第3話 教育係なんて胃が痛いだけ。

 エレベーターの扉が開くたび一人分の空間は広がっていく。人数が減り、階数が上がるたびに頭の中は仕事一色になる。エレベーターの到着音は「さぁ今日もバリバリ働け」という合図のようだといつも思っていた。

 けれど、開いた扉から見えたいつもと同じはずの景色は、いつもと違う色を発していた。

 私の仕事場所、営業第一グループの入口ドア前に旨辛チキンパスタサラダを奪った人が課長と並んで立っていたからだった。


 就業時間の始まりとともに行われたその人の紹介と挨拶が終わり、にこやかな空気が落ち着いたあと、いつもより少しだけカッコつけた面々が仕事に戻っていった。私もその一人で、椅子に手をかけ座ろうとした時に、課長に呼ばれ、第2ミーティングルームに旨辛チキンパスタ……いや、部署異動の彼、藍沢さんと対大勢の一人ではなく対面することになった。


「当面の間、藍沢くんと一緒に組んでもらいたいんだ。教育係メンターを香山さんに頼みたい」

「わかりました」


 課長は私によろしくと頷き、藍沢さんには香山さんは仕事が丁寧なうえに早いから置いてかれないよう気をつけろと冗談を混ぜた。私にとって、誰かの教育係メンターを任されるのはこの十年で初めてだった。他にも適任がいる中、私を選んだ課長の意図はわからないけれど、もしかしたらマネジメント能力があるかどうかが次の査定に関わってくるのかもしれない。


「ちょうど明後日13時からお客様と打ち合わせがあるので同席お願いします。それまでに把握しておいていただかなければならないことも多いので、まずは資料確認から始めましょうか。諸々の引き継ぎも順にしますね」

「よろしくお願いします」


 緊張とプレッシャーで声が上擦る。何より声色が堅かったかも、いや、教育係なんだし堅いくらいが丁度いいのか?

 わからない、全くわからないけれど、藍沢さんには私の緊張が全く伝わっていないようで、何でもやりますのでバンバン言ってくださいと笑った。

 コミュ力がかなり高そうな軽やかな空気と嫌味の感じさせない爽やかな笑顔。

「彼には前から目を付けていてね。他所に取られる前には、と思ってはいたんだが、よくよく聞いたらうちのチームに興味があるというもんでね」

 営業は社の顔だから、と常に言っている課長が異動時期とは違うこのタイミングで強引に引っ張ってきたらしいが、さすが課長のハートを射止めただけはある。

 まだ会って数十分だが、真っ直ぐ伸びた背筋に明るい表情、それと私がキャビネットから取り出した顧客ファイルを率先して持つ気遣いが備わっている。大人の男性を捕まえて失礼かもしれないし、口には出さないけど「いいこ」なのはすぐわかった。

 私の教育のせいで彼の今の良さを消してしまわないようにしなければいけない。胃がキリっと泣いた気がした。

 しかし、気になることも一つだけあった。彼は自身のパーソナルスペースが狭いのか先ほどから距離が近い。まぁ、ひとつのファイルを一緒に見なければならず隣の席に座ったけれど、それでも普通なら、並べた肩の間に細身の人が立てるくらいの隙間があるだろう。ところが彼の場合、幽霊でなければすり抜けられないほどの距離しかあいておらず、私の肩には彼の体温が触れている気がする。

 男性と仕事をするのが久々なわけじゃない。距離感が近い人もいないわけじゃない。けれど、まだ慣れていない、まだそれほど時間を共有していない男性とのこの距離は、戸惑い以上の何者でもなく、業務に差し支えありまくりだと背中の芯に変に力が入った。

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ブルーベリービート〜10年ぶりの恋始めました〜 嘉田 まりこ @MARIKO

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