泥棒にも三分の理 ――『塀の中の懲りない面々』
昔は高速道路、たとえば中国道なんかを走って都会からだんだん離れてゆき、フェンスのすぐ向こうに広がる田畑の中に立派な瓦屋根の家が建っているこじんまりした集落が目につきだすと、
「このような緑したたりまくるカンキョーで、いったい学校や日々の買い物はどうしたはるんかしら」
と思ったものだが、自分が二十六の年には「コウソクドーロ……中華料理ですか?」みたいなもっとヤバい田舎に嫁入りしたわけで、こんなところに住むのだったら即刻「山田耕作」に改名せねばなるまい、もちろんケータイの着信音は「赤とんぼ」だ、などと半笑いになりつつ、過去に抱いたその疑問の答えは誰に尋ねるまでもなく勝手に得られてしまったのだった。学校:遠いです。買い物:遠いです。以上。
しかしながら、学校の方はさておき買い物に関しては、日用品と動物性蛋白質さえまとめ買いなりしておけば、野菜と米は家でとれるのでどうにでもなるのである。まじめに畑の世話をしようという働き手が家中に一人でもいれば、まず食べられないということはないのだった。それに、ときどき世間で話題になる「野菜の高騰」などというのともほぼ無縁である。当然、じぶんちで作ってないものは食べられないけど、ちょっとでも作っている野菜ならば、例えばレタスなんかが不作だ高値だと騒がれていて、たしかにいつものようにはとれへんねー、ということがあったとしても、「いつものようにはとれへん」だけで、規格外、重量不足・虫食い・部分傷み等々の出荷には不具合だがじぶんちで食べるんやったら別にええわ、というのが必ずある。収入はもちろん減り、もちろんその面では大変なのだが、三度三度口に入るモノは、なくはないのだ。生産元はかくも強い。
生産元の強さというのがこれでもかと発揮されたのが先の大戦のときである。都会の人は空襲で家を焼かれ、日々の糧は手に入らず、まことに往生極まったというが、農村は最後まで飢えなかった。しかも自分たちの食べ料を除いてもなお、一張羅をたずさえてはるばる買い出しに訪れる都心部の住人たちに、売る物があったのである。戦中戦後を知る人たちは言う。「あの頃は農家には良い時代だった」。
安部譲二の『塀の中の懲りない面々』には、じつにさまざまな「懲役太郎」たちの姿が描かれる。
筆者が収監されていた府中刑務所は短期刑の再犯者専門、犯罪のベテランばかりを集めた「懲役大学」である。社会という海の底からヘドロと一緒に引き揚げたような懲役太郎たち、彼らはテレビ俳優なんかにはとうてい真似できない「本物の悪党」だったと、著者は再三繰り返すのであるが、どんな場所でもやっぱり面白いこと、胸を打たれることというのはあるらしく、本当は刑務所のことなんぞ思い出したくもない、と言いながらも著者はほんのちょっぴり懐かしそうなのである。
仮釈放欲しさに何でもお上にチクってしまう密告屋の爺さん、それを流石の機転で黙らせた若い衆、左足の水虫を断じて治療しようとしない寡黙な「竿師」、ダッカで事件を起こした仲間のおかげで超法規出獄を果たした日本赤軍の戦士、地方出の大学生を引っ掛けては仕込み、その郷里の親を脅迫する男色家の「上州河童」その他、登場する懲りない面々はみんな強烈な個性を見せつけてくる。そして合間合間にちらりと顔を出す看守たち。それを書きとめる安部譲二の筆は、驚くべきことにどこまでも上品で、温かいのだった。
序盤で出てくる大泥棒の忠さんは、いなせで陽気で義理堅い、本業は腕のいい指物師である。もうじき出所ということになった初老の忠さんに、筆者は「鳩」の役目、つまり塀の外への伝言を頼む。普通懲役というのは悪者同士、どんなに親しくなろうともめったなことでは内緒事など打ち明けない、まして「鳩」を頼んだりなど決してしないのが常識なのだが、筆者は仲良くなった忠さんの人品を見込み、また忠さんはそれに応えるべく自分の過去を語って聞かせて、二人は固い握手を交わすのである。
忠さんは言う。おれが仕事をするのは盗っていいところだけだ。
戦争から帰ってきたら東京は焼け野原で、生き残った人たちは家具どころではなく、忠さんに注文をくれるのはヤミで儲けた怪しい新興成金、戦友たちを皆殺しにした進駐軍、そして、留守を守っていた忠さんの家族をはじめ、
「飢えた東京の人の足もとを見て滅茶苦茶な値段で食べ物を売った近郊の百姓」
ばかりだったのである。
忠さんは腹立ち半分仕返し半分、昼に品物を納めに行ったとき下見をしておいて、夜中犯行に及んでいたのだ。
こないだ、茄子の畑を手伝いに帰ったとき、義母共々野菜の安さをぼやいていた。水茄子なんて漬物になって、阪神とか高島屋とかの地下での末端価格は一個七百円とか八百円とかになるのに、まあ当たり前だけれども出荷の時点ではそこまでの値段じゃあないし、ましてやフツーの茄子なんか推して知るべしである。
ほんとに、こんなに汗かいてブヨに食われて日に焼けて世話してやっと取ってんのに、たったそれっぱかしかよ! と業腹なることおびただしいのであるが、やっぱり非常時となればきっとウチらは強いのであって、それこそ忠さんが憎んだ「近郊の百姓」のように、はい、茄子ね。一個四万。みたいなことを言おうと思えば言えんこともないのだろう。ただ、ごっつい恨みを買うことだけは間違いない。だからそういう阿漕な真似はやめといたほうが身のためなのだ。しかし果たして、平時であっても本当はウチの茄子、一個二千円とか言いたい自分が、困った時はお互い様の精神で、正規の価格で販売するのが人の倫だと、無限に欲どしいエゴを抑えつけられるのか、うーん、ちょっと自信がありませんね。忠さんにドロボーに入られると思う。ほたら、ドーベルマンとか飼おかしら。いっやー。ようしつけきらんと、噛み殺されるやろなあ。どのみち、欲かいていいことはなさそうである。文藝春秋刊。
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