扉を開けて

白川 小六

扉を開けて

 玄関のドアを開けて外に出る。

 朝顔が一輪咲いてる。



 昨日の晩御飯はコロッケだった。


「今日はどうだった? 学校、行けた?」

 母さんが炊飯器の湯気の向こうからたずねる。

「ダメだった。も少しだったんだけど」

「そうか、残念だったな」

 父さんが冷蔵庫からソースと辛子と缶ビールを取り出して次々に渡してよこす。俺はそれらを食卓に置き、箸も四膳きちんと並べる。

 中三の時からずっと家にこもりっぱなしの姉貴が、二階から降りてきて手伝いもせずに食卓につく。

あきらめてあんたも通信教育にすればいいのに。そりゃ、最初は私もちょっと寂しいかなって思ったけど、同じような子とネットで話せるし、あんな大変な思いもしないで済むし……」

「だって俺、学校行きたいんだよ」

「ごめんね、二人とも、私の体質が遺伝しちゃって」

 母さんが申し訳なさそうな顔をする。

「なに、大人になれば治るさ。母さんだってそうだったんだから。さ、冷めないうちに食べよう」

 父さんが缶ビールをプシッと開ける音を合図に、俺たちは食べ始めた。


 コロッケは美味うまかった。明日こそは、きっと……そう思って、早く寝た。


 午前7時32分、玄関の扉を開けて外に出る。

 朝顔が一輪咲いてる。

 向かいの坂本さん家のおばあちゃんが、道路をほうきく手を止めて「行ってらっしゃい」と見送ってくれる。

「行って来ます」返事をしたところで、ふりだしに戻る。


 扉を開けて外に出る。

 朝顔が一輪。

「行ってらっしゃい」と坂本さん家のおばあちゃん。

「行って来ます」と返事。

 ゴミ捨て場にカラスがいて、何かくわえている。近寄っても逃げない。咥えているのは小さくて光るもの、ビー玉? いや、アクセサリーのようだ。と思ったところで、またふりだしに戻る。


 扉、朝顔、「行ってらっしゃい」、「行って来ます」、アクセサリーを咥えたカラス。

 ゴミ収集車が「おさるのかごや」の曲を流しながら角を曲がって来る。すれ違うために、少し右によけたところで、またふりだし。


 扉、朝顔、「行ってらっしゃい」、「行って来ます」、カラス、「おさるのかごや」のゴミ収集車。

 ここら辺まではいつでも楽勝だ。だけど、ここからが難しい。

 バス通りに出て、横断歩道の歩行者用ボタンを押す。信号が青になって道路を渡ったところで、またふりだし。

 

 扉、朝顔、……、ゴミ収集車。

 バス通りに出ると、歩行者用信号が既に青なのが見える。通りの向かい側で誰かがボタンを押したらしい。仕方ないのでノロノロ歩いて赤になるのを待つ。

 横断歩道の歩行者用ボタンを押す。信号が青になって道路を渡る。

 停留所でバスを待っている人の列に並ぶ。俺は前から六番目。すぐ後ろに紺色のスーツを着た若い女の人。多分、就活中の大学生だな。と思ったところで、またふりだし。


 扉、朝顔、……、横断歩道。

 しまった。少しノロノロ歩きすぎたらしい。バス待ちの列にはすでに六人並んでいる。最後尾がさっきの紺スーツの就活生だ。

 俺はダメ元で、その人の前にスッと割り込んでみる。

「ちょっと、横入りしないでよ!」就活生が声を上げる。前に並んでいる人たちも、何事かと振り向く。

 ああ、やっぱりダメか。また最初からやり直しだ。

 視界がスーッと暗くなって、気がつくと俺はまた玄関の中に立っている。下駄箱の上の時計が、7時51分を指している。

 ため息が出そうになるが、気を取り直し、扉を開けて外に出る。

 朝顔が一輪咲いてる。

 坂本さん家のおばあちゃんは、もう道路掃除を終えて家の中に入ってしまったようだ。

 ゴミ捨て場は空で、カラスもいない。

 犬の散歩中のおじいさんが向こうからやって来る。すれ違いざま、犬が俺に吠えかかり、驚いて身構えた途端、ふりだしに戻る。


 小学や中学は、なんとか通えていた。この症状がひどくなってきたのは、高校に入学して二ヶ月経った、先月の初め頃からだ。

 それまでも、何か悩み事があったり、風邪の引きかけなんかに、たまにこういうことがあったけれど、ここまでひどくなったのは初めてで、正直つらかった。もう何度、学校に行くのをあきらめそうになったか知れやしない。姉貴みたいに通信教育にすれば楽なのは分かってるし、その方が現実的だとも思う。

 だけど、どうしても学校に行きたい。せっかく受験して受かったんだし、それに……。





 今回は惜しかった。学校近くのバス停で降りるまでは、なんとか行けたんだ。

 あと、校門まで二百メートルほどの所で、靴先に当たった小石が転がって、ヤバイと思っている間に側溝のふたの穴に入ってしまった。

 暗澹あんたんたる気持ちで、もう一巡を繰り返したけど、こんなのやろうと思って出来ることじゃない。俺のった石は側溝の蓋を越えて、道路脇のブロック塀に当たって跳ね返った。ああ、やっぱりな……。視界が暗くなり、玄関へ。

 いい線いけてた分、時間も三時間近く経っていて、時計は10時36分。今からもう一度トライして、うまくいっても、学校に着くのは、よくて三時限目の後半だ。


 階段の踊り場から姉貴が顔を出す。

「お帰り」

「……ただいま」

「惜しかったみたいね」

「うん」

「もっかい行くの?」

「うん」

「ちょっと休んでったら? バテるよ」

「ん、そうする」

 靴を脱いで、家に上がり、洗面所で顔を洗う。タオルから顔を上げると、姉貴が冷たい麦茶のコップを渡してくれた。俺は一気にそれを飲み干して、コップを姉貴に返す。

「何よ、お礼くらい言いなさいよ」

「……あざす」

 姉貴は普通の顔で笑う。

「今頃の時間は、外歩いてる人少ないから、成功率上がるわよ」

 俺は黙ってうなずいてから、ふとたずねる。

「姉貴はさ、なんで諦めた? いや、諦めたい気持ちはすごくわかるし、悪いことだとも思わない。むしろ、この状況なら当たり前と思う。……けど、何がきっかけだった?」

「……そうねえ」姉貴は宙を見上げた。「私、あんたみたいに頭良くないからさ、起きたことの順番覚えるの苦手で、メモっても玄関戻ると消えちゃってるし、……だから、割と早々に、ああ、こりゃ私には無理だあって思った」

「それに、私のやりたい事って割と家でも出来るって言うか、家の方がやりやすいし……。あ、そうだ、ちょっと待ってて」

 姉貴はバタバタと二階に駆け上がって行くと、何か小さい物を持って戻ってきた。

「かわいでしょ?」

 目の前にぶら下げられたのは、ビー玉のようなものに銀のカエルがくっ付いているストラップだった。透明な球体の中には白い雪の結晶が一つ入っていて、親指の爪ほどの精巧せいこうなカエルがそれを抱えるように巻きついている。

「あ、これ」

「え?」

「朝に、カラスが咥えてた。ゴミ捨て場んとこで」

「あー、どうりで一個無いと思った」

「これ、姉貴が作ったのか?」

「そうなのだ」

「すげー、売れるよこれ」

「でしょ? もうネットで注文来てるんだ。これ、お守りなんだよ、『無事ユキ、無事カエル』って。私たちみたいなサイモン症候群シンドロームの人用の。あんたにも一個あげるから、カバンにでもつけてよ。効き目あるかもよ」

「……わかった、ありがとう」



 午前10時53分、玄関の扉を開けて外に出る。

 朝顔がしぼみかけている。

 集中力を切らさないよう、慎重に学校へ向かう。

 十八巡目に校門まで数十メートルのところにたどり着く。

 商店前の自販機の陰から、太った猫が現れて、通りを横切り、目の前を通って、生垣の下に潜り込む。

 よし、ここまで、さっきと同じ。大丈夫、このまま、校門を入りさえすれば。落ち着こうと思っても心臓が高鳴る。

 あと、十メートル。……五メートル。……三、二、一。

 


「遅くなってすいません」

 なるべく、そっと教室の後ろの引き戸を開ける。三時限目は数学。黒板の横の時計は11時43分。あと7分で授業が終わる。

掛川かけがわ!」サトリの小西こにしと呼ばれる、いつも無表情な先生が、目を見開いて俺を見る。「お前、よく来たなあ……」

 先生の目が少し潤む。

 小学校から一緒だった杉山すぎやまなんか、本気で泣いている。

 やめてくれよ、俺も釣られるじゃないか。

 俺は、先生に一礼し、杉山に軽く手を上げてから、教室の真ん中あたりの自分の席を目指す。

 隣の席の鈴木すずきさんが小さくて白い手をヒラッとさせて「おつかれ」と声をかけてくれた。

 今日の鈴木さんはカチューシャをしてて、とてもかわいい。

 まずいな、俺の目、赤くなってないかな。

 とにかく席に座って、あたふたとノートや教科書を出す。鈴木さんが、どこを開けばいいのかわかるように、自分の教科書をこっちに向けてくれる。

 あー、本当に来れてよかった。姉貴のお守りのおかげかな。


 休み時間、席でへばってる俺にみんなが声をかけてくれる。

「本当、よく頑張ったなあ、お前」

 杉山が背中をバシバシ叩く。

「今日は何パターンだった?」

 塚本つかもとっていう、やっぱり同じ中学出の女子が、ノートであおいでくれる。

「んーと、三パターン」俺は机に突っ伏していた体を少し起こして答える。「二パターン目で、あと二百メートルってとこまで来れたんだよ。だけど、そこで石がさあ……」

 話しながら、鈴木さんはどこかと見回したが、教室にはいないようだ。

 

 六時限目まで無事に終わって、俺一人だけカバンを持って昇降口に向かう。学校側の配慮で少し早く帰らせてもらえるのだ。

 掃除を始めるみんなが、口々に「がんばれ」「明日も待ってるぞ」と声をかけてくれる。


「掛川君」

 昇降口で靴を履きかけたところで、なんと鈴木さんに呼び止められる。

 息を少し切らしながら、鈴木さんは何か小さな包みをくれる。

「これ、ネットで見つけたんだけど、よかったら、使ってみて」

 包みを開けると、カエルと雪のストラップがころんと出て来た。

「あ、これ!」と、俺が言うのと、

「あ!」と、鈴木さんが俺のカバンについてるストラップをみつけるのと、同時だった。

「なんだ、もう、誰かにもらったんだ」

 鈴木さんが、泣きそうな笑顔になる。

「あー、違うんだ」俺はあわてて否定する。「これ俺の姉貴が作ってるんだ。姉貴も俺と同じでさ、中三の時から学校行ってないんだ」

「そ、そうなの?」

「うん、いっつも部屋で何してるんだろって思ってたら、こんなの作ってたらしい。俺も今朝知ったんだけどさ。『無事ユキ、無事カエル』って、なかなかよくできてるだろ?」

「うん、最初に見た時、これだ!って思った。お姉さん、すごいね」

「どうだろ。でも、今朝はこれのおかげで学校来れた気がする。……鈴木さんのも一緒につけて帰るよ。ご利益二倍になるかもしれないし」

「そうして、そうして」鈴木さんは俺の手からストラップを取り、カバンの姉貴がくれたお守りの横につけ、「はい、これできっと大丈夫。また明日ねー」と、白い手をヒラヒラさせて行ってしまった。

「ありがとう」

 俺も手を振ってしばし遠ざかる鈴木さんを見送ったあと、一度深呼吸して昇降口を出る。

 姉貴よ、ありがとう。おかげで、学校に来れたし、鈴木さんともこんなに話せたよ。おまけにお守りまでもらってしまった。これはどう考えればいいんだろう。やっぱ、同情かな? それとも……?



 昇降口から校門までは誰もいない。学校がそうなるようにしてくれてるのだ。

 カバンには、色違いのお守りが仲良く二つぶら下がっている。


 校門を出る。商店の前のベンチで朝と同じ猫が昼寝をしている。

 車通りが途絶えるのを待って、道を渡ったところで、ふりだしに戻る。

 

 校門を出る、昼寝中の猫、道を渡る。

 後ろから、もうバスが来ているのに気がつき、停留所まで走ったところで、ふりだしに戻る。


 午後7時の下校時刻を過ぎても、うまく帰れなかった時は、宿直室に泊めてもらえる。だけど、大抵、帰りの方が楽だし、今日はお守りもあるから。

 いつか、この症状がおさまったら、「一緒に帰ろ」って、鈴木さんを誘ってみよう。

 いつか、きっと。大人になる前に。


 校門を出る、……。



 (終)




補足:

【サイモン症候群(Simon syndrome)】とは、ある目的のために行う数段階の動作を、一段階進むごとに、で最初から繰り返してしまう、原因不明の後天的な行動障害である。

 多くの場合、幼少期に発症し、思春期にもっとも症状が重くなる。その後徐々に改善し、成人に達するまでに自然に治癒するケースが多い。

 後天的なものであるとされるが、患者の子が発症する場合も多く、遺伝的な要因も研究されている。


【症状】

 ある行動において、スタートからゴールまで、 a1 ~ a5 の五つの動作が必要な場合、患者が脳内で取る行動は〈例1〉のようになる。


〈例1〉

  一巡目 スタート→ a1 →

  二巡目 スタート→ a1 → a2 →

  三巡目 スタート→ a1 → a2 → a3 →

  四巡目 スタート→ a1 → a2 → a3 → a4 →

  五巡目 スタート→ a1 → a2 → a3 → a4 → a5 →

  六巡目 スタート→ a1 → a2 → a3 → a4 → a5 →ゴール


 動作は正確に同じように繰り返されなければならない。繰り返し時に一度目と違う動作をしてしまった場合、〈例2〉のように最初に戻って、また一から違うパターンの動作をし始める。


〈例2〉三巡目の a2 の動作が、誤って a2' になってしまった場合、四巡目には進めず、スタートに戻って違うパターンを始める。

  一巡目 スタート→ a1 →

  二巡目 スタート→ a1 → a2 →

  三巡目 スタート→ a1 → a2' →

  別パターン一巡目 スタート→ b1 →

  別パターン二巡目 スタート→ b1 → b2 →

  別パターン三巡目 スタート→ b1 → b2 → b3 →

  ……


 患者本人には、すべての動作は実際に行なっているかのように認識されている。

 ゴールにたどり着くには、一つ一つの動作を正確に記憶して繰り返す必要があり、過程が複雑になればなるほど、困難になる。

 また、日常のすべての行動に対して発症するわけではなく、患者によって、発症する場面は異なる。


【治療法】

 原因不明であるため、確立した治療法はまだ無い。

 この疾患が発見された2020年代当初は、精神疾患であると思われていたため、抗精神病薬、抗不安薬などが処方される場合もあったが、目立った効果はなく、かえって症状が悪化するケースも見られ、現在では使用が中止されている。心理療法が効果を上げたという例も散見される。

 放っておいても、成長とともに改善するが、国内の患者の大部分が未成年の学生であるため、学校生活がスムーズに送れるよう、周囲の理解と協力が不可欠である。



 尚、この疾患については、現在、科学的に説明のつかない、以下の点がある。


・一つ目のパターンに失敗して、二つ目のパターンに移る際、一つ目のパターンの動作を繰り返しも含めてすべて実際に行なったのと同等の時間の経過が見られる。


・一つ目のパターン時と、二つ目のパターン時の両方に患者の行動を目撃した者がいる場合がある。


・移動を伴う行動において発症した場合、一つ目のパターンで失敗した地点から、スタート地点に戻る過程を目撃した者はいない。本人も家族等も、気がついたらスタート地点に戻っていたと証言する場合が非常に多い。


 これらの点は、患者の脳内だけで繰り返しが行われているとすると、いずれも矛盾する。よって、多くの患者が主張しているように、すべての行動は実際に行われており、繰り返しが起こる度に、何か未知の物理現象が起きていると考える研究者も増えつつある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

扉を開けて 白川 小六 @s_koroku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ