幕間3 翡翠の虫籠

 開け放たれた窓から虫の声と、涼しい風が吹き込む。僕はかすかに身を震わせて、もう少し厚着をしてくれば良かったと腕をさすった。

 初めて翡翠さんと会った時は半袖で良かったのに、今は薄手のパーカーを羽織っている。もう少ししたらもっと厚い服を着なければならないだろう。それでも、この深夜の密会をやめる気にはなれない。


 翡翠さんが持ち込んだ柔らかいランタンの明かりが、部屋の一部をほんのりと照らしている。翡翠さんの一族が代々集めたという蝶の標本が飾られた部屋。その部屋の一角に座り込んで、僕は翡翠さんに問われるがまま、最近虫籠で起こった出来事を語っている。


 今日の話題は昨日退院した大空くんについて。小口さんも同じタイミングで翅が落ちたから、大空くんが小口さんに告白したのだろうと言われている。小口さんは男子顔負けの高身長だけど、性格はとても大人しい。異性があまり得意じゃないらしく、大空くんとその友人である新田くん、天野くん以外とは挨拶くらいしかしない。恋愛ごとに詳しくない僕でも分かるくらい分かりやすく大空くんを好いていたけれど、なかなか翅が落ちなかった不思議な二人だ。


 そんな二人がついに想いを通じ合わせたと虫籠の中はお祝いモードだった。大空くん、小口さんと仲の良い子達は寂しそうにしていたが、最終的には退院することを祝福していた。お互いの両親に挨拶し、仲良く退院していった二人の姿は結婚式まで済ませてしまったみたいに幸せそうだったという。

 見送りまではいかなかったけど、その話を聞いて羨ましいなと思った。皆に祝福され、好きな人と手を取り合って仲良く退院する。それが虫籠にいる患者の理想だろう。


 僕はランタンの明かりに照らされる翡翠さんを見つめた。翡翠さんは僕が送った動画を見ている。それは大空くんが空を飛ぶもの。蝶の薄い翅で飛ぶなんてと怖がっていた僕ですら、大空くんが飛ぶ姿には見とれてしまった。その動画を翡翠さんは目を輝かせて見つめている。

 正直いって面白くない。


「退院しちゃったのか……一度でいいから生で見たかったな」


 動画を見終わった翡翠さんは残念そうにそう呟いた。僕はなんで動画を送ったんだと過去の自分に文句を言った。

 といっても、動画をとったのだって翡翠さんが見たいと言ったからだし、翡翠さんに見せてと言われたら動画を見せない選択肢なんてない。ただ、送らずに自分のスマホで見せれば良かった。僕がいない時、あんなキラキラした目で動画を見る翡翠さんを想像するだけで、嫉妬で体が焼き切れそうだ。


「残念でしたね」


 そう答えながら、さっさと退院してくれて良かったと思う。大空くんは小口さんに好かれているのだから、翡翠さんにまで好かれるなんて贅沢だ。翡翠さんは誰にでも興味を持つようでいて、誰に対しても興味が薄いから、大空くんを特別視することはないと思う。それでも、一瞬であろうと美しい瞳に映ることが出来るというのが羨ましい。


「村瀬くんは退院しないの?」


 翡翠さんは無垢な子供の顔をして、僕の胸をえぐった。こういう風に無邪気に問われるたび、自分は翡翠さんにとって居ても居なくてもどうでもよい存在なのだと突きつけられる。

 僕にとって翡翠さんと過ごす時間は何事にも代えがたいものだけど、翡翠さんは暇を潰せれば誰でも良いのだ。僕が通わなくなったとしてもすぐ忘れるだろう。


「翡翠さんは退院したいとは思わないんですか?」


 翡翠さんの問いに答えたくなくてはぐらかす。聞いたは良いが、翡翠さんの答えは分かっている。人への興味がなく、恋というものが分からない翡翠さんが退院したいと思うはずがない。

 だから僕は、翡翠さんの返答で話を終わらせて、次の話題に移ろうと考えていた。しかし、予想外に翡翠さんは笑みを浮かべた。たまに見せる、年相応な大人の笑みだ。


「姉さんが悲しむから、俺はずっとここにいるよ」


 初めてみる顔に僕は心臓がすりつぶされるような痛みを感じた。自分の知らない翡翠さんがいることが嬉しくて、悲しい。まだまだこの人の事をしれるのだという前向きな気持ちと、この人のことを僕はないも知らないのだという暗い気持ち。二つがぐちゃぐちゃに混ざり合って、よく分からなくなる。


「蝶乃宮さんは、翡翠さんがここから出ると悲しむんですか?」


 蝶乃宮さんの気持ちは分かる。こんなに美しい人だ。外に出たら心配だろう。翡翠さんは本物の蝶みたいにフラフラと落ち着きがない。少し目を離しただけで蜘蛛の巣に引っかかり、あっさり食べられてしまいそうな危うさがある。

 そんな蝶乃宮さんの不安を翡翠さんが理解していることが意外であり、妬ましくもある。血がつながった姉弟という、僕にはどうにも出来ない絆がそこにある。


「姉さんにとって、俺は唯一残った家族だから、俺を失いたくないんだよ」

 翡翠さんはそういうと、蝶の標本が収められたショーケースに触れる。その仕草に目を奪われながら、ひっかかりを覚えた。


「それだと、蝶乃宮さんが翡翠さんを閉じ込めてるみたいに聞こえるんですけど……」

「うん。たぶん、俺、病気が治っても外には出してもらえないと思う」


 あっけらかんと翡翠さんは恐ろしいことを口にした。今までの前提が覆る話に僕は固まる。


「といっても、俺の翅が落ちることはないと思うから、あくまで想像だけど」


 そういいながら翡翠さんは自分の背に生えた翅に触れた。大きくて美しい、ランタンの淡い光でキラキラと輝く虹色の翅。オークションにだしたら何十億という値がつきそうな翅をおもちゃのようにもてあそびながら、翡翠さんは軽くいう。


「村瀬くんにはこっそり教えてあげるけど」


 翡翠さんはそういうと僕に距離を詰めてきた。暗い部屋に二人きり。元々向かい合うように座っていたから距離はそれほど離れていない。それをぐっと詰められ、翡翠さんの顔が迫ってくる。ランタンで限定的に照らされた顔はやはり綺麗で、すべてが見えないからこそ幻想的であり、なまめかしく見える。触ったらどんな感触がするのだろうと想像して、僕は唾を飲み込んだ。

 僕が緊張で動けなくなっている間に、翡翠さんの唇は僕の耳に近づき、そっとその言葉を口にした。


「俺がクピド症候群を発症したのは十二年前」


 思わず顔を動かして、すぐ近くにある翡翠さんの顔を凝視する。

 翅の生えた子供が全国各地で生まれるようになったのは十一年前。虫籠が建てられたのは十年前だ。

 クピド症候群の初期発症者で有名な人は何人かいる。飛翔病という名前を世間に広めた事件の当事者、成瀬美香。初めて翅を落とし、病気の治癒方法を知る手がかりになったという津島栄司。

 初期に発症した患者は今より情報規制が緩く、マスコミが連日報道したこともあり、顔と名前が広まってしまった。その中に、蝶乃宮翡翠という人間はいない。


 それはありえない。翡翠さんのいうことが本当ならば、翡翠さんほど目立つ容姿と翅を持つ人間をマスコミが放っておくはずがない。

 だが事実として、僕は翡翠さんをここに来るまで知らなかった。病院内の患者だって一部しか知らない。

 そこまで考えて、僕は翡翠さんの存在が知られていない理由を悟った。誰にも話さず、ここに通い詰める僕と一緒。誰かが隠したのだ。


「……蝶乃宮さんが翡翠さんを隠したんですか?」

 僕の問いに翡翠さんは笑う。整った容姿にそぐわない、無邪気な笑みだった。


「転落、誘拐が相次いで、国は早急な対応を求められた。治療法を探す研究所に保護する病院。それらを提供したのが姉さん。その弟の俺はクピド症候群の初期発症患者だった」

 翡翠さんはそこで言葉を句切ると目を細めて笑う。


「あまりにもできすぎてるだろ?」


 言われてみればその通りで僕はなにも言えなかった。

 クピド症候群に対する国の対応はあまりにも早かった。それは悲惨な目にあう子供を少しでも減らすためだと言われているが、気持ちがあったとしてもすぐに実行できるわけではない。土地、資金、人材。何かをなすためには必要なものがたくさんある。


「下準備は出来てたんだよ。姉さんは本格的に蝶の研究を進めるために資金を募り、研究所の改築計画を進めていた。そのために必要な人材を探し始めていた。だからクピド症候群が世間に認知され、国が対応を検討し始めたとき、蝶乃宮研究所を改築すればクピド症候群の治療法を探しつつ、患者を保護する病院を用意出来ると売り込んだ」

「それは翡翠さんがすでに発症していたから?」


 翡翠さんは頷いた。

 きっと蝶の研究というのは建前で、本当は翡翠さんの病気を治す方法を探していたのだ。翡翠さんの発症が十二年前なら、飛翔病という名前すら生まれていない。治療法も分からない。

 いや、恋をすることで完治する病気なのだから、翡翠さんだけでは治療法は永遠に分からなかっただろう。世間に広まったからこそ、病気を治すまで患者を保護し、恋をする以外の治療法を探すという名目で蝶乃宮病院を建てることが出来たのだ。


 すべては最愛の弟を世間に知られないように隠し、治療するために。


 蝶乃宮さんの美しく、優しい笑みを思い浮かべる。あの人が自分の弟のためだけに、全てを利用したとは思えない。弟と同じ境遇の子供を救おうとしたのも嘘ではないのだろう。

 しかし、どこか白々しい。なにかを僕らに隠しているように思える。


「ねー、ねー、村瀬くん。他に面白いことはないの?」


 自分で言いだしたことだというのに、翡翠さんは話題に飽きてしまったらしい。僕が考えることに夢中になって、黙っているのが気に食わなかったのかもしれない。


 おそらくクピド症候群という病気の解明には翡翠さんの存在が必要だ。蝶乃宮さんも同じことを感じたから翡翠さんを隠したのだろう。それが世間に知られれば、翡翠さんがどういう扱いを受けるのかは想像もしたくない。


「そうですねぇ……。そういえば最近、綾崎さんが……」


 だから僕は気づかなかったことにした。

 今まで翡翠さんに出会い、気づいてしまった人たちがそうしてきたように、僕は気づいてしまった事実にそっと蓋をする。


 ここは翡翠さんのために作られた虫籠。

 それを知る人間は、少ないほうがよいのだ。

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クピドの虫籠 黒月水羽 @kurotuki012

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