6-6 最後の飛翔

 夜の温室の空気は冷え切っている。今日で最後だと思うと寂しさで胸が押しつぶされそうだけど、もうすぐ冬だ。温かい季節に比べれば飛べる日は格段に減る。ただでさえクピドの翅は寒さに弱く、人の体だって寒くなれば動きが鈍る。そんな状態で飛ぶのは自殺行為なので、飛ぶのに絶好の季節は春から夏。本当に蝶のようだと、改めて背に生えた翅の奇妙さを感じた。


 木々や、温室を囲む鉄骨の隙間から月と星が見える。最後の日が快晴になって良かった。曇りだったらもう少しと先延ばしにしてしまっただろう。そうしたら決意が鈍ってしまうところだった。


 無言で空を見上げていると、誰かが近づいてくる物音がした。メッセージを送っているから小口さんだと思うけれど、これで別の人だったら気まずいので、俺は何気ない風を装って顔を向ける。


 そこに居たのはちゃんと小口さんだった。連絡先を交換してからしばらく放置してしまったので、来てくれないかもしれないと思っていたのでほっとした。来なかったら来なかったで、一人の空を満喫して終わりにしようと思っていたが、観客がいるいないじゃテンションが違う。最後に見てくれるのが好きな人なら尚更だ。

 好き。そう認めたら翅がうずく。でもまだ。まだ落ちるなと俺は翅に力を込めた。


「急にごめん。来てくれてありがとう」

「大空くんこそ大丈夫? 最近、体調が悪そうだったけど」


 小口さんにもバッチリ俺の不調は見抜かれていたらしい。見抜かれていることに俺は全く気づいていなかった。それどころか、ここ数日小口さんがどこにいたかすら記憶にない。好きだと思いながらなんて奴だと思う。自分のことでいかに手一杯だったから見せつけられた。


「大丈夫。昼間、医務室でいっぱい寝たし」

「良かった」


 バツが悪くて顔を背けながらそういうと、小口さんは心底安心した様子で呟いた。良い子だなと思う。だから惹かれてしまったのだ。


「今日、俺が飛ぶとこ見てくれる?」


 そう言うと小口さんはパッと顔を輝かせた。月明かりしかない暗がりでも、暗闇になれた俺の目は小口さんの表情の変化がよく見えた。可愛いと思った瞬間、翅がまた震えたので俺はぐっと堪えて、すぐに飛び立つ準備をする。ここでのんびりしていると飛ぶ前に翅が落ちてしまいそうだ。


 地面に足をつけたまま翅を動かす。いつも通り、俺の手足のように自在に動いてくれるのを確認して、地面を蹴った。翅を動かし、空気を掴む。体はなるべく小さく、飛ぶ邪魔にならないようにしながら上を目指す。翅が風を掴むと一気に上昇する。

 ぐんぐんと登っていくと空気を切り裂いているような感覚に陥る。風と一体になっているような満足感、足下の不安定さも恐怖よりも本当に飛んでいるという充実感を感じさせる。


 空中でくるりと回る。視界の端に映ったクピドの翅が月明かりで輝いた。俺と一緒に翅も喜んでいるみたいで、ますます嬉しくなる。空が近くなり、地上が遠くなる。空中だったらどれだけ両手を広げて回ろうが誰の邪魔にもならない。誰の声も聞こえないし、誰の姿も見えない。

 世界が自分のものになったみたいな、世界と一つになったみたいな感覚で胸が満たされる。空気をいっぱいに吸い込むと、いつもよりも美味しく感じた。


 これで最後なのだと空を見上げる。相変わらず鉄骨で阻まれて、温室の外に行くことは出来ない。邪魔だと感じたそれに今は護られているような気がした。温室という区切りがなかったら俺はがむしゃらに登って、いつかは本当に落ちただろう。四谷は俺のことを信頼していたようだけど、飛んでいると理性や危機感はだんだん溶けていく。新田は誰よりも俺が飛ぶのを見ていたから、俺の悪い癖にも気づいていた。だから毎日、周囲から非難の目を向けられようと大声で俺を地上に引き戻していたのだ。


 名残惜しいなと思いながら俺は天上の鉄骨に触れる。今日で最後。温室の天井に触る機会などもうないだろう。冷たい感触すら忘れたくなくて、さようならと一撫でして俺は地上に降りる。

 地上には俺を見上げる小口さんがいた。自分を見上げる人の顔なんてちゃんと見たことがなかったけれど、ずいぶん表情が輝いている。それに期待してしまい、また翅がうずいた。最後の最後に落下死なんてごめんだと、慌てて地上に戻る。


 地面に足が着いた瞬間、どうしようもない寂しさに襲われた。これで本当に最後なんだと思ったら、昼間あんなに泣いたのにまた涙が出そうになって堪える。好きな相手の前で泣くなんて、格好悪いことはしたくなかった。


「大空くん?」


 俺の様子がおかしいことに気づいたらしい小口さんが、戸惑った様子で近づいてくる。俺は頭を振っていろんな感情を振り払った。自分で決めたのだ。今日が最後。俺は地面にちゃんと戻る。


「俺、小口さんのことが好きだ」


 いきなりの告白に歩み寄っていた小口さんの足が止まる。反応は驚きが強くて、俺に向ける感情はよく分からない。俺は怖じ気付く前にと気持ちを口にする。


「最初は俺よりも背が高くて、背が高いのにそれが嫌そうで、本音いうとあんまり好きじゃなかった。ムカつくなって思って見てたこともあったんだけど、見てたらなんか、俺が今まで見てきた女子と全然違って、人のことバカにしないし、優しいし、笑い方が可愛いし。気づいたら目で追ってて」


 小口さんの反応が見れない。早口で思ったことをただまくし立てる俺は相当ダメだと思う。姉貴がみたら「0点。いや、マイナス」と冷たい目で言ってきそうだ。

 でも、今の俺にはこれが限界だった。告白なんて一度もしたことがない。女子はみんな背の高い男が好きで、俺なんて眼中にないのだと知っていたから、女子なんて嫌いだと言って逃げていた。


「俺、小さいし、気も利かないし、新田みたいに空気読めないし、天野みたいに頭も良くないし、全然ダメだけど」


 最後の一言だけは顔を見て言わなきゃダメだと思って、俺は顔を上げる。小口さんは顔を赤くしていたけれど、それがどういう感情なのか、告白に必死な俺にはよく分からない。ただ、言わなきゃという衝動で叫ぶように告げた。


「俺、小口さんの事が好きです!」


 ストンと、背中から翅が落ちた。あんなに力強く風を掴んでいたのに、手足のように自由自在に動いてくれたのに、落ちるときはなんともあっけなかった。

 告白出来たという達成感が、翅が落ちてしまったという喪失感で塗り替えられる。またもや泣きそうになって、俺は必死に感情の波を抑えつけた。告白したのに泣くなんて、いくらデリカシーのない俺でも最悪だって分かるから。


 でも、小口さんの顔は見れなかった。感情をおさえるのに必死で、落ちた翅を拾うことすら出来ない。

 立ち尽くす俺に小口さんが近づいてきて、横にしゃがむと俺の落ちた翅を拾いあげた。晴れ渡った空みたいな青い翅。晴天に俺が飛んでると翅が空に溶けて、翅もないのに飛んでるみたいに見えると新田が言っていた。

 二年にも満たない付き合いなのに、大事な何かが抜け落ちてしまったような悲しみが襲ってくる。


「この翅、大空くんみたいだなってずっと思っていたの」


 小口さんは丁寧に翅を持ち上げた。自分の翅を正面から見るのは初めてだった。これがずっと自分を支えてくれたのだと思ったら胸がいっぱいになる。


「大空くんみたいに大きくて、綺麗で、カッコいい翅だなって」

「大きい? 俺が?」

「うん。大空くん、たしかに身長は小さいけど、人として大きい。年上にも動じないし、新田くんとか天野くんとか、私は話かけられないような人とも仲良くなっちゃうし、嫌なことはハッキリ嫌っていうし。私が身長でからかわれた時だって助けてくれた」

 小口さんはそういうと何かを決意したような顔で俺を見つめた。


「あの時から、私も大空くんのこと、好きだなってずっと思ってました。付き合ってください!」


 俺の翅を盛ったまま、小口さんは勢いよく頭を下げる。その背から、小口さんの白くて可愛い翅がひらり、ひらりと地面に落ちた。それを俺は呆然と見つめる。


「……俺、小さいぞ?」


 女子はいざって時に護ってくれそうな男が好きなのだ。小さい俺じゃ高身長な小口さんを護れないし、隣に並んだらちぐはぐだ。恋人というよりも姉と弟に見えるだろう。


「それを言ったら私だって大きいよ。男子はみんな自分より小さくて、可愛い子が好きでしょ?」

「小口さんは可愛いだろ。誰だよ、可愛くないって言う奴」

「それを言ったら大空くんだってカッコいいよ。誰? 格好悪いって言った人」


 俺たちはなぜか喧嘩腰で無言でしばしにらみ合い、同時に吹き出した。

 小さい、大きい。お互いに物心ついた頃から言われ続けてきた言葉。俺が小さい俺なんてと思っているのと同じように、小口さんも大きい私なんてと思ってきたのだろう。だとしたら、俺以上に小口さんの気持ちを分かる人なんていないと思う。


「俺こそ、よろしくお願いします」


 そういって手を差し出すと、小口さんは慌てた様子で手を差し出してくれた。拾った俺の翅なんてそこら辺に放っておいてくれてもいいのに、大事に、傷つけないようにもってくれている。それが俺のコンプレックスもまとめて抱きしめてくれているようで、嬉しかった。


 きっと俺は小口さんと出会うためにクピド症候群になったのだ。

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