アフリカの子どもたち

山南こはる

第1話

「アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しなさい」


 それが飯野いいの先生の口癖だった。そう言われてしまえば、大人しい私は彼女に言われた通り、我慢するしかなくなる。

 子どものころから物静かで引っ込み思案だった。だから当然、親しい友達なんてできるわけがないし、軽くいじめに遭ったことも少なくない。あの当時は軽いいじめだと信じていたものが、普通にそれなりのいじめだったということを、大人になってから気づいた。

 上履きを隠された。体操服を隠された。座ろうとした時に椅子を引かれた。トイレに入っている時、上から水を掛けられた。

 そういう細々したことを打ち明けるのに、私の両親は厳しすぎたし、同時に関心がなさ過ぎた。私の両親にとって関心の中心といえば、二つ下の妹、ただ一人だ。私と違ってできのいい、よそでいじめられたりしない、かわいい妹だけ。

 だから私は先生に助けを求める。そしてどの先生も、私を助けてくれることはなかった。保健室の先生だけは優しかったが、それでも私を、直接その手で地獄から救い出してくれたわけではない。

 私はずっと期待していたのだ。大人の誰かが、子どもの私よりも大きな手で、その地獄から救い出してくれるということを。




 飯野先生はあの当時で四十代の半ばか、もう少しいっているくらいだったと思う。私が小学校三年生の時の担任だった。

 旦那はいるが、子供はいない。アフリカの貧困問題に心を打たれていた様で、道徳の授業の時に、よくその話をしていた。

 ちょっぴり多感な女の子なんかは、アフリカの子どもたちの過酷な現実に心を打たれて泣いていたりしていたが、私はそんなかわいい女の子たちとは違った。教室の片隅で、どこまでも冷めた目で、先生の話を聞いていたと思う。

 先生の目から見て、当然、私はかわいくない子どもだったに違いない。そして同級生からも、それは同じ。何を考えているのかよく分からない、ちっともかわいげのない私は、いじめられて当然。今ならそれが、理解できる。

 だがあの時はそれが分からなかったし、その地獄から、誰かが救い出してくれる日を、懸命に待ちわびていた。

 飯野先生は優しい。アフリカの困っている子どもたちに、たくさんのお金を送っている。そんな子ども想いの飯野先生なのだから、きっと私のことも助けてくれる。そう思っていた。

 私はある日、思い切って先生に打ち明けた。体操服を隠されたこと。それがゴミ箱に投げ入れられていたこと。そして、とても悲しい思いをしたこと。

 私は泣いていたと思う。思う、というのは正直、記憶がないのだ。私の話を聞いている時の先生の表情はどこか胡乱気うろんげで、彼女は相づち一つ打たずに、話を聞き流していた。

 私がひとしきり話し終え、顔が涙でぐしゃぐしゃになった後、先生はポツリと一言、

「話はそれだけ?」

 と言った。てっきり慰めの言葉が返ってくると思っていた私は、驚いて顔を上げた。

「……え?」

「だから、話はそれだけ?」

 私は絶望を味わった。

 飯野先生なら、優しい飯野先生ならきっと、私のことを分かってくれるんじゃないか。私をこの地獄から救い出してくれるんじゃないか。そう信じていた。

 信じていたのに。

「あなたね。自分が世界で一番かわいそうっていう顔しているけどね。それは違うわよ。

 あなたは綺麗な水が飲めるし、親御さんだっているし、ちゃんと学校にも来られているじゃない。あなたが当たり前にやっていることを、できない子どもたちが、アフリカには大勢いるのよ」

 違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。私が分かって欲しいことは、私が掛けて欲しい声は、そんなんじゃない。

 私の心の叫び声は届かなかった。先生は椅子の向きを変え、採点中の答案用紙の世界へと埋没していく。

「アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しなさい」

 その一言を最後に、私は誰かを頼るのを止めた。



 それまで気にした事はなかったが、飯野先生はその言葉が好きだった。

 給食を残した子がいれば、“アフリカの子どもたちは……”と始まり、宿題をサボれば、“あなたたちは学校に来られるのに……”となり、水道の水を出しっぱなしにすれば、“アフリカには清潔な水が……”と来る。

 大人になった今なら、彼女の気持ちも分かる。私たちは、自分たちが恵まれているということに、何一つ気づいていなかった。あまりに恵まれ過ぎていたから。あまりに無知だったから、私たちは何一つ、自分の恵まれている点には気づかずに、得られていない何かの方へ、注視していた。

 けれども、こうも思うのだ。私はアフリカの子どもじゃない。日本の子どもだ。いじめで苦しんでいた、たった九歳の、ちっぽけな子どもだった。アフリカの子どもたちの方が、飢えや干ばつでもっとひどく、苦しんでいたのかも知れない。

 それでも、それと私が苦しんでいないということは、イコールではないのだ。

 アフリカの子どもたちは苦しいのだろう。けれども、それと私が苦しんでいるかいないかはまるっきり別問題で、私は確かにあの時、地獄にいた。そして誰も助けてはくれなかったし、どうやって這い上がっていいかも分からなかった。

 周りの子どもたちと同様に、私も無知な子どもの一人でしかなかった。それでも私は、自分が苦しいのだということは自覚していた。

 だから私は、飯野先生に助けを求めた。彼女はそれに気づかなかった。そして私に強要した。アフリカの子どもたちを見習え、と。

 きっと先生も求めていたのだろう。無愛想だった私に、支援してくれる国に感謝している、あのアフリカの子どもたちのキラキラした笑顔と、前向きな姿勢を。

 私はアフリカの子どもじゃない。何でアフリカの子どもたちより、目の前で辛い思いをしている子どもを、助けてくれないんだろう?




 私が関与していなかったから知らなかっただけなのか。でも、少なくともあの教室の中で、いじめを受けていたのは多分、私だけだった。

 その後、保健室と教室を行き来して、小学生時代を過ごした。五年生の頃には飯野先生も担任を外れた。いじめはまだ続いていたものの、私も反撃するという事を覚え、いくぶんか、地獄はマシになった。

 あれからずっと、考えていた事がある。

 飯野先生は、アフリカの子どもたちが大好きだった。ことある毎には、“アフリカの子どもたちは何々なのに”と口にするが、それは単なる嫌味でしかなかった。“アフリカの子どもたちが何々なんだから、あなたたちもこうしなさい”と言ったことは、恐らくみんなの前では、ただの一度もなかった。

 だから、先生は私にだけ、あの言葉を言ったのだ。“アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しなさい・・・・”と。

 私が、私だけが・・・・、アフリカの子どもと同系列に扱われたのだ。

 私は日本の子どもだ。日本人の子どもだ。周りの子たちは日本人として、日本の子と比較されていたのに。私だけ・・・は、アフリカの子どもたちと同等に扱われた。

 あの時、確かに私はかわいそうな子どもだったのだと思う。誰かに向き合って欲しかった、ただ一人の女の子だった。他人の不幸などで上塗りせず、私自身の辛さを、苦痛を、誰かに分かって欲しかった。

 それだけだったのに。




 子供のころの私は、アフリカという場所が大嫌いだった。

 私よりもかわいそうで、私よりも不幸なアフリカが、大嫌いだった。




『やっほー。久しぶり! 元気にしてる?』

 赤城梨絵あかぎりえからLINEが届いたのは、私が帰国した日の、翌日の夜だった。スヌーピーのスタンプが、スマホの画面の中でちまちまと動いている。

 梨絵は小学校時代のクラスメートだ。親しくなったのは、中学生になってから。彼女とは、小学校の三年生からずっとクラスが一緒だった。

 そう、小学校の三年生。飯野先生のクラスだった。

『久しぶり。元気だよ。どうしたの?』

 バイトをしては海外を放浪する。大学時代から、そんな生活を繰り返していた。だがそれももう今年で終わり。来年から、本格的に働き始めることになっていて、とある法人からも内定をもらっている。

 日本という国は、私が暮らすにはあまりに息苦しい。それは家だって同じ。いい年して海外に遊び歩いている長女に対し、家族が良い思いを抱いていないのは熟知している。長年比べ続けられた妹は、地銀に内定を得ている。

 私よりもずっと堅実な妹。両親の大好きな妹。アフリカの子どもたちと比較されなかった妹。

 缶ビールを開けて、中身の半分を一気飲みした後に、梨絵からの返信があった。

『飯野先生、覚えてる? 小学三年生の時の』

 嫌な名前だった。

 正直、関わり合いになりたくない。だが既読してしまった以上、無視するのも悪いので、仕方がなしに返信する。

『覚えてるよ。“アフリカの子どもたちは”の人でしょ?』

 私にとって、梨絵は数少ない友達の一人だ。そんな友人を、些細なことで失いたくはない。

 梨絵はすぐに返事を寄越す。

『そうそう、その人。何か、入院しているらしいよ』

 へえ。

 今更どうでもいい話だった。彼女がその情報をどこから持ってきたのか、正直、そっちの方が気になったくらいだ。

『何で入院しているの?』

 口に付いたビールの泡を拭う。去年、タイで飲んだシンハービールは美味しかった。

『がんだって』

『どこの?』

『分かんない』

 今日日きょうび、がんとて不死の病ではない。むろん、発症部位にもよるのだろうが。

『今度の日曜日、みんなでお見舞い行こうって話になってるんだけど。来る?』

 予定はなかった。だが、大勢で行く気にはなれなかった。きっとお見舞いは、思い出を懐かしむ、温かい場になるだろう。

 私は嫌だ。私は美化される様な思い出を、あのクラスに持ち合わせてはいない。

 梨絵はそれが分かっているのかいないのか。あの子はいつもそうだ。あの子はいじめられた事がないのだから、いじめられた側の気持ちなんて、分かる訳がない。

『ごめん、用事あるんだ。みんなで行って』

『そっか、じゃあ先生に言っておくね』

 飯野先生。私だけを、アフリカの子どもたちと比較し、我慢しろと言った、飯野先生。

 彼女からしてみれば何気ない一言だったのかも知れない。だが私は、あの時言われた言葉をずっと引きずってきた。

 引きずっていたからこそ、海外に飛び出したのだろう。そして大学で海外について学び、来年からは、それを活かして働くことになっている。

 今の私があるのは、飯野先生のおかげなのかも知れない。だが飯野先生があんなことを言わなければ、今の私はもっと、馬鹿みたいに、自分が幸せであると信じられたのかも知れない。

「……」

 私はおやすみの挨拶を送る前に、一文、打ち込んで送信した。

 先生、どこの病院に入院しているか、教えてくれない? と。




 久しぶりに見る飯野先生は、ずいぶん小さくなっていた。

 もともと、そんなに大柄な人ではない。それでも子どものころの私にとって、彼女は大きな人間の一人だった。

 だから、とてもショックだった。彼女がそんなに小さくなっていること。そして自分が、それだけ大きくなっているということ。

 病室は個室で、面積を大きく取られた窓から、光が差し込んでいる。クーラーが少し、肌寒いくらいだった。

 あの日から、アフリカの子どもたちと比べられ、“我慢しろ”と言われた日から、十六年が経過していた。

「先生は、今でもアフリカの子どもたちの支援を?」

 訊かなくても、答えは分かった。小灯台の上にある写真立て。収まっているのは家族の写真ではなく、褐色の肌を持った子供達だ。

「ええ、そうよ。もう私のライフワークみたいなものだから」

 私は頭の中で計算していた。先生はまだ、せいぜい六十半ばくらいだ。なのに、ベッドで上半身を起こしている彼女は、それよりもずっと老けて見える。

「がんだって、訊きましたけど」

 気の利いたことを何一つ言えない。

 それでいいのだ。それでこそ、この先生が知っている私。アフリカの子どもたちと比較されたあの時と、何一つ変わっていない、私。

「ええ。膵臓すいぞうをやられてしまって」

 膵臓がん。

 あらゆるガンの中で、致死率は最も高い。彼女のやつれ方からするに、もう助からないのは明らかだ。

「そうですか」

 それしか言えない。

 でも、慰めを口にする為に、ここに来たのではない。私は一つ、この人が死んで手の届かない所に行ってしまうその前に、伝えておかなければいけないことがある。

「先生、昔よく言っていましたよね。“アフリカの子どもたちは……”って」

 飯野先生は力なく頷いた。

 私は続ける。

「私、ずっと不思議だったんです。アフリカの子どもたちはかわいそう。でも、日本の子どもはかわいそうじゃない。……これ、両立しないと思うんですよね」

 大人になり、いっぱしの意見を口にしたかつての教え子を、飯野先生は無表情に見つめる。

「先生の言い分はこうですよね。“アフリカは綺麗な水が手に入らないし、学校教育もままならない、働かなければならない子どもが大勢いる”。だからかわいそう。

 それに対して日本は、綺麗な水も、教育の機会も与えられて、そして児童労働はない。先生は、こう言いたかったんですよね?」

 私は大仰に身振り手振りを交えて話す。海外放浪で培ったコミュニケーション。かつての大人しく、引っ込み思案だった私しか知らない先生は、どことなく驚いた様な顔をしている。

「でも、それって違うと思うんですよ。確かに、綺麗な水や教育の機会があるってことは、幸せなことです。とても幸せなことですよ。

 ただ、幸せか否かって、それだけじゃない。家族が愛にあふれているかとか、優しい友達がいるかとか、後は良い先生に恵まれているか・・・・・・・・・・・・とか、そういう、見えない部分でも測られるべきなんじゃないかって、そう思うんです」

 私は言葉を止められない。

「アフリカの子どもたちにも、幸せな子どもはいると思います。そして当然、日本にも不幸な子どもはいる。今、この瞬間、辛い思いをしている子どももいるかも知れない」

 先生は多分、私の言葉の意味を、全てすくい取ってはくれないだろう。地獄から助け出して欲しいと願い、彼女に手を伸ばした自分。アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しろと、そう口にした、飯野先生。

 私はようやく、本題を口にした。

「先生、あなた私に言いましたよね。“アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しなさい”って。

 私、ずっと考えていました。私という人間は、・・・・・・・・先生が思うよりも、・・・・・・・・・アフリカの子どもたちより恵まれているのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って」

 綺麗な水も、教育の機会もあり、そして児童労働にさらされているわけではなかった。でも両親の愛はなく、友人もおらず、いじめられ、ねじ曲がっていくしかなかった。

 アフリカの子どもたちの不幸と、私の不幸は別問題だ。一緒くたに語られていい問題でもないし、比較もできない。

「私、来年の春から、NPOで働くことになりました」

「NPO?」

「ええ。貧困国を支援する法人です。……将来的には、アフリカの現地で働ければいいなと思っています」

 アフリカ。危険と貧困に満ちた大陸。そしてその大陸に生まれた、褐色の肌を持つ子どもたち。

「たぶん、お会いするのも最後になるでしょうから、挨拶したかったんです」

「あなた……」

 先生は私の名前を呼んだ。多分、私が教えなければ、この人は思い出すことができなかっただろう。

 目をみはる先生に、私は笑って答えた。

「私、答えを捜してきます。アフリカに行って。アフリカの子どもたちと私、一体どっちが本当にかわいそうだったのか。何年掛かっても、何十年掛かっても、きっと、答えを見つけてきます」

 アフリカの子どもたちのためではなく、大人達にないがしろにされた、かつての自分自身のために。

 自分の不幸を認める権利すら与えられなかった、小さな子どもの、私の為に。

 私はそれだけ言って、頭を下げて病室を出た。




「アフリカの子どもたちはもっとかわいそうなんだから、我慢しなさい」

 自分がかわいそうだ。自分が不幸だ。

 それを認めるのは、大事なことだ。恥ずかしいことではない。見て見ぬふりをしてフタをしてしまえば、いつまでも呪いは続く。

 だから私は、自分がアフリカの子どもたちとは、また違った形で不幸だったということを認め、ようやく前へと進む勇気を手に入れた。

 誰にも助けられる事なく、ただ一人、自分の手で。


 その数ヶ月後、飯野先生が亡くなったという事を、梨絵がLINEで知らせてくれた。

 私は、もう、返事をしなかった。

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アフリカの子どもたち 山南こはる @kuonkazami

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