第14話

 最後の曲です、とスナダがささやいた。そして、いよいよその曲がはじまった。


 『海中から見た陽』


 おれはその曲の歌詞の断片を想起する。沈んでいく、沈んでいく。惛(くら)い場所。ぼやけて見える淡い光。か細い手の先。輪郭をうしなった陽。

 その歌を聴くたびに、おれは墓場を想起しなければならなかった。しかし何故だろう、そこにかすかな恍惚(こうこつ)があったのは。


 曲は進んでゆく。替刃は三ヶ所に仕込んである。早くその部分に来い、とおれは願う。願うまでもなく曲は展開する。そして、スナダが呻き、演奏する手をとめる。理解しがたい状況にスナダは戸惑っている。すかさず豊岡が、なにやってんだよ下手くそ、と頓珍漢(とんちんかん)とも思える罵声を飛ばす。スナダは小首をかしげながらも、再び演奏をはじめる。同じように何度も躓き、しかし、スナダは演奏を続ける。スナダの指からは血が流れ落ちている。それでもスナダはギターを弾き、歌い続けることをやめない。さすがにその頃にはフロアにいた客や豊岡も異変に気づいていた。豊岡の罵声は、もうない。

 ギターの演奏は中途半端になっていたけれど、スナダは歌い続けた。指からは血が滴っている。その場にいたほかの人間たちと同様に、状況を飲みこめないでいるだろう花夏と曽山さんも無言のままだった。


 おれはといえば、たどたどしく、それでも演奏を続けるスナダの姿に地団駄を踏んでいた。なぜだ、なぜ演奏をやめないのだ、と。その実直とも健気とも思えるスナダミキの姿に苛立ちが募っていたのだ。今すぐ演奏をやめろ、そうすればもう痛い思いをしなくてもすむ。今すぐステージからおりろ、そうすればもう恥をかかなくてすむ。おれは声を出さずに、そう叫んでいた。


 異様な雰囲気があたりに立ちこめた。客がスナダの一挙手一投足に注目しているように思えた。皆がスナダミキというミュージシャンに興味を持ってしまったかのように。それはおれの想定を超えた現象だった。


 そこでおれの気が変わった。最後の仕上げはライブが終わってからと考えていたが、それを今すぐ実行するべきだ、と。


 おれはジーンズのポケットから小型ナイフを取り出し、勢いよくステージにあがった。場が騒然となる。おれはスナダの歌声が始まるその場所、声帯を切るために、その女の喉にナイフの切っ先を向けた。

 運がよければ命は助かるだろう。しかし、今みたいに流暢に歌うことは出来なくなるはずだ。出来ることなら殺したくはない。それは殺人犯になることを怖れているからではない。おれはただ、スナダミキに夢を奪われる苦痛を味わってほしいと思っているのだ。


「おい穂高、やめろ」

 誰かの声が聞こえた。


「穂高さん!」

 それは、絶叫だった。


 スナダが演奏する手をとめ、困惑の表情を浮かべていた。そして、おれが向ける刃の切っ先をちらと見ながら言った。

「何?」

 おれはスナダを見据える。もちろん、刃を彼女に向けたまま。

「復讐だよ」

 スナダが眼をしばたたいた。

「何の?」

「守千亜のだ」

 スナダが顔をしかめる。その表情に、おれはわざとらしさを感じた。

「わたしが彼女に何かした?」

 スナダは不敵に微笑みながら続けた。

「なんのことを言ってるかわからないけど、あなたが本気なのはなんとなく伝わってくる。でも、邪魔しないでよ」

 そう言いながら、スナダが小型ナイフの刃の部分を握った。冷たく、しかし、強い視線がおれを射る。おれたちのあいだにそれ以上の言葉はなかった。ナイフを握りしめるおれの手がふるえはじめていた。おれたちはただ見つめ合っている。周囲には静観だけがあるように思えた。スナダの顔がゆがむ。そして、その掌から血が滴り落ちる。彼女がおれを凝視しながら、その手に力を入れたのだ。自らの掌を刃に食い込ませていったのだ。彼女の冷たく、強い視線はおれだけを捉えている。おれは息を飲み、そして、ナイフから手を離した。もはやおれのものではなくなったナイフが、スナダの血液に汚れた掌の中にあった。おれは一歩後退する。スナダは長い息を吐き出すと、自分の掌からナイフを落とした。


 負けた。おれはそう思った。


 おれはスナダミキという人物を識(し)った。スナダミキが持つ夢に対する盲目さを。

 それを理解した途端に虚しさが込みあげた。おれは呆然としながら、ステージに転がった小型ナイフを見つめていた。スナダの血にまみれたそのナイフを。


 どれくらいそういった状態が続いただろうか、おれの肩を摑んだのは、警官だった。『リップコード』のスタッフか客の誰かが通報したのだろう。

 ふたりの警官のうちのひとりが、ゆっくりと、だが威厳に満ちた声でおれに言った。

「ちょっと話を聞かせてもらうよ」

 おれはふたりの警官に両脇を摑まれてステージをおりることになった。おれを遠巻きに見るいくつもの眼球の中には、畏怖と軽蔑が存在していた。そんなおれに唯一近づいてきたのは曽山さんだった。


 曽山さんが、穂高、とおれの名を呼んだ。おれはそれに応えるように口を開ける。

「バカみたいな話ですね。おれの不完全な盲目を笑い話の種にでもしてくださいよ」

「アホか。笑えなんかしねえし、それに笑うつもりもねえよ。……まあ、バカな話ってのは確かだがな」

 曽山さんの後方に佇んでいた花夏は、おれと視線が交わると物悲しげに眼をそむけた。口はつぐんだままだった。


「場が乱れたけど、最後の曲をもう一度最初から歌います、聴いてください」

 その言葉のあとに、おれの背後でスナダミキのアカペラがはじまった。


 息苦しいと思える空間にスナダの歌声が響いていた。悪くない、とおれは思った。その行動には尊さを感じるほどだった。スナダが見せたその執念に、おれの顔はほころんでさえいた。しかし、両脇にあるふたつの強い力で、ぶ厚い防音の扉の外に連れ出されたおれの耳に、その歌声は届かない。

 雑居ビルのエレベーターの扉が開き、その中にあった光が散逸する。その瞬間、おれは思ってしまった。


 君が作る音楽を、君の声を、おれはもっともっと聴きたくなったよ、と。


                <了>

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愛を辿りて、君を識る 佐藤けいき @satoukeiki7

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