが思い出される。
たまたま、したいこととできることと稼げることが全て一致していた幸運。そして、その「したい」「できる」「稼げる」という要素のうちの三つ目、「稼げる」ということの脆弱さ。
わたしは、あの質問した人ってどうしたはるんかな、と(これまた)たまたま見たテレビ番組のワンシーンを、何の脈絡もなくときどき思い出すことがある。
夏休み、読書感想文千本ノック 灘乙子 @nadaotoko
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