夏休み、読書感想文千本ノック

灘乙子

わたしおかあさんだから――『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』

 この十年間に子どもを三人授かった。

 子どもを産んで一番良かったことは何ですか、と聞かれたことがあるが、そのときわたしは、

「親の気持が分かるようになった」

 と答えた。

 もちろん、子どもがいるいないに関わらず、想像力を発揮し、常に慮り、親御さんのことを深く理解するように日ごろから務め、そこに到達する人もいるだろう。

 ただ、わたしはそれまで本当に親の心子知らずというヤツで、親の心配や気苦労に全く無頓着だったのである。


 そしてひとたび自分が親になってしまうと、いかなる事象も一旦は「親の視点」というもので見るようになってしまった。もう、自分より下の世代は全員「子」の気分である。若いボクサーがリングの上で血まみれになっていたりすると、

「ああっ、お母さん、もう見てられへんわ」

 となるし、アイドルなんかを見ていても、

「あの子、もう二十五になるのにこんな仕事しか来けえへんなんて……」

 と勝手に心配になったりする。

 また、親になって幼子たちと接していると、自分が彼らの年頃だった日のことを如実に思い出すのである。折り紙が上手く折れへん! と顔を真っ赤にして不貞腐れている娘を見ては、あー、わたしは折り紙のカドが合えへんときは「この紙不良品や。切り方がナナメになってんねや」って決めつけてたなー、とか、そういうことが毎日ある。もういっぺん、七歳をおさらいしているみたいだと思う。

 そのように、親になったり子どもにかえったりわたしは大層忙しい。



 先だって、『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を読んだ。読書開始十頁目からもう涙が止まらなくなる本だった。


 本書はのちに帝国陸軍大将となる、会津藩のお侍の子であった柴五郎が、陸軍士官学校に入るまでの幼少年期を回想した草稿を、柴と縁のあった編著者がリライトしたものである。元々公表を目的としたものではなく、先祖の、ひいては自分の霊を慰めるため柴家の菩提寺に収めるべく書かれたものだったが、このように世に出され、今日我々が読むことが出来るというのは天の采配といえよう。


 父・柴佐多蔵はつねに裃の着用を許された二百八十石取りの上級武士で、つまり柴五郎という人はええとこの若さんだった。そのまま何事もなく成長すれば上の兄たちと同じく、京都や江戸の藩邸詰めになるなり、会津国内での役目に就くなりして標準的なお武家さんの道を生き、やがてはみづからも一家をなして会津で安泰に暮らせたのかもしれないが、数え十歳のとき戊辰戦争で会津若松城は落城、母、祖母、姉妹たちは帰らぬ人となり、その後は不毛の下北半島へ移封され、父、兄嫁とともに筆舌に尽くし難い飢餓生活を送るのである。

 平和だった会津での暮らしが描かれるのは分量で言うとたった五頁程度のものである。その五頁では、やわらかい光に包まれた会津の春夏秋冬と、折り目正しい柴家で幼い日を過ごす五郎の姿が目に見えるようで、それだけに、そのあと語られる世の中の不穏、鶴ヶ城の落城、悲惨な流転の生活との較差があまりにも大きく激しく、会津藩の人々が被った理不尽な処遇に憤りを覚える。


 しかしながら、お侍の家というのはじつに、さすがに、誇り高いのである。その後ろには厳格に律せられた毎日がある。ごく始めのところで、「(柴家は)兄弟姉妹はなはだ多く(中略)大家族なれど、躾きびしく家内騒がしきことなかりき」などと書かれているあたりから、三人しかいない子ども共ども毎日ぎゃーすか喚き倒している我が家の有様と引き比べて、はやくも同じ人間とは思われない。


 ある日五郎のわがままに腹を立てた姉が逆に母に叱られ、晴着を返すよう言い渡される。晴着を前に手を付いて母に謝っている姉の姿を思い出すにつけ、

「余が悪きにかかわらず、知らぬ顔して謝罪せざりしこと、幼きころとはいえはずかしきことなり。」

 恥ずかしい、という悔悟の仕方がいかにもお侍である。


 いよいよ官軍が迫ってきて、各家の女たちは去るもよし、男たちと共に籠城するもよしとされるも、柴家の女性は八十一歳の祖母から七歳の妹までが、徒らに兵糧を消費してはならじと全員自宅で自刃する。その前に、母は、白虎隊に編入されていながら熱病で伏せっていたすぐ上の兄を無理やり支度させ、

「柴家の男子なるぞ、父はすでに城中にあり、急ぎ父のもとに参じて、家の名を辱しむるなかれ」

 と大声で叱咤するのだ。


 自分がほんとにこの人たちの末を継ぐ同じ日本人なのかとびっくりするやら情けないやら、わが身を省みて呆然とするのであるが、数え七つのときに孝経四書の素読を習いに行くようになったけど、さっぱり意味不明でおもんなかった、ただ先生から鯉の仔をもらってうれしかったことしか覚えてない、という回想があったり、「毛のなき頭」がどうしても恐ろしく、坊さんはもちろん老人のたんなる禿げ頭さえ怖がるので母がいたく心配し、家に医者、僧侶、按摩の類の来る日にはあらかじめ他所へ預けられたとか書いてあるのを読むと、ああ、やっぱり子どもは子どもだし、お母さんはお母さんなのだなあ、自分とおんなじだと安心して、深く胸を打たれるのである。


 だからこそ、鶴ヶ城が落ちる前々日、松茸狩りを口実に、五郎を郊外の別荘に住む大叔母のところへ逃がした、

「学校もすでに閉鎖せられ、男子すべて城中にあり、叔母様とともに行け」

 という母の言葉の裏にある万感が、そして、これが今生の別れとは露知らず、

「城下騒然として、幼きもの集まり手遊び興ずることなく、父兄すでに城中に入りて戻らず、邸内に笑声を聞かざること久しければ、幼心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出で」てしまった子の慙愧が、手に取るように理解できてしまい、そらあ複雑な事情はあったか知らんけれども、幸せな母と子をこんな目にあわせた西郷隆盛ってのはまことに極悪非道な下司野郎だ、変態仮面のくせに、とお母さんの気持になったり子どもの気持になったり、わたしは憤懣やるかたないのである。


 そういえば二十年近く前に、兄が福島県へ旅行に行ったとき、どこから来たかと問われて京都と答えたら、京都の人にはお礼を言ってもらいたい、幕末に京都の治安が守られたのは会津人のおかげである、という意味のことを言われたらしい。正確な意味での京都人では全くない兄がさらにそれにどう応じたのかは聞かなかったが、会津の人はいまだに根に持っている。そら持つやろ。持たいでか。

 中公新書、石光真人編著。

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