6-5 人間の限界

 新田が病気を治すことに消極的なことは知っていた。分かりやすくモーションをかけてくる荻原に対して面倒くさそうな対応をしていたし、地元で遊びすぎたのであんまり帰りたくないと、よく言っていた。

 新田は平然と嘘をつく奴なので、俺は話し半分で聞いていた。何かあるんだろうなとは思っていたが、天野が両親と上手くいっていないみたいな、重いものではないんだろうと思っていた。軽い感じで笑う姿に不幸とか、辛い過去とか、そういう重たいものが結び着かなかったからだ。


 だから、四谷が言った言葉に殴られたような衝撃を受けた。新田に限ってそんなという気持ちと、四谷が嘘をつくはずがないという気持ちがぶつかり合う。言ったのが長谷川だったら笑い飛ばせたのに、相手が四谷であったら受け入れるしかない。


 四谷はどこまで話していいか悩むように、ゆっくりと話を続けた。医者だから守秘義務とか、いろいろあるんだろう。俺に今話してくれていることも、本来であれば言ってはいけないものなのだろうとバカな俺でもわかる。それでも話してくれたのは俺が子供で、新田の友達だからなのだと思う。


「ご両親からうかがった話だが、婚約者と一緒に結婚式場の下見にいった帰り、交通事故で二人ともなくなったそうだ。当時の新田さんはまだ小学生で、お兄さんの死が相当ショックだったのか、それから性格が激変したと聞いた」

「激変?」

「今からは想像できないが、お兄さんが亡くなる前は大人しい、人見知りする性格だったようだ」


 本当に、全く、欠片も想像できなくて、俺は固まった。四谷も初めて聞いた時は俺と同じく驚いたのか、「だよなあ」と呟いている。

 虫籠に来たばかりの頃の村瀬を思い出し、村瀬と同じ言動をする新田を想像してみたが、変な薬を飲まされたとしか思えない。大人しい新田という衝撃に固まる俺をよそに、四谷は話を続ける。


「新田さんは今園さんにも胸の内を語らないから、何を思っているのかよく分からない。だが、彼にとってお兄さんの死というものが大きな影響を与えているのは間違いない。身近な人間が亡くなっている分、普通の子供よりも死というものが身近で、現実的な危機だという実感が強いんだ」


 ばあちゃんが入院すると聞いて、初めて死というものを俺は意識した。人が死ぬってことは知っているし、落下死する者がいることを知っていても、俺の中でそれは他人事だったのだ。

 だが、新田にとってはそうではなかった。兄の死を経験している新田にとって、俺が落下して死ぬことは十分想像できるものだったのだ。だから毎日俺の様子を見ていた。兄のように死なないように。


「……なんでアイツ、そういう大事なこと言わねえんだ」


 マグカップを握りしめる。白い水面には怒りで眉をつり上げる俺の顔がしっかり映っていた。

 いくらデリカシーがないって言われる俺だって、新田の兄が亡くなっていることを聞いていれば、もう少し配慮したと思う。落ちたらどうしようという新田の不安に、少しは寄り添うことが出来たと思う。

 それなのに、なんでアイツは平気なフリをして、冗談みたいな軽さで俺に接していたのだろう。もっと本心で喋ってくれたら、今日みたいに傷つけることだってなかったかもしれないのに。


「大事なことだからこそ、言えない人間もいる」


 四谷の静かな声を耳が拾って、俺は奥歯を噛みしめた。

 俺だって何でもかんでも人に言えるわけじゃない。身長コンプレックスは俺にとって人に言えないことだ。チビ、かわいいと言われるたびに定番ネタみたいに怒っているけれど、本当は傷ついている。本気で人に触れられたくない話題だけど、本心をさらけ出して「冗談なのに」とか「そんなこと本気で気にしてんの?」って軽い感じで返されるのも嫌なのだ。身長が低いことを気にして、その言葉で傷つく自分も嫌いなのだ。

 本当は気にしない自分になりたい。小さくたって別にいいって胸を張れる自分になりたい。そう思った時、新田の気持ちが分かった。新田も俺と同じ。乗り越えたいのに乗り越えられなくて、弱い自分を隠したくて。そうしてできあがったのがあの胡散臭い姿なのだ。


 はあと深く息を吐き出した。急に全部、悩んでいることがアホらしく思えてきた。新田も俺も、ずいぶん回りくどいことをしている。きっと不安だ、辛いって口に出した方が早い。解決できなくたって、多少気持ちはスッキリする。

 でも出来ない。俺はプライドが許さない。新田はプライドっていうよりかは臆病なのだと思う。元が村瀬みたいな性格なら、今はずいぶん無理しているのかもしれない。


 新田に比べれば俺の悩みなんて軽い。そう考えるのも性格が悪いけど、俺の悩みはどうにでもなる。俺は死んでない。今後も死ぬ予定はない。


「俺、本当に飛ぶの好きだったんだ……」


 唐突な独り言。でも四谷は聞いてくれると知っている。顔を見なくても、耳をすませて真剣に聞いてくれているのが分かっているから、俺は自分の本音をちゃんと口に出す。


「小さくても良いって、そのために生まれてきたって言ってもらえて嬉しかったんだ。小さくても残念じゃないんだって、小さいから出来ることもあるんだって、そう思えてほんっとうに嬉しかったんだ」


 話している間にまた涙がこぼれてきた。みっともないと思うのに、ぬぐう気になれない。ボタボタと雫が落ちて、マグカップを持つ俺の手をぬらす。水面に映る俺の顔がよく見えないのは涙のせいだ。


「分かってる。こんなの現実逃避だ。人間の背中に蝶の翅はない。ずっと俺はここにいられないし、いちゃいけない。母さんも父さんも、姉ちゃんやばあちゃんだって俺のこと待ってる。俺はここから出られるんだから、出なくちゃいけないんだ」


 風を切る感覚を思い出して、あー嫌だなと思う。あの感覚を、もう二度と味わえないのは悲しい。本音はもっと飛びたい。まだここに居たい。でも、そうしてここにいる間に取り返しのつかないことになってしまったら、俺は後悔すると思う。きっと飛ぶために残った自分を許せない。だからここで終わりにして、きれいな思い出にした方がいいのだ。


 溢れる涙をそのままにしていると四谷が立ち上がる気配がして、何かを持って戻ってきた。差し出されたのはタオルで、俺はそれを無言で受け取ると顔を押しつける。


「俺も、大空さんが飛んでいる姿を見られなくなるのは寂しい」

「……残りたくなるようなこと言うなよ」


 タオルから少しだけ顔を上げて睨み付けると、四谷は珍しく笑った。下がった眉を見て、四谷も寂しがってくれていると思ったらほっとした。名残惜しく感じているのは俺だけじゃない。


「……最後に一回、夜の飛行見逃してくれないか?」


 ボソボソと告げると四谷は少し困った顔をしてから、仕方ないという顔で頷いた。

 俺がすぐに退院出来ると認識していることに驚かないのを見ても、とっくに俺の気持ちはバレていたのだろう。それに気づいたら今度は頬が熱くなってきて、誤魔化すためにタオルを顔に押しつける。


「最後なら、思い残すことのないようにゆっくり寝るといい」


 タオルに顔を埋めたままの俺の背を四谷が一定のリズムで叩く。子供扱いすんなと言いたいところなのに、そのリズムが眠気を誘ってきた。

 あれだけ眠るのが怖かったのに、思っていることを吐き出した今は体が睡眠を求めているのがよく分かった。すぐ近くにあるベッドに行くのも億劫なほど、急激に意識が眠りの中へと引っ張りこまれていく。


 かろうじて残っている意識で、俺が持っていたマグカップを四谷が避難させてくれて、俺の体を持ち上げたのが分かった。軽々持ち上がった自分の小ささに不満はあるが、まあ仕方ないかという気持ちにもなる。人間の体に飛ぶ翅がないように、人間の体は自分の望む通りにはできあがらない。ここに来て、俺はやっとそれを飲み込むことが出来たのだ。


 俺は久々に、夢も見ないほど深く眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る