エピローグ
大空の翅が落ちた。いつかは落ちるだろうと思っていたし、小口さんとの関係を見守っていた身としてはやっとかという気持ちになる。小口さんも一緒に退院ということはそういうことなのだろう。
それは祝福すべきことだと分かっているし、おめでとうという気持ちは嘘じゃない。でも寂しいという気持ちも本当だ。
もう大空が空を飛ぶ姿は見られないし、新田と騒ぐ姿も見られない。虫籠を出ていったら、一生会えないかもしれない。
話をしたいと思ったが、退院の決まった患者はなにかと忙しい。体の検査にメンタルチェック、家族への連絡やら、出た後どうするかという話し合い。
翅が落ちた後も虫籠内にとどまるのはよくないと、準備は急ぎで行われる。大空の翅が落ちて三日後の今日は退院日。小口さんと一緒に虫籠を出ていく。
昼くらいに家族が来ると大空からは連絡をもらっている。昨日の夜にはいろいろ落ち着いていたようだから、話す時間はあったのだが、俺は一人で大空の元へ行く気になれなかった。
同じテーブルに座っている新田を見る。談話室はいつもどおり賑やかだが、俺たちの周りは妙に静かだ。原因はいつになく不機嫌そうな顔をした新田にある。普段明るいやつが不機嫌だと怖く見える。実際は怒っていると言うよりもふてくされているのだが、それに気づいているのは過ごす時間が長い俺くらい。
いや、この姿を大空が見たら、何ふてくされてんだと呆れたと思う。しかし、ここには大空はいない。今頃、小口さんや病院スタッフと話しているだろう。
「おーい、新田。いいのか? 大空、退院しちまうぞ」
もう会えないぞとは言えなかった。それを言ったら本当になってしまいそうで怖い。自分が退院できる可能性は低いし、新田は恋をするという行為に苦手意識か、トラウマを持っているようだ。退院は当分先だろう。
その間に外に出た大空はどんどん進んでいく。もともと、こんな狭い場所に収まっていたのが不思議なくらい活動的なやつなのだ。あっという間に俺たちを忘れて、広い世界で楽しくやるだろう。
それでいいと俺は思っている。こんな場所にずっといるより、その方が幸せだと思う。それでも大空から届くメッセージが減るごとに、俺は寂しく思うのだろう。
「仲直りしなくていいのか?」
これで最後かもしれないのにいいのかと念押しすると、新田の眉間に深いシワが寄る。珍しい表情だ。遠くから新田の様子をうかがっている荻原がソワソワしていた。
一昨日冷たくあしらわれたから声をかけにくいのだろう。それでも新田への好意を失わない姿は一途と言っていい。女子たちの中では女王のように振る舞っていると言うのに、本命に対してはずいぶん弱い。
恋は人を狂わせる。そんな言葉が頭に浮かんだが、恋という感情がよくわからない俺にはただ恐ろしいものにしか思えない。そんなものを知ってここにから出るより、外敵のいないここでただ息をしている方が楽だ。
しかし、大空はそうではなかった。きっと、目の前にいる新田だってそうじゃない。
「仲直りしに行こう」
俺の声に新田はノロノロと顔を動かした。迷いが見える。新田だってこのまま別れるなんて嫌に決まってる。ただ、どうしていいのか分からないのだ。日頃、自分の感情を隠しているやつだから。
「翔、謝ったら許してくれるかな」
「そんなに俺は心が狭いと思われてるのか」
新田の弱々しい声をかき消すように、少し不機嫌そうな声が響く。俺と新田は同時に顔を上げて、声のした方を見た。
そこには大空が仁王立ちしていた。その背には空を背負ったような大きな翅がない。その事実に俺の胸は締め付けられる。
祝うべきだとわかっているに、おいて行かれるような気持ちになる。
「か、翔……俺」
新田が何かを言おうとして言い淀む。下を向いた顔は暗い。ふだんが明るい分、別人のようだ。
そんな新田に大空は無言で近づいて、勢いよく頭を下げた。
「俺が悪かった」
新田が目を瞬かせる。俺も予想外のことに固まった。ただ大空だけはきれいな姿勢で頭を下げている。運動部らしく、まったく体がブレない。
「なんで翔が謝るんだよ。勝手に機嫌悪くなって、八つ当たりしたのは俺で……」
「八つ当たりしたくなるようなこと、俺が言ったからだろ。いくら寝不足でイライラしてても、言っちゃいけないことだった」
頭を下げているから大空の顔は見えない。それでも真摯な声から、真面目な顔をしているのは想像できた。
どうするのかと新田を見ると、新田は泣きそうな顔で大空を見つめている。その姿を見て、もう大丈夫だと思った。
「翔がカッコ良すぎる……」
「おい、俺は今真剣に謝ってるんだから茶化すな」
「茶化してないよ。本心」
新田の言葉に大空は顔を上げる。泣き笑いみたいな顔をした新田を見て、大空が驚いているのが表情で分かった。
「翔は出会った頃からずっとカッコいい。きっと、翔が高身長男子だったらかっこよすぎて女子が泥沼の争奪戦を繰り広げるから、神様に身長低くされたんだ」
「なんだそれ」
新田の本気なんだか冗談なんだか分からない言葉に、大空が吹き出す。つられたように新田も笑い、いつもの空気が戻ってきたことに俺は心底安心した。
「俺、今日ここを出てく」
しばし三人で笑ってから大空はそういった。分かっていたことだけど、本人の口から告げられると本当にお別れなんだという気持ちになる。寂しいという感情は隠して、綺麗にお別れしなければいけないのに、それが出来ているという自信がなかった。新田もなんとも言えない顔で大空を見つめている。
そんな俺たちをじっと見つめた大空は、ビシリと新田を指さした。
「だから、お前もさっさと出てこいよ」
「えっ、俺!?」
「なに驚いてんだ。天野は難しいかもしれないけど、お前は出れるだろ」
大空はなにをそんなに驚くことがあるという顔で眉をつり上げた。
「いや、でも……俺はさ……」
新田の歯切れが悪い。出来る、出来ないで言えば俺と違って新田は恋が出来るのだろうが、恋をしたいかと言われたらしたくないのだろう。どういう理由があるのか俺は知らないし、聞く気もないが、大空の言葉に新田が揺れているのは分かった。
大空はそんな新田を数秒見つめて、呆れた顔でため息をつく。
「仕方ないから、俺が遊びに来てやるよ。感謝しろよ。そう気軽にこれる距離じゃないんだからな」
今度は新田だけでなく俺まで目を見開いて固まった。大空は固まる俺たちを見て、もともと上がっていた眉をさらにつり上げた。
「お前ら、俺が退院したらもう会うこともないとか思ってたのか。ここを出たら連絡もしない、薄情な人間だと思ってたのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「だいたい出たら疎遠になるし……」
俺と新田は顔を見合わせる。俺たち三人はタイプが違う。学校だったら話すこともなかったと思う。虫籠という特殊な環境だからこそ親しくなれた相手だ。
だからこそ、ここを出て行った大空が俺を気にかけるとは思えなかった。外にはもっと沢山の人がいて、面白いことだって沢山ある。限られた場所と人の中、止まっているような日々を過ごす虫籠の中なんてあっという間に忘れてしまうと思っていた。
「疎遠になりたいのかよ」
ふてくされたような顔で大空が呟いた。思わず俺は頭を左右に振る。疎遠になりたいわけがない。こんなにも別れるのが寂しいのに。
「なりたくない」
隣から小さな声が聞こえた。新田らしくない小声は、らしくないからこそ本音だと分かる。その声をちゃんと拾った大空は歯を見せて笑った。
「じゃあ、問題無いな。遊びに来てやるから感謝しろよ」
自分で言っていて恥ずかしくなったのか、大空は若干顔を赤くして、くるりと俺たちに背を向けた。そのまま小柄とは思えない大股で遠ざかっていく後ろ姿を見て、俺と新田は顔を見合わせる。
きょとんとしていた顔は同時に笑みの形を作る。
大空が来る前、沈んでいたのが嘘みたいな笑顔を浮かべて、新田は席から立ち上がり、大空を追いかけた。俺も後に続いて談話室を後にする。小走りで大空を追いかけながら新田は声をあげた。
「まって、翔ちゃん! 俺、ご両親にご挨拶したい。こんなに立派な男の子を産んでくださって、ありがとうございますって」
「俺のなんなんだ、お前」
心底嫌そうな顔をして大空が振り返る。新田はフリスビーを投げられた犬みたいにはしゃいでいた。
「親友の新田隆二です」
「天野はともかく、お前は違う。せいぜい悪友だ」
「俺は親友だって認めてくれるのか」
ワイワイ騒いでいる二人に追いついて問いかけると、大空はなんとも言えない顔をした。お前まで新田みたいなことを言うのかという反応に、俺は笑ってしまう。
その背にもう翅はない。でも、なんの問題もない。もともと人間は空を飛ばないし、背中に翅なんて生えてない。
「大空、退院おめでとう」
やっと本心から言えた祝福に、大空が笑う。たったそれだけのことで俺は嬉しくなった。
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